表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/5

第3話 “ほんの少しの生きたい”は、腕の中で生まれた

 俺と明夜は、廃屋の中央で向かい合っていた。


 腐った床板の軋む音すら聞こえない静寂の中、明夜はランタンの灯りに照らされながら、ゆっくりと立ち上がった。


「……じゃあ、その……」


 彼女が何か言いかけて、すぐに口をつぐむ。その唇が、何度も形を変えて揺れていた。


「……一ノ瀬さん。あの、いえ……尚人さん、って呼んでもいいですか?」


 その声音は、かすかに震えていた。


 俺は小さく息を吐きながら、無理やり口角を上げる。


「ああ、構わないよ。俺も、最初から明夜って呼んでたしな」


 言葉にしてみると、自分の声も少しだけ震えているのがわかった。


 こんな夜に、こんな状況で、誰かの名前を呼び合うなんて――普通じゃない。でも、普通じゃないからこそ、名前を呼ぶことが、変に嬉しかった。


 数秒の沈黙が落ちる。


 空気が重たい。けれど、ぬるいだけじゃない。どこかで、何かがほどける気配もあった。


「……それじゃあ、よろしくお願いします」


 明夜がほんの一歩、こちらに近づいた。


 身体の動きにぎこちなさが残っている。震えているのが、わかる。


 俺も同じように、一歩踏み出す。


 そして、躊躇いがちに、けれど確かに、彼女の肩に腕をまわした。


 そっと、壊れ物を包むように、優しく抱きしめる。


 ――時間が、止まったようだった。


 なにも言えなかった。


 なにも聞こえなかった。


 ただ、腕の中の少女のかすかな震えだけが、俺に「生きてる」という事実を教えてくれていた。


 壊れそうなくらい、軽くて、細くて、脆い体。

 それでもその小さな背中には、目に見えない重たいものが、ずっとのしかかっていたんだろう。


 頬に触れた彼女の髪から、微かに木の匂いがした。


 湿った、冷えた空気の中で、それだけが妙に生っぽくて――やけに胸に刺さった。


 生きている。俺も、彼女も。


 なのに、どうしてこんなにも苦しいのか。


 明夜は、最初、反応を返さなかった。


 まるで、自分の存在が、今この抱擁に値するものかどうかを、確かめているようだった。


 長い、長い沈黙のあと。


 彼女の両腕が、ゆっくりと、俺の背中にまわされた。


 細い指先が、俺のシャツをぎゅっと掴む。その手は、震えていた。けれど、それでも確かに――求めていた。


「……こんなふうに、誰かに抱きしめてもらうの……いつぶりだろう」


 明夜がぽつりと呟く。


 懐かしさ。戸惑い。安堵。すべてが混ざった声だった。


 俺は、何も言わず、彼女を包む腕に、そっと力をこめた。


 木々のざわめきが遠くから聞こえる。

 虫の鳴き声ひとつない夜に、風の音だけが、生の証のように存在していた。


 明夜の頬が、俺の胸元にふれる。

 冷たい。でも、確かに――生きていた。


 彼女の鼓動が、微かに伝わってくる。


 それは小さな音で、とても不安定なリズムだったけれど、たしかに“ここにいる”と主張していた。


「……私、ずっと思ってたんです」


 明夜の声が、かすかに震えた。


「誰にも気づかれずに、消えていけたら一番楽だなって」


 その言葉に、俺は少しだけ目を閉じた。


 わかる。俺も、何度もそう思ってきた。


「……でもね、こうやって誰かに触れられるのって、意外と、あったかいんですね」


 その瞬間だった。


 明夜の身体が、わずかに揺れた。


 そのまま崩れるように、彼女の腕が俺の背にしがみついてきた。


 肩に額が当たる。


 しばらくしてから、俺は彼女の頬に触れる感覚に気づいた。


 ――濡れている。


 涙だった。


 それは、音も言葉もない感情の奔流だった。


「……明夜」


「……はい……」


「お前がここにいること、俺はちゃんと知ってる。

 ちゃんと、今、明夜のことを考えてるぞ」


 俺の言葉に、明夜の手がそっと俺の服の裾を掴んだ。


「尚人さんって、もしかして、優しい人ですか?」


「いや、ただ、モテたいだけかもしれない」


「……ふふっ」


 明夜がかすかに笑った。


 その笑顔は、小さな光だった。


 壊れかけた心の隙間に、そっと差し込んで、そっと温めるような――そんな、やわらかい光。


 そして、気づけば――俺も泣いていた。


 誰かの涙が、こんなにも胸に刺さるなんて思ってなかった。

 誰かの震える声が、こんなにも、心を溶かすなんて――知らなかった。


 明夜の手が、俺の手をぎゅっと握った。


 俺はもう一度、彼女の手を握り返した。


 空気が、ほんのわずかに変わってきていた。


 廃屋の隙間から吹き込む風の音に、かすかな鳥の声が混じり始める。


 夜明けが近づいているのだと、ぼんやりと気づいた。


 明夜は、俺の腕の中で目を閉じたまま、静かに息をしていた。

 さっきよりも少しだけ深く、落ち着いた呼吸。


 俺たちは、まだ生きていた。

 お互い、死に場所を求めてここに来たのに、今はただ、こうして生きていた。


「明夜」


 呼びかけると、彼女はそっと目を開けた。


「……ごめんなさい。いっぱい泣いちゃって」


「謝らなくていいよ。……泣けてよかったんだと思う」


「どうして?」


「だって、痛いってちゃんと感じられるってことだろ?

 それってたぶん、まだ生きてるってことだ」


「……そんなふうに言われたの、初めてです」


 明夜は、うっすらと笑った。その笑みはまだ不安定だけど、どこかあたたかかった。


 もう何も喋らなくてもいいと思っていたのに、気づけば、言葉がぽろぽろこぼれ落ちる。


「俺さ……昔からずっと思ってたんだ」


「なにを?」


「“このまま誰にも知られずに死ねたら、それでいい”って。でも、誰かに“生きててもいい”って言われたかっただけなのかもなって、今は思ってる」


 明夜は何も言わず、俺の袖をそっとつまんだ。


「尚人さん」


「うん」


「……朝日、見たことありますか?」


 その問いに、思わず笑ってしまいそうになる。


「当たり前だろ。見飽きるほど」


「でも、“死にたい朝”に見たことありますか?」


「……いや、それは、ないかもな」


「私はあるんです。何度も。だけど、今日だけは……なんか、ちょっとだけ違う気がして」


「何が?」


「このまま、朝日がすごくきれいだったら……明日も見たいって思っちゃいそうで、こわいんです。

 ……無駄な希望を持ってしまいそうで……」


「わかるよ」


 俺は頷いた。


「俺もそうだ。ずっとそうだった。“生きたい”なんて思わない方が楽だって思ってた。期待なんか、裏切られるだけだし」


「……尚人さんも、そう思ってたんだ」


「ああ。でも今は……」


「今は?」


「……“それでもいいかも”って、ちょっとだけ思った」


「“それでもいいかも”……」


 明夜はその言葉を繰り返すように呟いた。


 それから、そっと俺の胸に頭を預けた。


「尚人さん。今日だけでいいから、一緒に朝日、見てくれませんか」


「……もちろん」


 俺は、迷わずそう答えた。


 誰にも見つからずに死にたくて来たこの場所で、誰かと一緒に朝日を見ることになるなんて、思ってもみなかった。


 でも今は――その思ってもみなかったことに、少しだけ救われている自分がいる。


 明夜が、そっと呟く。


「……私ね、ずっと思ってたんです。

 自分なんかが誰かの隣にいちゃいけない。

 でも、尚人さんとこうしてると……ちょっとだけ、ここにいてもいいのかなって思えてきます」


「それなら、俺の方こそだよ。……お前がいてくれて、少しだけ、助かった気がする」


 互いに何かを背負って、互いに壊れかけていて、でも――それでも、今だけは支え合えていた。


 俺たちは、たぶん今日も明日も死にたいって思うかもしれない。


 でもそれでも、「今、この瞬間だけは」そうじゃないって思えた。


 その一瞬の気持ちが、消えないまま夜明けを迎えたなら――それでいいんじゃないかって、今は思える。



  ◇ ◇ ◇



 窓の外が、ほんのりと明るくなり始めていた。


 夜が終わる。


 俺たちの、死に場所だったはずの夜が――終わろうとしていた。


 何かが、少しだけ変わった気がする。

 死にたい理由が、消えたわけじゃない。

 だけど、死ななくちゃって気持ちが、ほんの少しだけ、どこかへ流れていった。


「尚人さん……今日は、ありがとう。

 生まれてから一番、あったかい夜でした」


「俺も……生きてて、初めて“誰かのために何かできた”って思えたよ」


 明夜が、そっと俺の手を握る。

 その指先は、もう震えていなかった。


「尚人さん。……もう少しだけ、一緒にいてくれますか?」


「もちろん。夜が明けても、俺はここにいるよ」


 ――夜が、明ける。


 そして、またひとつ明日がやってくる。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ