Villaggio della luna nuova. 新月の村
足かけ三日ほど馬車にゆられ、僻地の村の別邸に到着したのは真夜中近くだった。
馬車の屋形の窓から外を見る。
新月なので真っ暗だ。
森を背にした屋敷は、シルエットすらよく分からない。
アベーレ・コルシーニは、先に馬車を降りた。
黒っぽい焦茶色の髪、細身の自身の影が馬車の屋形の窓にうっすらと映る。
没落したばかりの身だ。こういった屋形つきの馬車に乗るのも、もう当分ないかなと考える。
「姉上」
屋形のほうに中に手を差しだす。
ヨランダ・コルシーニは、屋形の奥でたおやかな肢体をこちらに向けた。
細面で切れ長の目、神秘的な面立ちの美女。
姉上と呼んでいるが、じっさいには従姉にあたる。
幼少のころによく遊んでいたが、十歳を過ぎるころから女子修道院にあずけられていた。
コルシーニ家が没落したことから修道院を出されたが、叔父と叔母は先にローマの遠縁の家に発ち連絡もつかず、屋敷にとり残されていたところをアベーレがこの村の別邸に誘った。
金に困った貴族が所有地を売ることはままあることなのだが、この土地は辺境であったせいか、家のほうには存在すら忘れられていたらしい。
いまだコルシーニ家所有のままだった。
「足元を。お気をつけて」
アベーレは細い手を取った。
ヨランダは楚々とした仕草でスカートの裾をからげ、アベーレの手をとった。
白く、産毛すらないように感じられるなめらかな手。
「伯父上が先に来ているはずなのですが」
アベーレは屋敷を見上げた。
伯父が使用人をどれほど連れて来られたかは分からないが、屋敷のどこを見回しても灯り一つなかった。
出むかえてくれる者すら来る気配はない。
アベーレは、ちらりと御者のほうを見た。
「すまんが……」
そう声をかけると、御者は面倒そうに御者台に掛けていた角灯を差しだした。
「すいませんが、さっさと帰りたいんですが」
御者が太い眉をよせる。
「ここらへん、さいきん人狼が出るとかウワサがあって」
「人狼」
アベーレは復唱した。
「周辺の村もふくめて何人か行方知れずになってるらしいですよ。何日かすると村外れに肉片が落ちてるとか」
ヨランダが毛織りのショールの襟元をなおし眉をよせる。
「狼の顔に人間の身体とかいう、あれか?」
アベーレが苦笑すると、御者がうなずいた。
「だれか姿を見たのか」
「姿まで見たとは聞いていませんが。あたしもこのへんの者じゃないんで確かなことは」
御者がヒラヒラと手を振る。
遠方の故郷から、無理を言ってここまで乗せてもらっていた。
没落した身とはいえ、できる限りの金は支払ったが。
突然。
カ━━━━━ンという音が響いた。
御者がビクッと肩を震わせる。
アベーレは、もと来た暗い村外れの道を見やった。
「教会か?」
ずいぶんと鈍い音だが鐘の音か。
いまごろの時間にと思ったが、警戒を促すためだろうか。
角灯を御者に返す。
「悪かった。もう帰っていい」
「ええ……」
御者が、すまなそうに角灯を手にとる。
「灯りがなくて大丈夫ですか?」
「まあ何とかなる」
アベーレは、そう返し馬車から荷物を下ろした。
ヨランダが手を差しだしたが、「いいですよ」と止める。
細くたおやかなヨランダに、とても荷物運びを頼むことなどできない。
幼少のころいっしょに遊んだ年上のこの従姉妹に、アベーレは憧れていた。
修道院にあずけられたさいは、輿入れ先が決まったことを察して子供心に諦めた。
没落の先触れが見えてきた時期に、どうやら破談になったらしかったのを、アベーレは密かに嬉しく思った。
ヨランダと別れ別れになった子供のころとは違う。
いまは二十四になった。
何とかいっしょに過ごし口説いて、できれば妻になってもらえないだろうか。
そんなふうに考えていた。
先に来ているはずの伯父が屋敷に居ないようだとなると。
二人きりか。
不意にそう気づく。
「人狼ですって……」
鐘の音がしたほうを眺め、ヨランダがつぶやく。
「大丈夫かしら。伯父さま」
ヨランダの長い黒髪がサラサラと夜風になびく。
かすかに獣の臭いを感じた気がして、アベーレは周囲をゆっくりと見回した。
「じゃ、これで。お二人ともお気をつけて」
御者が御者台にのる。
アベーレは手を挙げて呼び止めた。
「これを」
御者の上着のポケットに、自身のイニシャル入りのハンカチをスッと入れる。
「御守りだ」