夜間飛行
「とりあえずついてきて。話しておきたいことが沢山あるの」
間もなくして僕たちは酒屋を出た。外はあっという間に暗くなっていて、空には星が浮かんでいる。この世界でも、向こうと変わらぬ空が見られて、僕はどことなく安堵していた。
「こっち!」
人気の無い通りを、ミノンと共に進んでいく。
服は着替えた。髪が目立たないように、フードを被ってある。夜の風が少し冷たいくらいだったから丁度良い。
「ちょっと、こんなところ登って良いの?」
ミノンは廃工場の屋上へと続く階段を、柵を越えて登り始めた。傍から見れば完全に不法侵入だ。
「いいの!どうせすぐ飛び立つんだから」
「え!?飛び立つって!?」
ミノンは答えなかった。沈黙の夜に、鉄の階段を蹴る二人の足音だけが響く。大きな廃工場の屋上は広く、冷たい風が一層強く吹き付けた。
――何もかもが新鮮だ。
あんな、狭い家庭に閉じ込められて、あんな狭苦しい中で悩んでいたことなんて無かったみたいに、全く新しい道に立っている。この冒険がいつか終わるのは承知の上だ。でも今は、今だけは、この世界での僕を楽しみたい。
学生じゃない。出来た兄の、出来損ないの弟でもない。ミノンの為にここにいる。
ミノンと揃って、冷たい空気を肺一杯に吸い込んだ。
「これ、持ってて」
ミノンはマントの下で握っていた二つのトランクと、異様に強烈な灯りを放つランタンを出して、僕に渡してきた。
「・・・あっつ!」
「気を付けて。ランタン持ったことないの?」
「あるわけ・・・。スマホの明かりで足りちゃうし」
「・・・スマ・・・なんて?」
「気にしないで!」
「・・・とりあえず、ランタンの明かりが床に広がるように持っていて」
そんなことしたら、僕らの居場所が知られてしまう。そう言う直前で、僕はミノンの思惑に気が付いた。
ランタンに照らされたミノンの足元に、彼女の影が浮かび上がっている。その影が、あの時と同じように動き出したのだ。
僕がはっと息を呑む音が、彼女にも聞こえただろうか。
その影は煮え立った鍋のようにムクムクと膨れ上がったのだった。
「うっわぁ・・・すげ・・・」
思わず声にして、その影を見上げていた。
出店の店主が出した影とも違う。衛兵の影なんかより、ずっとでかい。ミノンの影は、広い屋上を覆い尽くすほどの翼を持った、鳥となったのだ。
「これでも小さくなってもらっている方なの。町の人は日常的に影を隣に置くけれど、私が彼を形として出すことは滅多にないわ」
そりゃそうだろう。この大きさで街を歩かれたら、翼に建物がやられてしまう。
そんな彼女に応えるように、影はその嘴を彼女の額にそっと置いた。
「さあ、乗って。悪いけど飛行船に搭乗するお金は無いのよ」
影とは言え、恐る恐る触れてみれば確かに触れられるものがあった。最早影では無い。ここに立つのは、一羽の大きな鳥だった。
「久し振り。シヴァ・・・」
どうやら、この影の名はシヴァというらしい。ミノンは尊い目でシヴァを見つめ、優しく声を投げかける。
シヴァの翼が、僕をすくい上げるようにして、僕を背中へと乗せた。ミノンは慣れた動きでシヴァへと飛び乗る。
その瞬間だった。シヴァが勢いよく地面を蹴って、夜空へと飛び立ったのである。冷風が僕の頬を刺す。グッと歯を食いしばり、僕は目を閉じた。
「羽に掴まって!」
流されそうになった僕に、ミノンが咄嗟に叫ぶ。その声は殆ど風に掻き消されていった。
やがて風流が落ち着きを取り戻したとき、僕はそっと瞼を開いた。僕らは空のど真ん中にいたのだ。空に中心なんて無いのだろうけど、少なくともこの時はそう感じたのだ。
心が洗われていく。夜空に広がった僕らだけの星々に、目が奪われた。
この期にと、ミノンはこの世界について教えてくれた。人だとか、町だとか、そんな規模の話ではなくて、世界そのものが重大な問題を抱えているのだと、この時僕は知ったのだ。
この世界も、宇宙の様な空間に存在する一つの星だということ。ここの宇宙と、僕が知る宇宙が等しいものかは分からない。けど、この星は既に終局へと突入していて、自転がほぼ止まった状態にあるという。
故に、この星はある点を境に、全く朝が訪れぬ「夜の地」と、全く夜が訪れぬ「朝の地」に、二極化してしまっていた。
それでも、この街――いや、国か。この国には朝と夜、両方が訪れる。それは遙か昔、少しでも力――幻能を持つ者が集結し、この国を魔法で固め上げたからだった。現状として、国民が幻能を持つことにより、この広い街を内側から守っている。
「――だから、より力がある方が偉いってされてるの。国を守る、即ち大勢の命を抱えていることになるから。力の大きさは、影の色や形、大きさに出るわ」
「・・・それじゃあミノン、君の力は――」
「――私の影は・・・少し違うの。ともかく、幻能を無くして純粋に命そのものだけで生きてる人がいると、魔力が薄まるって思われてるのよ。本当のところは分からないけどね」
「だから僕は侵入者だって・・・。でも、ということはさ、国の外にも人はいるの?」
「ええ。幻能者から突き放され、夜と朝、どちらかを選ばざる終えなくなった『人間』はいるわ。けど、昔に比べて随分数が減っていると思う。多分ね。外での生活は、想像を絶するほど悲惨だって聞くから」
「・・・・・・へぇ」
それから長らく沈黙が続いた。シヴァの背から顔を覗かせてみると、会話の途中で僕らが海に出たことが分かる。海の一部さえ包み込む力。それがどれだけ広大なものか、なんとなく理解できたような気がしたのだ。
「そろそろ着くわ」
僕が頷くと、シヴァは身体を傾けて急降下した。安全バーの付いたジェットコースターなんて、可愛く思えてくるくらいの猛スピードに、僕は叫び声すら出なかったんだ。




