第1話 死に場所で出会った少女は、明るい夜という名前だった
死にたい夜、見知らぬ少女に“抱きしめてください”と言われた。
ただの他人だったはずのその子と、俺は――少しだけ、生きたいと思った。
“誰かに抱きしめられること”が、こんなにもあたたかいなんて知らなかった。
◇ ◇ ◇
どうせ死ぬなら、誰にも見つからないところがいい。
そう思って選んだはずの廃屋に、先客がいた。
「こんにちは、おじさん」
……なんで、こんな場所で他人に会うんだよ。
俺の最期の場所、台無しじゃないか。
「君も……ここに死にに来たのか?」
俺の問いに、少女は首を傾げながら笑った。
「ええ。偶然ですね。ここ、静かでいい場所でしょう?」
まるでピクニックにでも来たような調子だった。
そんな少女が樹海の廃屋の隅で体育座りしていた。
廃屋の中央には彼女が持ち込んだと思われるLEDランタンが淡く灯りをともしている。
服を見ると、富士の樹海を歩いてきて、現在もこの汚い廃屋にいるせいか、
彼女の白いパーカーも紺のプリーツスカートもストッキングタイツも薄汚れていた。
…まあ俺も人の事を言えない格好だが。
「まさか、死ぬ前にこんな場所で人に会うとは思いませんでしたよ」
彼女は警戒半分、興味半分といった様子でこちらを見ている。
「そんなに警戒しなくてもいいだろ。
俺も自殺志願者なのは分かるだろ?」
先客である彼女へそう告げる。
「警戒するに決まってるじゃないですか。
自殺志願者なら最後に、
女の一人抱いてから死にたいと考えても不思議じゃないですからね」
淡々とした口調で彼女はそう言った。
「散々な人生な上、最後は犯されて終わり……
これで、警戒するなという方が無理ですよ」
そういう少女に、
「分かった。出ていく。
俺も死ぬつもりだから、特にここに用がある訳じゃないしな」
俺はそう言い、廃屋の扉に手を掛けた。
「待ってください。
こんないたいけな少女放って出ていくんですか?
見捨てるの、早くないですか?」
それは冗談のようでもあり、試すようでもあった。
俺の胸の奥に、ほんの少し、ざらつきが残った。
「じゃあ、どうしろってんだ」
「ちょっと試しただけです。
本気で出ていくみたいだったので、
暴行される恐れは低いと分かりました。
なので、話し相手になってください。暇なので」
…さっきから、随分と我がままを言うな、この子は。
俺は彼女と反対側の壁に腰かける。
壁がみしりとなり、今にも崩れそうなのが不安だ。
「君、名前は?」
呼び名がないと不便なのでとりあえず訊ねた。
「雨宮明夜です。
おじさんは?」
「一ノ瀬尚人だ。
あと、俺はおじさんではない。
28だ」
「17の私から見たら、もう28ですよ。
立派なおじさんです。
まあ、これからは一ノ瀬さんと呼びますから、
おじさん呼びは止めますよ」
本当に可愛げのない子だ。
だが、彼女の言う通り、こんな場所で少女を一人きりにするというのも、
今更、憚られて出ていく気は起きなかった。
死に場所探しに来たのに、これじゃあ保護者かよ……
「一ノ瀬さんはなんで死にたいんですか?」
明夜は世間話の様にそう聞いてきた。
「……大学卒業後に5年務めた企業からリストラされてな……
それからバイト生活しながらその日暮らし。
再就職先を見つけようと1年踏ん張ったが、
三流大学出で何の特技もない俺には、ブラック企業しか務め先は残されてない。
その上、奨学金の返済もたっぷり残ってる始末だ。
それで、もう、死ぬしかないと思って、こうしてわざわざ富士の樹海まで出向いた訳だ」
「大学出ててアルバイトもできてるなんて……
私から見たら、もうそれで十分ですよ。
生きてるだけで羨ましいです」
「……喧嘩、売ってるのか?」
彼女の目は真っすぐだった。
だが、それが逆に腹立たしかった。
“俺の地獄を、知りもしないくせに――”
そんな感情が、喉元まで込み上げていた。
「……ごめんなさい。
今のは私が悪かったです。
不愉快な発言をして、本当にごめんなさい……」
明夜はこちらから視線を反らして頭を下げて謝った。
その様子は、真剣な悩みに、いつもの軽口で返してしまった事に対する、本気の謝罪。
俺にはそう見えた。
苛立ちはなくなり、代わりに妙な罪悪感に襲われた。
怒りが引くと、あんなことで声を荒らげた自分が幼稚に思えてくる。
…なんで俺は死ぬ前に、こんな訳の分からない少女の相手をしなきゃならないんだ。
だが、ここまで関わった以上、今更放って出ていく事も出来なかった。
「俺の死ぬ理由を聞いた代わりに、明夜の死ぬ理由を聞いてもいいか?」
「いいですよ。
まあ、よくある陳腐な話ですが」
そう前置きすると明夜は語り出した。
「父に虐待されてたからです。
学校でいじめを受けてた事もありますが、
父の虐待に比べれば些細な事です」
明夜が受けたいじめかどの程度かは知らない。
だが、いじめを些細な事と言うぐらいだから、
よほど虐待が辛いものだったのだろう。
「暴力は当たり前で、幼少期からひたすら罵倒されました。
『お前は生きてる価値がないクズだ』、
『お前を愛してくれる人はどこにもいない。
お前の母親も心の底じゃ憎かっただろうよ』、
暴力より、罵倒の方が遥かにきつかったです」
よく見ると、彼女の右目に小さな赤い痣が残っていた。
こんな痛々しい痣があるとは……
それでも、彼女にとっては言葉のほうが、ずっと深く残っているのかもしれない。
「それで、私も成長して、いよいよ”女”として見られ始めて、
こんな奴に犯されるぐらいなら死のうと思いました」
相変わらず明夜は淡々と喋る。
随分な苦境を他人事のように語る。
「――そんなわけで、今ここにいます。
ひねくれた女になった理由が分かりましたか?」
「………」
その質問に俺は何も答えられなかった。
人が死を選ぶ理由に関わる事に、どう答えればいいか分からなかったからだ。
まあ、さっき彼女は遠慮なく突っ込んできたが、
それも、こうして話を聞けば、もう怒る気にはなれなかった。
しばらく沈黙が走る。
ただでさえ、かび臭い空気がより重苦しく感じられた。
明夜はずっと、窓の外を見ている。
外は暗闇しかなく、何も見えないというのに。
「一ノ瀬さん」
「なんだ?」
明夜は窓を見つめながら名前を呼んだ。
「一ノ瀬さんの下の名前ってなんでしたっけ?」
「ナオトだ。なおさらの“尚”に人間の“人”と書いて尚人」
「普通の名前ですね。
……あ、そうだ。私の名前の漢字も、一応伝えておきますね。
“明るい夜”って書いて、明夜です」
明夜はずっと暗闇を見つめたまま話している。
「明夜は逆に変わった名前だよな。
初めて聞く名だ」
「そうでしょうね…
……ねえ、一ノ瀬さんは自分の名前好きですか?」
「好きでも嫌いでもないな。
なんでだ?」
「私が自分の名前が嫌いだからです」
ポツリと、明夜は言った。
それは、明かりの向こうに落ちた小さな独白のようだった。
「どれだけ明るくて楽しい事があっても、必ず夜が来て終わる。
どんなに良い事も必ず終わるなんて…私の人生みたい」
膝を抱えたまま、明夜は微笑まないままそう言った。
まるで、自分の名前が呪いのように口をついて出たみたいに。
「……だけど、明夜って、すごく綺麗な名前だと思うぞ」
俺は、ゆっくりとそう言った。
「明夜って、夜が明るいとも考えられるだろう?
普通はありえない。でもさ――
もし本当に“明るい夜”があるなら、それは誰かの不安や絶望を照らす光だと思うんだ」
明夜が、ちらりとこちらを見た。
「楽しいことは終わってしまう。
でも、終わってからも、誰かの心をあたためる夜があるなら……
それって、すごく、優しい名前じゃないか?」
その目に宿っていた陰が、ほんの少しだけ揺れた気がした。
「そんな風に…私の名前を捉えたの…貴方が初めてです……」
明夜はこちらをじっと見て言う。
「この名前…死んだお母さんが付けてくれた名前だった。
優しいお母さんだった……人生で唯一私に優しくしてくれた人……
でも、私は名前が好きになれなくて…
それがお母さんに悪いと思ってたから……」
彼女は続けてこう言った。
「だから、一ノ瀬さんの考えを聞けて――
なんだか胸からつっかえが取れました。
…ちょっとだけ。
ほんのちょっとだけですけど、
自分の名前、好きになれそうです」
そう言い終えると、明夜は初めて、少しだけ笑みを見せた。
――その微笑みが、どうしてか、俺の胸を締めつけた。