第1話 畑を耕す少女
朝靄が畑を覆っている。私は鍬を振り上げ、まだ眠気の残る体に喝を入れた。吐く息が白い。春が近いとはいえ、夜明け前の空気は容赦なく冷たかった。
ざく、と土が裂ける。一列終わり。振り返れば、まだ三列残っている。
五人兄弟の真ん中という立場は、何かと損だと思う。上の兄二人は「もう大人だから」と別の仕事を任され、下の二人は「まだ子供だから」と甘やかされる。結局、畑仕事の主戦力は私だ。
ちなみに昨日、次兄のベルトに「たまには手伝ってよ」と言ったら、「俺は家畜の世話で忙しいんだ」と返された。あいつの世話してる家畜、鶏三羽だけなんだけど。
文句を言っても仕方ないのは分かってる。分かってるけど、たまには言いたくもなる。私は息を吐いて、再び鍬を振り上げた。
---
昼前には作業が終わった。家に戻ると、母さんが竈の前に立っていた。鍋からは豆のスープの匂い。お腹が鳴りそうになるのを堪える。
「おかえり、リーネ。早かったね」
「今日は土が柔らかかったから」
「そう。じゃあ午後は市場に行ってきてくれる? 塩が切れそうなの」
断る理由もない。私は頷いて、井戸で手を洗いに行った。
途中、縁側で日向ぼっこしている末弟のルッツとすれ違う。八歳。まだまだ子供だ。
「あ、リーネ姉ちゃん。おつかれー」
「おつかれー、じゃないよ。あんたも手伝いなさいよ」
「えー、俺まだ子供だし」
「都合のいい時だけ子供になるのやめなさい。昨日、父さんのお酒こっそり舐めてたの知ってるからね」
ルッツの顔が引きつった。私は「言わないであげるから、今度草むしり手伝いなさい」と付け加えて、井戸に向かった。背後で「うう……」という呻き声が聞こえる。交渉成立。
冷たい水で顔を洗う。水面に自分の顔が映った。亜麻色の髪、そばかすの残る頬。どこにでもいる農家の娘。それが私、リーネ・アルトス。十七年間、この村で生まれ育った普通の女。
ふと、右目の奥がずきりと痛んだ。
「……また?」
最近、時々こうなる。痛みというより、熱を持つような感覚。目を擦っても治まらない。すぐに消えるから気にしないようにしてるけど、正直、少し不気味だ。
---
午後、私は村の市場を歩いていた。
この村はゼファール魔導連邦の辺境にある。連邦といっても、魔法技術の恩恵なんてここまで届かない。住民のほとんどは農業か牧畜で暮らしてる。私の家も、その一つ。
「おっ、リーネちゃん。今日も元気そうだね」
馴染みの商人、ゴードンおじさんが手を挙げた。恰幅のいい中年男で、いつも陽気だ。
「おじさんこそ。腰、大丈夫?」
「まあぼちぼちだよ。この前よりはマシかな」
「無理しないでよ。おじさん倒れたら誰が塩売るの」
「はは、心配してくれてんのか、商売の心配か、どっちだい」
「もちろん塩の心配」
「ひでえな!」
おじさんはカラカラ笑いながら、塩の袋を取り出した。「ほら、いいのが入ったよ」
塩を買って、ついでに干し肉も少し。末弟のルッツが好きなのだ。あいつ、肉を見ると目の色が変わる。さっき弱みを握ったばかりだけど、まあ、これはこれ。姉としての優しさということにしておこう。
帰り道、私は空を見上げた。雲が流れていく。のどかな午後。平和な日常。なのに、胸のどこかがざわつく。
あの夢のせいだ。
---
夢を見るようになったのは、三年ほど前からだった。
最初は曖昧だった。剣戟の音、誰かの叫び声、光と闇がぶつかり合う感覚。断片的で、目が覚めるとすぐに忘れてしまうような夢。でも最近、夢の輪郭がはっきりしてきた。
戦場だ。見たこともない場所で、見たこともない武器を持って、私は——いや、「誰か」は戦っている。巨大な影を相手に、光り輝く剣を振るっている。
恐ろしいはずなのに、夢の中の「誰か」は恐れていない。むしろ、当然のことのように戦っている。まるで、そうすることが生まれた時から決まっていたみたいに。
目が覚めると、決まって右目の奥が熱い。夢の中の光がまだ残っているみたいに、じんわりと。
---
夕食の席は、いつも通り賑やかだった。
長兄のトーマが仕事の話をして、次兄のベルトが茶々を入れる。妹のミラが笑い、末弟のルッツが早速干し肉を頬張っている。あ、あいつ、私の分まで手を伸ばしてる。
「こら、ルッツ。それ私の」
「えー、姉ちゃん食べないかと思って」
「思ってないでしょ。目が完全に確信犯の目だったでしょ今」
「リーネ姉ちゃん最近キビシイ……」
「草むしり手伝ってくれるいい子には優しくするよ」
ルッツが押し黙った。ベルトが「何の話?」と首を傾げているが、私とルッツは目を合わせて沈黙を守る。秘密を共有すると妙な連帯感が生まれるものだ。
「リーネ、どうした? さっきから食が進んでないぞ」
トーマに指摘されて、私は我に返った。
「ああ、うん。ちょっとぼんやりしてた」
「また変な夢でも見たか?」
「……まあね」
トーマは眉をひそめた。長兄は家族の中で一番鋭い。私が夢のことを気にしてるのを、薄々察してるんだと思う。昔から、隠し事ができない相手だ。
「気になるなら、今度街の医者に診てもらうか?」
「大げさだよ。ただの夢だって」
私は笑って誤魔化した。本当に、ただの夢だと思いたかった。だって、それ以外に何だって言うんだ。私はただの農家の娘で、剣なんて握ったこともない。夢の中の「誰か」と私に、何の関係があるっていうの。
---
その夜、私は寝床に潜り込んで目を閉じた。明日も早い。早く寝なきゃ。そう思うのに、なかなか眠れない。右目の奥が、微かに熱を持っている気がする。
やがて、意識が沈んでいく。
——夢を見た。今までで、一番鮮明な夢だった。
荒野だ。空は赤黒く染まり、大地はひび割れている。世界の終わりのような光景。その中央に、「誰か」が立っている。白銀の鎧、光を放つ剣。背中には深い傷を負い、血を流しながらも、その人物は立ち続けている。
目の前には、巨大な「闇」があった。形を持たない、純粋な闇。それが意思を持っているかのように蠢いて、「誰か」に向かって圧し掛かろうとしている。
「——まだだ」
声が聞こえた。低く、けれど力強い。男の声。
「俺が立っている限り、お前を止める」
剣が掲げられる。その瞬間、世界が光に包まれて——
---
私は目を覚ました。
心臓がうるさい。額に汗が滲んでいる。窓の外はまだ暗くて、夜明けには遠い時刻だった。
「……なに、今の」
今までの夢とは違った。あの男の声が、まだ耳に残っている。あの決意に満ちた声が、頭の中で響いている。そして——右目の奥が熱い。今までで一番、強く。
私は目を擦った。痛みはない。ただ、何かが内側から疼いているような感覚。まるで、目の奥に小さな炎が灯っているみたいな。
「……寝よう」
考えても仕方ない。私は自分に言い聞かせて、再び目を閉じた。
眠りに落ちる直前、ふと思った。あの夢の中の「誰か」。あの人は、何と戦っていたんだろう。そして——なぜ、私がその夢を見るんだろう。私みたいな、畑を耕すしか能がない娘が、どうしてあんな夢を。
答えは出ないまま、私は眠りに落ちた。
---
翌朝、目を覚ますと、村がざわついていた。
「見知らぬ男が来てる」「黒い外套を着た若い男だ」「誰かを探してるらしい」
井戸端で近所のおばさんたちが噂話をしている。私は顔を洗いながら、なんとなくその話に耳を傾けた。
旅人なんて珍しくもない。この村は街道沿いだから、時々通りすがりの人が立ち寄る。でも、「誰かを探してる」というのは少し気になった。
まあ、私には関係ないだろう。
そう思いながら、私は朝食の席についた。ルッツが「今日の草むしり何時から?」と恨めしそうな目で聞いてきたので、「昼から」と答えておいた。右目の奥の熱は、まだ微かに残っていた。




