価値2
その日、マルクがいつの間にか姿を消したと思えば、なかなか馬車へと戻ってこなくて、僕は様子を見に馬車を離れた。
商人は何処かを目指している。僕は恐らく、その最終地点で売られる。王政の方から商人に、そう命令が下されているからだ。
だが、僕以外の子供――痩せこけた小さな大人かもしれないが――は、売れ行きの良い場所で、商人の思うように売られていった。今もまた、商人はとある街路に馬車を止め、幾人かの子供を表に出して、売買の真っ最中だった。
僕や残された子供達は馬車の中で待機していたが、商人が客の相手をしている隙に、用を足そうと馬車の外に出て行く者が数人いた。マルクも、そうして馬車から出て行った。
あまりに身勝手に行動すると、商人に殴られるのが落ちだ。
何人かが当てつけに殴られているのを目にしている。商人は僕に手を上げぬよう抑えているみたいだが、僕だっていつ殴られるかわかったもんじゃない。
ああ、その光景を見ると僕は親父を思い出す。あれほど手を上げる人ではなかったけれど、その言動や支配力は商人以上のものだった気がする。
マルクはあの日、僕が話し掛けた少年で、今でも何だかんだ隣にいる。滅多に話す事はないけれど、街に出たらここに気を付けた方が良い、だとか色々と教えてくれたから信頼しているんだ。
逃げ出したなら、僕だってわざわざ連れ戻しに行ったりしない。けど、まず逃げ出すなんて事は有り得ないのだ。
ボクらの左腕に嵌められたリング。これには、どこも共通で「商品」という認識がある。どう付けられたのか、自分で外す方法も知らないから、付けたまま街を歩くしかないけど、こんな姿で長時間外出するなど堪ったものではない。
僕らに何をしてもいいと思っている奴らが殆どだ。僕にとって、今じゃ最も安全なのは馬車の中なのだから。
このリングをしてでも、逃げようと思えば逃げられただろう。だが、その先が自分がどこを脱出してきたかも分からぬ状態になるなら、もう少し情報を得てからにしようと、タイミングを見計らっていたのだ。
どうにか気力を保ちながら。
馬車がある通りから二つ角を曲がり、裏路地の影に堕ちる瞬間だった。
「――えだ!お前たち『影無し』が犯人だ!そうだろ!」
酷い怒鳴り声が聞こえて僕は慌てて身を隠した。建物に背を寄せ、声の方へと顔を覗かせる。
・・・ああ、やっぱりだ!
マルクが大人達に囲まれて胸倉を掴まれている。鼻と口から血が垂れている。もう既に何発か殴られたあとだったんだ。
最近、幾つかの街で変な噂が流れ始めている。みな、ラピュアスが起動されたって事は知らない。
けれど、八つの街の幻能が無くなった事実は瞬く間に国全体に広がった。そこで、その幻能を奪ったのが「影無し」なんだって、ありもしないデマが流れだした。
それを口実に、所構わず黒髪の――得に人身売買の対象となった僕らのような人間に八つ当たりしてくる奴も、当たり前のようにいる。
ラピュアスの影響を受けた街の住民は特に、この異常事態には誰かを責めないとやっていけないんだ。
周りの男がもう一発殴りかかろうと腕を振り上げたとき、僕は気が付いたらその場から駆け出していた。きっと、もうミノンの時のような後悔を繰り返したくなかったのだ。手遅れになる前に、気が付きたかったのだ。
「止めろよ!」と言ったつもりが、長いこと黙っていたせいでその息は声にならなかった。
どうでもいい。とにかくマルクを掴んだ男を、全力で押し倒しに掛かった。彼の命が懸かっているのだ。こんな所で躊躇っている暇は無い。
「マルク!走れる!?」
今度はちゃんと、声が出た。
男が怯んだ隙に僕はすかさずマルクの腕をとって、無理矢理にも走った。
マルクの体力は走れるほど残っていないのだろうけど、既に取り巻きの奴らが追っかけてきているのだ。
威勢を上げる男達から必死に逃げた。
けれど、僕の思いとは裏腹にマルクは先に力尽きてしまったのだ。背後でドサッと音がして、振り返ればマルクが倒れ込んで動かなくなっている。光差す路地に倒れたマルクの下には、依然として影が無い。
「うそっ……。マルク?マルク!?」
そこからはあっという間だった。男達が僕らへと追いついて、今度は僕の胸倉を掴んだ。
僕は唖然としている間に、頬へと打撃を喰らった。衝撃で上を向けば、今度は眩しい光に頭がクラクラする。男は何か叫んでいたけれど、その声は耳に入らなかった。追いつかれた事なんて今は何でも良い。僕は、倒れたマルクの呼吸が聞き取れなかったことに、驚いていたのだ。
僕に次の拳が振り上げられた時だった。目の前の男が、「カッ」と掠れたうめき声を上げたかと思うと、僕から手を離して勝手に倒れた。それと同時に、地面にじんわりと赤いものが広がっていく。
何が起こったのか、理解が追いつかなかった。けれど、取り巻きの男達が僕じゃない誰かへと、震える声で脅し始めたことで気が付いたのだ。
いつの間に来たのだろう。倒れた男の後ろに、もう一人、小柄な人物が立っている。
ああ、その姿には見覚えがあった。背が低くて黒い短髪で、けれどもその面構えは堂々としている。そして、彼の足元にあったはずの普通の影は無くなっていた。
また、奴が僕の前に現れたのだ。




