第10話 旅立ち
出発の日は、曇り空だった。
朝から家族総出で準備を手伝ってくれた。母さんは保存食を山ほど詰め込んだ袋を用意し、父さんは旅に使える小刀を持たせてくれた。ミラは手作りのお守りをくれた。下手くそな刺繍で「無事」と縫ってある。
「ミラ、これ——」
「笑わないでよ。一晩で作ったんだから」
「笑ってない。ありがとう」
本当に笑ってない。むしろ泣きそうだ。
ベルトは「俺からは特にない」と言いつつ、革の水筒を差し出してきた。使い込まれているけど、まだ十分使える。
「これ、兄さんのじゃん」
「いらないなら返せ」
「いる。ありがとう」
「……気をつけろよ」
ベルトはそれだけ言って、そっぽを向いた。照れているらしい。この兄がこんな顔するの、初めて見た。
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トーマは玄関先で待っていた。
「準備できたか」
「うん」
「忘れ物は」
「たぶん、ない」
「たぶん、じゃなくて確認しろ」
「大丈夫だって」
トーマは腕を組んで、私をじっと見た。何か言いたそうな顔だ。
「……なに」
「いや」
「言いたいことあるなら言ってよ」
「だから、ない」
「嘘。顔に書いてある」
トーマは少し黙ってから、ぽつりと言った。
「あの男のこと、まだ完全には信用してない」
「カイルさんのこと?」
「ああ。悪い奴じゃなさそうだが、腹の底が見えん」
「まあ、確かに何考えてるか分かりにくいよね」
「だから、気をつけろ。何かおかしいと思ったら、すぐに帰ってこい」
「分かった」
「約束だぞ」
「うん、約束」
トーマは満足したように頷いた。それから、少しだけ表情を緩めた。
「元気でな」
「兄さんも」
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村の入り口に、カイルが待っていた。
馬を二頭連れている。前と同じ馬だ。あれからまた借りてきたらしい。
「準備はできましたか」
「はい」
「では——」
カイルが言いかけた時、後ろから足音が聞こえた。振り返ると、ルッツが走ってきた。
「待って、姉ちゃん」
「ルッツ? どうしたの」
「これ」
ルッツが差し出したのは、布に包まれた何かだった。受け取って開けてみると、干し肉が入っていた。
「お前の好きなやつ」
「え、でもこれルッツの——」
「いいの。姉ちゃんにあげる」
ルッツは鼻をすすっていた。泣いているわけじゃない。たぶん、泣くのを我慢している。
「ありがとう。大事に食べるね」
「うん」
「ルッツも、いい子にしてるんだよ」
「俺いつもいい子だし」
「そうだね。草むしりもちゃんとやってね」
「……それ言う?」
「言う」
ルッツがむくれた。でも、すぐに顔を上げて、私の目を見た。
「約束、忘れないでね」
「忘れないよ」
「絶対帰ってくるって言った」
「うん。絶対帰ってくる」
ルッツは頷いて、踵を返した。走って家族のところに戻っていく。小さな背中が遠ざかっていく。
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私は馬に跨った。
家族がこちらを見ている。父さん、母さん、トーマ、ベルト、ミラ、ルッツ。みんな手を振っている。
私も手を振り返した。
「行ってきます」
声が震えた。でも、振り返らない。振り返ったら、行けなくなる。
馬が歩き出す。村の風景が、少しずつ後ろに流れていく。見慣れた畑、見慣れた家々、見慣れた人々。十七年間過ごした場所。私の故郷。
「……大丈夫ですか」
カイルが静かに聞いた。
「大丈夫じゃないけど、大丈夫です」
「また意味が分かりません」
「前も言ったでしょ。気合いで何とかするってことです」
カイルは何も言わなかった。でも、少しだけ歩調を緩めてくれた気がする。この人なりの気遣いなんだろう。
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村が見えなくなった頃、私は聞いた。
「これから、どこに行くんですか」
「まずは俺の館に戻ります。そこで基礎的な訓練を続けながら、次の行き先を決めましょう」
「次の行き先?」
「過去の勇者たちの足跡を辿る旅です。彼らが何を見て、何を感じて、どう生きたか。それを知ることは、あなた自身が勇者としてどう生きるかを決める助けになるはずです」
過去の勇者たちの足跡。三十一人分の人生。途方もない旅になりそうだ。
「全部回るんですか」
「全部は無理でしょう。でも、重要な場所はいくつかあります。始まりの丘、北方諸侯領、聖王国——」
「聖王国?」
「勇者信仰の中心地です。いずれ行くことになるでしょう」
知らない地名がいくつも出てきた。私が知っているのは、この村と、近くの町くらいだ。世界は広い。当たり前のことだけど、今まで実感したことがなかった。
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街道を進みながら、私は空を見上げた。
曇り空だったのが、少しずつ晴れてきている。雲の切れ間から、光が差し込んでいる。
「カイルさん」
「はい」
「私、本当に勇者になれるんですかね」
「なれるも何も、あなたはもう勇者です」
「そうじゃなくて。ちゃんとした勇者というか、みんなが思い描くような勇者というか」
「みんなが思い描くような勇者」
カイルが少し考え込む顔をした。
「三十一人の勇者がいて、三十一通りの生き方がありました。災厄と戦って死んだ者もいれば、アシェルのように戦わずに生涯を終えた者もいる。誰一人として同じ勇者はいなかった」
「じゃあ、正解はないってことですか」
「正解はありません。ただ——」
カイルが私を見た。灰色の瞳が、まっすぐに私を捉えている。
「どんな勇者になるかは、自分で決めていいんです」
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自分で決めていい。
その言葉が、胸に響いた。
生まれた時から勇者だった。選ぶ余地はなかった。でも、これからどう生きるかは、自分で決められる。戦うか、戦わないか。何を守るか、何のために力を使うか。それは私自身が選ぶことだ。
「……それ、ちょっと気が楽になりました」
「そうですか」
「でも、決めるのも怖いですね。自分で決めたら、自分の責任だから」
「それはそうです」
「もうちょっと慰めてくれてもいいんじゃないですか」
「慰めるのは苦手なので」
「知ってます」
カイルが少しだけ口元を緩めた。笑った、というほどではないけど、いつもよりは柔らかい表情だ。
「ただ、一つだけ約束できることがあります」
「何ですか」
「俺はあなたの傍にいます。あなたが何を選んでも、どんな勇者になっても、俺はあなたを支えます。それがヴィア家の役目であり——」
カイルが一瞬言葉を切った。
「——俺自身の意志でもあります」
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俺自身の意志。
役目だけじゃなく、意志。その言葉の重みが、じわじわと伝わってきた。
「……ありがとうございます」
「礼には及びません」
「及びますよ。だって、私一人じゃ何もできないし」
「そんなことはないと思いますが」
「あります。方向音痴だし、地理分からないし、魔法も使えないし」
「魔法は少し使えるようになりました」
「暴発しただけじゃないですか」
「それでも、使えることには変わりない」
カイルの言い方がおかしくて、私は思わず笑った。この人、真面目なのか天然なのか、時々分からなくなる。
「じゃあ、よろしくお願いします。カイルさん」
「はい。よろしくお願いします。リーネさん」
馬が歩いていく。知らない道を、知らない場所へ。
振り返らない。振り返らないと決めた。でも、心の中で呟いた。
行ってきます。待っててね。絶対帰るから。
空は晴れていた。雲の切れ間から、光が降り注いでいた。




