《第四章 価値》 価値
頭が痛い。指先と、それから背中と腰も。脚もだ。とにかく全身が痛い。
ずっと、暗闇に頭を押さえつけられているような感覚で、僕は浅い眠りについていた。
けれど何かがガクンと揺れて、僕の意識はぼんやりと戻ったのだった。
暗い部屋。小窓から差し込む僅かな光。冷たい床。…それから低い天井。
鼻をツンと刺す、嫌な臭いがする。ずっと風呂に入らずに、体を腐らせた臭いだ。
小窓からの景色がゆっくりと流れていく。いつの間にか、僕は馬車に乗せられていたんだ。
確か、僕はさっきまで――
「――ミノン!」
思い出して立ち上がったが、予想以上に天井が低くて、頭を打ち付けてしまった。それに、上手く力が入らずに床にまで身体を打ち付ける羽目となった。
「うるせえぞ!」
僕の物音と同時に、御者がいる方角から、脅し声が聞こえてくる。・・・違う、ここはただの馬車じゃない。あそこで影に捕まった僕が、丁寧に馬車に乗せられて、送り返されるはずがない。
そうだ、僕はあのとき一度捕まったんだ!
薄暗い部屋の中で、幾人かの人が項垂れて座っているのが目に入った。皆、揃って黒髪だ。
それから、いつの間にか左手首に付けられていたナンバー入のリングも。指が痛むと思ったら、切り傷がある。それでなんとなく察しがついた。
僕は売られたんだ。いや、これから売られるのかもしれない。
――「この街はまだマシな方だけど、もっと酷い町じゃ、影の力に抗えずに奴隷として売り飛ばされていく『影無し』もいるの」
ミノンの言葉が、脳内で再生された。
そうだ・・・。きっと僕は、人身売買に巻き込まれてしまったのだ。
「――あんな・・・ミノンとあんな別れ方・・・」
怒鳴られないよう、息を殺すように呟いた。
あの時簡単にミノンの元を去ってしまったこと。影のことも、この国のことも、まだ何も理解できていなかったのに、僕は勝手に力になれると思っていた。けどあの時、追いかける事すらままならなかった無力な自分に、今はただただ、腹が立っていた。
助けるつもりで、失ったのは僕の方だった。
金も、影も無い。頼れる宛てもない。これからどうするか、僕の身がどうにかなる前に考えなきゃ等鳴らないのに、考える気力が底をついていた。
「・・・・・・ねぇ、この馬車ってどこに向かってるの?」
思い切って、隣に座っていた少年にそう声を掛けたのは、この上なく落ち込んで、自分の気持ちに多少整理がついてからだった。
少年は窶れきった表情で老けて見えるけど、よく見れば明らかに僕より年下だ。彼はしばらく沈黙したままだったが、気長に返事を待っていたらゆっくりと答えてくれた。
「・・・・・・わかんない。ボクらもう、七日以上ここにいる。ボクは前のとこから売られてきて・・・・・・みんな多分、新しい買主に売られるために集まってる」
真横にいても聞き取るのがやっとな声だった。
「・・・・・・そう、なんだ…」
ということは僕も、このまま行けば誰かに売られるのだろう。そうなる前に、ここから逃げ出さないと。でも、今は為す術が無い。
影を出されたら対抗できないし、対人だってきっと勝てやしない。それに、この格好――黒髪のままじゃ目立って仕方ないし、自分がどこにいるかも分からないのだから。
「・・・今って、どこにいるか分かる?」
「・・・・・・オボロっていう街」
オボロ・・・。街の周囲半分が、山脈に繋がっている特徴的な町だ。王政から離れているし、山と繋がっているが、人が密集する繁華街も多く存在する。
その山脈を越えた先に、カナトコという町がある。それこそ、僕とミノンが目指していた場所なのだ。
けれど正直のところ、あまりに距離があるため、シヴァだけで移動し続ければミノンが力尽きるのが先だろうって心配もあった。
ある意味好都合と捉えるべきだろうか。・・・なんて思いは束の間に覆される事となった。
商品としての生活はあまりに過酷だった。
最初の食事で、僕は商人に知らされたのだ。
商人は、王政の者から人質として、僕を預けられたという。王政側は、王域に人質の僕を捕らえていると、知らしめるともりだという。だが、実際僕はここにいる。
ミノンをだまして、王城へ誘き寄せるつもりなのだろう。
僕に影が備わっていたら、そのまま王城で拘束されていたかもしれない。だが、なめられたもんだ。
僕が影を出せない「影無し」だと分かって、商人に身柄を回した。
商人は無駄な仕事――それも王政からの監視がついた失敗できぬ仕事を押し付けられて、酷く僕に苛立っていた。自分の手で僕を傷つけられるのが、余計にもどかしいらしい。僕を見た商人の、八つ当たりの的にされた他者を見るのは、心苦しかった。
覚悟はしていたけれど、食事を与えられる機会は殆ど無いし、美味しくない。馬車から出られるのが一日に片手で数えられる程しか無いから、トイレに行きたくてもしばらくは我慢するしかない。
でも、まだマシなのは、僕が何もしなければ、向こうも何もしてこないということ。ただただ一方的に感情をぶつけられて、僕が代わりにそれら全てを呑み込む必要が無いということ。
理不尽に邪魔される事はないんだ。自分の選択が積み重なった結果、失敗に終わるのは別にいい。ただ、許せないのは他人の介入によって、僕の手が、足が、止められてしまうこと。
そうやって何度も何度も、足踏みを繰り返していると悔やみようすら無くなってきて、前に進んでいた頃の感覚が分からなくなる。
止まっていた筆が、ようやく動きだしたと思っていたのに。




