彼女が抱えるもの
「私たち、ずっと遠くまで飛んできたのよ。この先をずっと進めば、後はもう海しかない。幻能に守られた地の、末端に付くまでの、最後の集落。それがここ」
櫂を動かしながら、ミノンは言った。
僕らは今、小さな舟の上にいる。舟と言っても、大きな桶みたいな形のもので、二人で乗ると不安定だ。ミノンは慣れた手つきで櫂を動かし、海面上を進んだ。
「昔はここも栄えていたらしいけど、幻能に境界線を引かれてから、ほぼ廃村状態になっちゃってるの」
水面に浮かぶ、ビルのように細長い建物たち。水上という不安定な地に浮かぶはずが、建物はどれも高く聳え立っている。そのビルとビルの間を繋ぐ無数の架け橋が、朝日が昇りたての空から僕たちを隠していた。
人の気配は僅かしかない。早朝なこともあって、すれ違ったのは片手で数えられる人数だ。
「話すなら、離陸中じゃなくて面と向かって話せるところが良かったから言ってなかったんだけど、やっぱりマコトに手を貸してもらう上で、これは欠かせないことだから今、話すわね」
ミノンは改まって僕を見た。
「私ね、寿命がもうそんなに長くないの」
突然内明かされた事実に、言葉は出なかった。
唖然とした僕を前に、彼女は平然と続ける。
「普通の人はね、自分が生きるのに必要な分の幻能と、影の分を、自然と釣り合いを保ったまま成長するの。けど私の力は時を重ねるにつれ、シヴァの方に偏っていく。このままシヴァといれば、私大人になれないって」
「でも切り離すことだって…」
「できるわ。難しいけど、できるにはできる」
「なら!――」
「――簡単に言わないで。生まれてから、ずっと一緒にいたのよ。姿の違いや言葉の有無なんて関係ないの。私とシヴァには家族より強い繋がりがある」
「そっか・・・そうだよな」
「えぇ・・・。切り離して存命を望むなら、私、自分の力でシヴァを引き剥がさなきゃならないの。それで『影無し』になる。・・・私、自分で決心してあの子を殺さなきゃならないのよ」
「でも、ミノンが死んだら、シヴァだって・・・」
「・・・結局、そうなるわ。力だけは残るかもしれないけれど、私がいなければシヴァは出てこられないから、結局。でも、どのみちどちらかがいなくなるなら、私シヴァと一緒に死にたいと思う」
はっきりと彼女の口から「死」と言う言葉が出てきたのは、彼女が今までそれくらい真剣に自分の運命と向き合ってきたからなのだろうと、僕は勝手に思っていた。
もし仮に、ミノンがシヴァに別れを告げたなら、彼女は「影無し」として生きることになる。ミノンは今でさえ、身を隠すような生活にみえていたけれど、「影無し」となれば、さらに身を潜めて生きることになるのだろう。
彼女の覚悟したような口調が、慰めは要らないと僕に示している。考えた末、出てきた言葉はこうだった。
「・・・・・・それじゃあ、今のミノンに必要なのは、ミノンが生きる分の力。それか、ミノンとシヴァの力のつり合いを直すこと。あるいは、『影無し』になった後の影」
ミノンは何かを言いたげに口を開けたが、結局何も言わなかった。
「ごめん。影についてよく知らない僕が言えることじゃないけど、影の後付けもできるって言ってたし。まあ、後者はミノンにとっちゃ有り得ないか」
「・・・いえ、謝らないで。マコトからその答えがすぐに出てきたことに驚いただけなの。確かに、後者は今のところ無いわ。けど、他にどうしようもなくなったときには、十分な選択肢になる。自分じゃこんなこと思いつかなかった」
僕が頷くと、「それにね」とミノンは声の調子を上げた。
「私今、あなたが言った『私とシヴァのつり合いを直す』ってやつをどうにかできないか、試してる真っ最中なの」
「・・・そうだったんだ」
僕のあの危機に、手を差し伸べてくれた唯一がミノンだったように、彼女の真っ直ぐな意志と行動力には、本当に驚かされてばかりだ。彼女は本当に、僕と違って・・・・・・。
けれど、まだ試している段階だ。影の後付けはできても、人そのものに対する幻能の後付けは、まだ果たせていないのだから。
ミノンが僕の助けを求める理由が、少しずつ見えてきた。ミノンなら、一人でもやってのけそうな気もするけれど、僕なら分かる。例え戦力にならなくとも、隣に誰かがいるっていうのは、それだけで挑戦に対する恐怖が減るってことだ。
「ただただ、まだ生きたいっていう願望も勿論ある。けど、まだ死ねない理由があってね――」
ミノンは長い道のりの中で、募っていた不安を吐き出すように僕に語った。
母が持病で寝たきりになっているが、父を亡くした今、残された家族が自分しかいないということ。その自分でさえ、今は国から身を隠す存在であるため、遠くの施設で看病されている母の姿は、シヴァを伝ってしか知れないという。
ミノンが身を隠さなければならぬのには、理由があった。
それが、彼女の父――フォールが生前に残した、この国の王との関係。国王は、言わばこの国の幻能を支配する者。その者が抱える、幻能の秘密。
――「この国を破滅へと導く代わりに、何もかもを初めからやり直せるかもしれない」。
ミノンの父は、それだけを言い残し、秘密について後の事は何も言わずに、世を去ってしまった。国王にとって知られてはならなかった秘密。絶対に口外されてはならぬもの。知れ渡れば国全体が揺らぐもの。
フォールは力を持つ者だけが生き存えてゆくこの国の体勢を、遙か昔、まだ朝と夜が訪れていた頃のものに戻したかったという。その過程で、政府とそこに絡む力を追っていたところ、何らかの秘密を手に入れてしまった。
「お父さん、なかなか家に帰ってこなかったの。その上、一時は王城周辺の街で指名手配までされてた。今はもう、無いだろうけどね」
「指名手配って・・・」
「ええ、でも悪事が原因じゃないってことは信じてるわ。父は秘密を知ったことで国から目を付けられた。そのせいで、私まで疑われて逃げる羽目になったのよ」
「それじゃあミノン、その、衛兵だとかそういうのに見つかったら、まずいんじゃないの?」
「まあそうね。でも、もうそんな生活も二年以上だから」
どうってことない。という顔で彼女は肩をすくめた。そんな状況で、僕を助けてくれただなんて。やっぱり、あの時のお礼は串焼き肉以上のものを渡しておけば良かったんだ。
「昔は、父にも仲間がいたけれど、父が死んでから殆どの人と連絡が途絶えて、今は頼る当てが無い状態。・・・・・・あの人達捕まっていないと良いけれど」
舟を停め、僕たちは明かりの灯らない建物の階段を上っていった。一カ所に長期とどまれないミノンにとって、殆どが廃墟と化したこの村は、絶好の場所だという。
ただでさえ、国末端の集落であり、人が寄りつかない上、この地には表に出られぬ事情を抱えた人ばかりが集まるから、自分の秘密が流れる心配も無いと、気の抜けた様子でベランダの外へ出た。
海に向かって突き出たベランダ。海風が僕らの間を抜けていく。目の前には水平線だけが広がっている。まるで僕らだけが、水平線のこちら側に取り残されたみたいだ。
「・・・僕、水平線なんて初めて見たかもしれない」
冷静に、心が握りつぶされていった。ここにいれば、いつでも世界から抜け出せるような気がして、自然と目が離せなくなっていた。
ベランダの柵で、再出したシヴァが羽を休めている。
「私も、こんなに自分の事を話したの、マコトが初めてかもしれない。不思議だわ。昨日会ったばかりなのに、私あなたをすっかり信用しちゃって・・・。友達みたいだからかな・・・」
「みたい」じゃなくて、言い切ってしまって良いんだよと言ってあげたかった。




