有色影と別れ
「ミノン、本当に一人で大丈夫?」
見つけた宿に入ってすぐ、ベッドに倒れ込んだ彼女に、心配になって声を掛けた。体力の限界だったんだ。その手が小刻みに震えているのは、恐怖や緊張なんかではなく、長い飛行の末だった。
僕はこれから、少しだけ偵察に行く。今日の夜ご飯も見つけないとだし。
もうじき日が暮れる。完全に夜が来れば僕たちの時間だ。
「いざとなったらシヴァが守ってくれるから」
「でも――」
そうすればミノンは更に体力が。言い掛けたところで彼女に「いいから」と突き放されてしまった。
最初はこの国の通貨の価値を理解していなかったけど、今じゃアルタさんが普通の生活には十分過ぎるくらいの硬貨を僕に預けてくれたと感謝している。ただでさえ抱える問題が大きいから、きっと金銭面まで悩んでいられなかった。お陰で荷物は、二人でトランク一つ分まで減らせたし、宿にも泊まれている。
追加で僕は、中古画材を洋書サイズのトランクに詰めたものと、描きかけのキャンバスも背負っていたけど。
街に出るにはフード付きのマントが欠かせない。特に、衛兵の調査が隈無く入る今は。
それに、困るのは八つの街の住人全てが「影無し」となってしまったことだ。
ここは幻能の境界線と近いが故、影を持つ者も行き来はしていたが、普通の影でも、持っている僕は目立ってしまう。それも、おかしな事に黒髪の僕が、影を持っているんだ。
できるだけ小道を選んだ。迷わぬ程度に、人に会わぬように。
✿
「なあ、見たか今の?」
「影の大群だぜ」
十字路に差し掛かってすぐ、偶然にもどこからかそんな会話が聞こえて思わず足を止めた。大通りの方で、何やら人集りが出来ている。影だの何だのと言う声が飛び交っていた。
民衆の騒ぎ声を、僕は小道からそっと盗み聞いた。
「赤い影だ!有色の影なんて初めて見たぞ」
「あんな影の量、初めて見たわ」
「衛兵が総出で動いたらしいぜ」
飛び交う声の中、誰かが「上だ!」と叫んだ。
見上げて、僕ははっと息を呑んだ。無数の小さな赤い影が、僕らの頭上を群れとなって飛んでいくのだ。
その姿はまるで羽虫だ。あまりの気味悪さに、嫌悪感を抱いた。季節を迎えた虫が羽化したときのように、それはある方向目掛けている。
今まで、シヴァに負けじと濃い影や、色は薄くとも巨大に広がった影なら、いくらか見てきた。けど、色のついた影なんて・・・そんな、如何にも特別で、異様な空気を纏った影なんて一度も・・・・・・。
心がざわめく。嫌な予感がした。
異常事態に、住人は激しく通りを行き来し、絶え間なく、忙しなく騒ぎ声が響いている。
「アマ通りの建物が崩壊してるのよ!」
大通りに駆け寄った女性の叫び声で、僕は考える前に走り出していた。
アマ通り――ミノンがいる宿がある通りだ。やっぱり、僕がいない間に何かあったんだ!
周りの目など気にしていられなかった。フードなんてとっくに落ちていたけれど、僕はそのまま黒髪を晒して走った。行く先に、壁が崩壊して剥き出しになった、あの――ついさっきミノンと別れたあの部屋が見えていたのだから。
息が切れる。途中で痛んだローファーがすっぽり脱げて、僕は靴を手に持ったまま走っていた。
黒い影の大群が、宿へと押し寄せて蠢いていた。気色悪い、建物を取り囲む影の薄い膜。
「ミノン!」
大声で叫んだ。見上げた先の部屋に、ミノンの姿が無い。
「ミノーーーン!」
もう一度大声を出した。
すると、建物の入口がから転げ落ちるようにミノンが出てきた。透かさず影の大群がミノンを取り囲もうとする。けれど、瞬く間に影は散った。ミノンからシヴァが出てきたのだ。
巨大なシヴァの羽が、影の大群を切って散らす。
「マコト!」
ミノンが僕に気づいて手を伸ばす。僕はそれを掴もうとしたんだ。
けど、僕は自分まで影に囲まれていたことに気が付いていなかった。
何本もの影が僕へと巻き付いて、僕はもう、ミノンへと手を伸ばせなくなっていたのだ。
そこからは、本当に一瞬の出来事だった。
僕たちの前に、驚くほど巨大な影が現れたのだ。赤く、ぼんやりと鎧を象ったような影。そこへ、先ほど見た空を飛ぶ大群が集まり、更に大きな一つの鎧となった。
赤い。目を惹くほど赤黒い影。シヴァの一回りはでかい影。赤い鎧は、手に持った槍を一瞬にしてシヴァの胸へと突き刺したのだった。だがシヴァは動じなかった。槍は、シヴァの胸中で同化して無くなったのだ。
そしてシヴァは、炎を吹くかのように、金切り声と共に影を吹いたのだ。同時にミノンが力尽きて、膝の力が抜けたかと思えばドスッとその場に倒れ込む。
「熱っ・・・!」
思わず声が出た。熱い、直接当たっていないのに本当に熱い。シヴァが吹くあれも、影のはずなのに、僕は自然とあれが炎なんだと認識していた。
接近した赤い鎧に、シヴァが出したその影が直撃し、それは宙へと吹っ飛ばされていった。雲を切って転がった後で、赤い鎧は残った影の大群に支えられて膝を付いた。
ミノンの言葉が脳裏を過ぎる。普通、影を動かす以外の余力は持ち合わせていない。だから影を動かせるだけでは「幻能を持たぬ者」とされているんだ。
今、はっきりとシヴァがそれ以上の力で戦うところを見た。赤い影の主に加え、ミノンまでもが「幻能を持たぬ者」ではなかった・・・。
赤い影が腕を振り上げる。それは黒い影への合図だった。影の大群は津波のように、シヴァに押し寄せていった。すかさずシヴァは、その鉤爪でミノンを抱え、空へと翼をはためかせた。その衝撃で、ミノンは再び目を覚ます。二人の姿が波から遠ざかっていく。
同時に、影に抑えられた僕の首に、信じがたいほどの衝撃が走ったのだ。
意識がすっと遠のいていく。最後に見たのは、空から腕を伸ばして僕の名を呼ぶ、ミノンの姿だった。




