第1章:集結する星々、軋む歯車
埃っぽい段ボール箱の山に囲まれた、薄暗い部室の片隅。拓海は、くしゃくしゃになった回路図を睨みつける美咲の横顔を見つめていた。蛍光灯の明かりは心許なく、部屋の隅には錆びた工具と、埃をかぶった古いロケットの設計図が無造作に転がっている。昨日まで彼がいた、最新の設備が整った研究室とは似ても似つかない場所だった。
拓海は大学院に進学し、航空宇宙工学の最先端を学んでいるはずだった。だが、彼が日々向き合っていたのは、シミュレーションと論文ばかり。幼い頃、父と見た流星群に抱いたあの「いつか宇宙へ」という純粋な憧れは、分厚い専門書と冷たいデータの中に埋もれかけていた。そんな拓海の前に現れたのが、たった一人で「フリーフライト」という名のロケットサークルを守る美咲だった。
「私たちのロケットは、まだ飛んでいない」
あの時、美咲が静かに呟いたその言葉が、拓海の中でくすぶっていた火種に、再び酸素を送った。理論やデータだけでは決して味わえない、手で触れ、形にし、そして実際に飛ばすという「現実」がそこにあった。
「部員募集の張り紙、見ました。手伝わせてください」
拓海の申し出に、美咲は一瞬だけ回路図から目を離し、冷たい視線を向けた。
「使える人間なら、どうぞ」
それが彼女の返事だった。
そして、その「使える人間」を探す旅が始まった。
まずは、拓海と同じ機械工学専攻の健太。彼は学内でも指折りの加工技術を持ち、どんな複雑な部品でも完璧に削り出すことで知られていた。しかし、その腕とは裏腹に口数が少なく、人と関わるのを避ける傾向があった。
拓海が健太を訪ねた時、彼は工作機械の轟音の中で、黙々と金属片を加工していた。拓海のロケットへの情熱を語っても、健太は眉一つ動かさない。
「面倒なことには関わりたくない」
それが彼の口癖だった。しかし、拓海は諦めなかった。連日、昼休みも放課後も、拓海は健太のいる加工室に通い、ロケットの図面を見せ、夢を語り続けた。ある日、拓海が持参した複雑な形状のノズル設計図を見た美咲が、珍しく口を開いた。
「あなたの精度へのこだわりは、このノズルを、私たちのロケットを飛翔させるためにあるんじゃないの?」
美咲のまっすぐな言葉に、健太の手が止まった。彼はふっと息を吐き、無愛想な顔にわずかな笑みを浮かべた。
「…どうせやるなら、世界一の部品、作ってやる」
次に向かったのは、化学専攻の沙織の研究室だった。彼女は常にフラスコや試験管に囲まれ、奇妙な色の液体を混ぜ合わせている。ロケットそのものへの興味よりも、「燃焼現象の真理」を探求することに執着している変わり者だった。
拓海がロケットに搭載する推進剤の開発を依頼すると、沙織は目を輝かせた。
「面白そう! 既成概念を打ち破る、革新的な配合を試してみましょう!」
彼女の提案する推進剤の配合案は、既存の常識をはるかに逸脱した突飛なものが多く、拓海や美咲、健太は眉をひそめるばかりだった。特に、爆発性の高い危険な物質を平然と口にする沙織に、美咲は警戒感を隠さなかった。
「理論はいい。だが、安全性を無視したものは使えない」
美咲の忠告にも、沙織は「ふふん」と鼻で笑うだけだった。
こうして、拓海、美咲、健太、沙織という、個性は強いがどこかバラバラな4人のメンバーが「フリーフライト」に集結した。
最初のミーティングは、まさに嵐だった。
「大学コンテストで上位入賞。そして、高度10kmを目指す」
拓海が掲げた目標に、美咲は腕を組み、冷静に言った。
「その高度を達成するには、市販のモーターでは出力が不足する。自作推進剤モーターの開発は必須よ」
健太は図面を広げ、唸る。
「だが、自作モーターとなると機体の構造設計も根本的に変わってくる。強度と軽量化を両立させるには、複合材料の成形が不可欠だ」
沙織はすかさず、自身の「革新的な」推進剤配合案をまくし立てる。
「私の特製コンポジットなら、既存のモーターを凌駕する推力を出せます! 熱安定性も完璧に計算済みです!」
「理論通りにいけば、の話でしょう? 実際に試験して、安定燃焼しないなら意味がないわ」
美咲が冷たく言い放つと、沙織はムッと唇を尖らせる。
「そこは、実践あるのみ、でしょう?」
それぞれの専門分野の「最適解」を主張し、意見は真っ向から対立する。美咲の理論先行型のアプローチと、健太の現実的な加工限界論、そして沙織の常識外れのアイデアがぶつかり合い、ミーティングは常に口論で終わった。
特に頭を悩ませたのは、自作推進剤モーターの法規制だった。
拓海は、火薬類取締法という分厚い法律の条文を読み込み、大学の事務室や県庁の担当部署を何度も訪れた。
「学生サークルが、爆発性のある火薬類を製造・消費する? 前例がありませんね」
「安全管理体制は? 責任の所在は?」
冷たくあしらわれ、門前払いを受ける日々。許可申請の書類は、膨大な量と複雑な手続きを要し、一歩進んでは二歩下がるような状況だった。
「このままだと、ロケットどころか、モーター一つ作ることもできない…」
拓海は焦りと苛立ちを感じ始めた。夢は、手の届くところにあるように見えて、法律という分厚い壁に阻まれているようだった。
夜遅くまで部室に残る拓海。誰もいなくなった部屋で、彼は古いロケットの設計図を広げていた。これは、かつて大学のロケットチームが作ったものだろうか。その設計図の隅に、見覚えのある署名を見つけた。「五十嵐」。彼らの担当教授の名前だった。五十嵐教授はロケットの研究者だが、なぜか学生のロケット活動には冷淡な態度を取っていた。その署名を見た拓海の胸に、微かな疑問と、もしかしたらという希望が芽生え始めた。
軋む歯車は、まだ互いを完全に受け入れていない。だが、それぞれの内に秘めたロケットへの、そして宇宙への情熱だけは、確かに同じ方向を向いていた。