想定外の案件
「是非君に引き受けて欲しい案件がある」
眉をしかめて首を傾げた僕を、彼は手招きしてカウンターの最奥にある扉の、更にその向こうへと連れて行ったのだった。僕は招かれるがまま、部屋の中へと足を踏み入れていた。
扉の向こうには、更にまた別の扉があった。
二枚の扉に挟まれたこの小部屋には、特に目立ったものは無くて、僕は最初、自分が何故この部屋に連れて来られたのか全く見当が付かなかった。助けを求めている人が待っているのでは無いかと少し期待した。だが、誰もいない。あるのはぼんやりとした照明と、空きのできた小さな本棚だけ。
もはや、現れた更なる扉が、この部屋の中では一番目立っていた。
薄暗い部屋に似合わない、鮮やかなコバルトブルーの色に、銀を延ばして細工したかのような装飾。ドアノブの部分には、同じ銀で形作られた謎の生き物がぶら下がっていた。そいつとどことなく目が合ったような気がして、鳥肌が立つ。
「もう一度聞くけど、本当に行ってくれるね?」
「え、行くってどこに?」
「ええ?だから人助けだって」
「あ、そっか・・・。はい」
言われるがまま来てしまったけれど、内心、危ない集団に売り飛ばされたらどうしよう、なんて心配もあった。手助けっていうのが、「受け子」のようなもので、この店員も、実は悪人だったらどうしようと、心の隅で心配はあった。
けれど、それ以上の、一度現実から目を背けたいという欲望が、僕の足を掴んで離さなかったのだ。
「この扉の向こうで、君は必ず、君の助けを必要とする人に出会う。必ず。だから、その人に手を貸してあげてほしいんだ。ただ一緒にいて、寄り添うだけでも十分助けになる。それが、君に引き受けて欲しい案件。・・・どう?」
小さく頷いたあと、もう一度、今度は大きく頷いた。
「ありがとう。これを通して君の悩みも晴れることを願ってるよ」
彼は「それじゃあ」と、僕を扉のすぐ近くに立たせた。
「三回ノックを、ゆっくりと三回。合わせて九回、優しくノックして」
――トントントン。
自然と呼吸が詰まる。
――トントントン。
僕は大きく息を吸った。
――――トントントン――――。
――ドアノブの下の鍵穴から、ガチャリと音が鳴る。鍵なんて差し込んでいないのに。ドアノブがぐるんと回る。僕が触れずとも、戸がひとりでに開き始めたのである。
薄暗い部屋に“向こう”から漏れ出た光が充満する。現れた景色に、僕は言葉を失っていた。
その景色に惹かれるまま、無意識に僕は沓摺りを踏み越えていたのだ。
「…店員さん!」
戸惑いがダダ漏れの表情など気にしている余裕は無く、振り返って彼に目で訴えかけた。
「アルタだよ」
「アルタさん!」
アルタと名乗った店員は、僕の呼びかけに応じなかった。けれど言ったのだ。
「君の決断が、こちらへと戻るための鍵となる。鍵の存在に気がつけたら、またこの戸を探すといい」
そして最後に「幸運を」と言い残すと、儚げな笑みを残して、パタンと戸を閉めてしまったのだった。
――心の中で、とある分岐点に立った自分の、運命の音が鳴る。
一呼吸置いた。ターコイズブルーの扉に向かって。とりあえず深呼吸をした。
再び戸を開き、アルタさんを追いかけるなんて考え、この時はなかった。ただ、あっという間に起こってしまった出来事に、心が追いついていなかったのだ。
最後にもう一度、深く息を吸って、僕は勢いよく振り返った。
部屋は無い。助けるように言われた人もまだ現れていない。そこは、僕が思っていたような場所には繋がっていなかった。
――青空が広がっている。もう、あの喫茶店ではなかったのだ。最早ここは、別世界だった。
鳥肌が止まない。胸の鼓動が高鳴る。自然と零れた涙を、指で拭い取った。
「うわぁ……なんだこれ。最高じゃん…」
その後も、何度も自分に確認するように云々と呟きながら、僕は完全にこの世界にのめり込んでいた。
ここはどこかの塔の頂上。僕はバルコニーに通ずる戸から出てきたらしくて、塔の下に広がる町を見下ろす形でここにいた。
バルコニーの柵に手を掛けて、身を乗り出しながら下に広がる町を眺望していた。
遠くには山岳の影が薄らと見える。山に囲まれた、大きな町だった。その町のどこかに立つ、この塔。
バルコニーには勿論、塔の中にも人の気配はなかったけれど、下の町は違う。遠くからでも分かる。祭りでもやっているかのように賑わっているのだ。
落ちそうなくらい柵から身を乗り出していたけれど、やがていても立ってもいられなくなって、塔を降りることにした。コバルトブルーの扉を開けたら、やはりそこはもう、あの店には繋がっておらず、僕は薄暗い塔の螺旋階段を駆け下りた。
冷たい壁に手を添えて、石階段をトントントンと音を鳴らして。




