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第2話 “死ぬ前に、誰かに優しくされたかっただけなんです”


 それからだろうか、明夜の口数が増えたのは。

 お互いのことを喋るようになった。


 どこから来たのか。

 家族・親戚との関係は。

 友達はいるのか、いたらどんな友達か。

 人生で一番楽しかったことは。


 果ては、子どもの頃の将来の夢まで話した。

 サッカー選手になりたかったとか、魔法少女に憧れてたとか。

 他愛もない話に、時折笑い声も混ざった。


 明夜の顔から、少しずつ表情が浮かぶようになっていた。

 無表情ではない。まだ堅さはあるが、確かに“心”が見えてきていた。


 そんな取りとめのない話を続けているうちに、腕時計は0時を回った。


 普段ならとっくに眠い時間だ。

 けれど今は、眠気なんて微塵も感じない。

 明夜も同じように、静かに座ってこちらを見ていた。


「……ねえ、一ノ瀬さん」


「ん?」


「ちょっとだけ、変なこと言ってもいいですか?」


「変なことばっかり言ってるじゃないか、お前」


 思わず笑って返すと、明夜も小さく吹き出した。

 それから、少しだけ真面目な表情になって、窓の外を見つめる。


「ここ、死に場所だったんですよね。私たちにとって」


「ああ。そうだったな」


「でも、いまは……ちょっとだけ、違って見えるんです。

 ……変ですよね、こんな場所なのに」


「……まあな。俺もちょっと、不思議な気分だ」


 明夜は肩を小さくすくめて、ふぅっと息を吐いた。

 ランタンの淡い光が、彼女の横顔をぼんやりと照らしている。


 しばらく、沈黙が続いた。

 でも、それは気まずい沈黙じゃなかった。

 火がくすぶるような、どこか落ち着いただった。


「……ねえ、一ノ瀬さん。もう一つ、聞いてもいいですか?」


「なんだ?」


 明夜の何十回目かの質問に、俺はゆるく返事をした。


「一ノ瀬さんって、女の子抱きしめたことありますか?」


「……は?」


 いきなり、とんでもない質問をされて思わず固まる。


「どうしたんですか? 言いたくないんですか?」


 明夜はいたって真面目な顔だ。


「ちなみに、私は男子を抱きしめたことないです。

 ほら、私は言ったんで、今度は一ノ瀬さんの番です」


 そう畳みかけるように言われ、俺は渋々と口を開いた。


「……ないな」


「やっぱり。一ノ瀬さんって、いかにもモテなさそうですもんね」


「お前な……」


 呆れた声をあげると、明夜はクスッと笑った。

 そんなやり取りも、もはや自然になっていた。


 そして次の瞬間、明夜が少しだけ表情を引き締めて、言った。


「……一ノ瀬さん。死ぬ前に、私と抱きしめ合いませんか?」


「…………は?」


 脳が一瞬、理解を拒んだ。


「先に言っておきますけど、冗談でも、からかってる訳でもないです。

 本気も本気です」


「……明夜」


 無表情な顔の奥に、何を考えているのかは見えない。

 けれど、その声のトーンには、確かに揺るぎない“真剣さ”があった。


「……なんでそんなことを考えたんだ?」


 俺は率直な疑問を投げる。


 明夜は少し黙ってから、ゆっくりと息を吐いた。

 そして、俺の目をまっすぐに見つめたまま、口を開いた。


「……私、小さい頃、一度だけ――お母さんに抱きしめられたことがあるんです」


 明夜はぽつりとそう呟いた。

 どこか遠くを見つめるような目で、思い出の奥底に手を伸ばすように。


「本当は、すごく優しい人だったんですけど……ずっと入院してて、家にいる時間があまりなかったんです」


 声に揺れはなかったけれど、かすかに指先が震えていた。

 静かな語り口の裏に、しまい込んできた悲しみがにじんでいる。


「幼稚園で泣いて帰った日に、一度だけ、病院で会えて。そのときに、ぎゅって……」


 言葉を紡ぐたびに、ランタンの明かりの中で明夜の瞳がわずかに潤んでいく。

 まるで、その一瞬だけが彼女の“過去”のすべてだったかのように。


「あれが、たぶん……人生でいちばんあたたかかった記憶で。それ以来、誰にも……」


 そこで言葉が少し途切れた。

 こぼれ落ちそうな想いを、必死に飲み込んでいるようだった。


「だから、もう一度だけでいいんです。

 あんなふうに、誰かに優しくされたら……って、ずっと思ってて……」


 声が小さく震えていた。

 まるで、長い間胸の奥に閉じ込めていた想いを、ようやく言葉にできたかのように。

 明夜は膝の上で指を強く握りしめ、目を伏せたまま続けた。


「…抱きしめられて、“私を大切に思ってくれる人がいる”って、最後に……

 そう思いたいんです」


 明夜の声が震えながら、静かに夜の空気に溶けていった。


 ――その気持ちは、痛いほど分かった。


 俺だって、どれだけそんな願いを抱いてきたか。

 ただ一言、「お前はここにいていい」って言ってくれる誰かがいれば、それだけで救われた気がしたこともあった。


 なのに、そんな気持ちを言葉にする勇気が出なかった。

 明夜は今、それを自分から差し出してきたんだ。


「一ノ瀬さんなら……今言ったこと、叶えてくれるかなって思って……

 馬鹿ですよね。出会って数時間しか経ってない相手に、ここまで心を許すなんて……」


 明夜は自虐気味に小さく笑う。

 だけど、その笑みには、どこか救いを求めるような弱さが混ざっていた。


「それで……一ノ瀬さんの返事が聞きたいです。

 私を、抱きしめてくれますか?」


 俺は、一瞬、息が詰まるような感覚を覚えた。


 この場所で、このタイミングで、こんな風に誰かに“必要とされる”なんて思ってもみなかったから――


 戸惑いと、胸の奥に湧き上がった熱を、うまく言葉にできなかった。

 それでも――


「ああ、するよ。

 俺も、明夜を抱きしめたい」


 俺は彼女の顔を見て、はっきりと言った。


「……なんでですか?」


「さっき明夜は言ったろ。

 “誰かに、優しくされたい”、

 “抱きしめられて、大切に思ってくれる人がいるって感じたい”って」


 明夜は、黙って頷いた。


「その相手に、俺がなれないかと思ったんだ。

 明夜が死ぬ前に、優しくしたい。

 抱きしめて、“一人じゃない”って伝えたい。

 ……そう思った。それだけだ」


 自分でも、不思議だった。

 出会って数時間しか経ってない少女に、こんな気持ちを抱くなんて。

 それも、死ぬために来たはずの場所で――


 だけど、明夜にだけは、特別にそうしてあげたかった。


「……もしかして、一ノ瀬さんって、いい人?」


「今さら気づいたか」


 そんなやりとりをしたあと、どちらともなく、ふっと笑った。

 笑い合ったのは、今日で何度目だろうか。


 そして、笑いが静まったあと――


「……それじゃあ、一ノ瀬さん。

 私を、“明夜”を――ちゃんと、抱きしめてください」


 明夜は、今日初めて見せる、心からの笑顔でそう言った。


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