えのしま化け猫ものがたり
俺はリョウタ、二十二歳。身長は一七三、やや細身、どこにでもいる大学四年生だと思う。
いま俺は鎌倉にいる。数日前からどうしてか無性に鎌倉に行きたくなった。居ても立ってもいられず飛行機を予約し、ホテルも大浴場付きの二泊三日だ。かなり張り切ったと思う。実際、鎌倉に着いた瞬間から、来てよかったと思えた。鎌倉駅を出た時の潮の香りが、故郷のそれを思い出させ、なんだか嬉しくなった。正直、最近は生きることにうんざりしていたから、久しぶりに胸が温まる経験だった。
キャリーケースを引っ張り、若宮大路から鶴岡八幡宮に行った。人が三人並ぶのがやっとの狭い道を沢山の人々が行きかい、活気に満ちていた。鶴岡八幡宮はとにかく美しかった。大鳥居を抜けると、丁寧な赤色が施された本殿と神楽殿が一望できる。石段を登って振り返ると、鎌倉の街をこれでもかと一望できる。潮風に吹かれながら遠くの海を見る。ああ、なんて素晴らしい景色だろうか。きっとここには神様がいるんだ。心が洗われていくのを感じた。
その時だ。
「プルルルルル……」
携帯の着信音が鳴る。バイト先からだった。
「あ、もしもし、いま大丈夫?」
同期のアオイだ。
「何、どうしたの?」
「いやあさ、人がいないんだよね。リョウタ空いてるかなーなんて思って。」
「またかよ。ごめん今日はどうしても無理。」
「うそだ、リョウタが無理なんて。」
「無理だって。旅行中なんだから。」
「ええ、あのリョウタが?」
「そうさ。」
「あのバイトしか頭にないようなリョウタが?」
「……もういいだろ。」
ぷつりと電話が切れた。電話って話している時は色々考えるのに、切れる時はなんて呆気ないんだろう。
「はあ。」
思わずため息がこぼれる。ここ最近はずっとバイトを頑張っていた。それが将来の為だし、店の為だと思っていた。だから店が人手不足の時は毎度ヘルプに入っていた。
最初はたくさん感謝されたし、それが嬉しかった。でもいつしか、みんな俺が店にいることを、当たり前だと思うようになった。感謝しなくなった。そんな気がする。バイト先には仲良くしてくれる後輩の女子もいた。カドマさんと言うのだが、正直、俺はその子が気になっていた。しかし最近、カドマさんに彼氏ができたことを知った。なんだか色々と重なり、苦しくなってしまった。
周囲への不満と、何よりも俺自身が情けなかった。だって、俺は何もしていない。現実から離れたくなり、鎌倉に行くことにした。だがアオイからの電話で、忘れたい現実がまた俺の目の前に現れてしまった。
なんてことない会話だとしても、積み重なれば苦しくて仕方なかったりする。しかし誰も、この気持ちを分かってはくれまい。アオイからの電話は、俺にとって耳を塞ぎたくなるほど辛かったのに。
そんなモヤモヤを抱えたまま、俺は由比ガ浜にいた。夏はまだ始まったばかりで、イメージしていたような盛況な海水浴場の姿はそこになかった。一部のサーファーが悠々と波に乗り、ちらほらと海水浴客がいる。いい天気なのに、なんだか寂しいよな。
由比ガ浜から江ノ電に乗り、江ノ島駅に到着する。外国人観光客が沢山いる。みんな江ノ島の方に行くので、俺もサーファーになった気分で、人波のビッグウェーブに乗る。そして江ノ島の入り口の、大きな青銅鳥居の前に立った。弁財天と関わりが深い場所らしく、遠目からも弁天様という文字が目立つ。観光客は友だちや恋人を連れ、うきうきとした様子で鳥居をくぐり、江ノ島をのぼりはじめる。ひとりぼっちは俺くらいだ。それに気づいた時、俺は思った。あれ、俺は何をしにここに来たんだろう。
言いようのない不安と悲しさが不意に襲ってきた。最初は鎌倉を旅するなんて、どれほど楽しいかワクワクしていたし、この日が待ちきれなかった。しかし、いざやって来ると、もちろん魅力的な場所なのに物足りない。非日常の体験をして、ワクワクに満ちた旅をしたかったのに。この場所にはそれがない。なんだ、俺が求めていたものと全然違うじゃないか。せっかく楽しみにしていたのに、期待外れだと落胆した。ひとりは惨めになる。せめて女の子のひとりでも、俺に声をかけてくれれば……そう思った時だった。
「そらそうだにゃ。だってここも、現実だからにゃ。」
足元でいかにもひょうきんな、高い声が聞こえた。見ると、黄色い目をした黒白の猫が、青銅鳥居にもたれかかるように座っているではないか。声のした方には猫しかいない。まさか、そんなこと、いや流石にな……そう目を逸らそうとした時、今度ははっきりと口を開いて、
「お前もかわいそうな奴だにゃ。」
こいつは言った。間違いない、こいつ猫のくせに喋っているではないか。俺はいささか驚いた。なんてったって、猫に話しかけられたのだから。
「お前、悩みがあるみたいだにゃ。顔がやつれて、三十路の手遅れなジジイに見えるにゃ。」
こいつ、口が悪すぎるだろ。俺は怒りに震える右拳をそっとしまう。
「にゃははは。」
猫の愉快な笑いに腹が立つ。でも実際そうなのだ。猫に心を読まれていることは不本意だが、実は半分嬉しかった。俺の気持ちに寄り添ってくれる存在がいることが、どれほどありがたいことか。
「お前、俺の気持ちが分かるのか?」
俺は尋ねた。
「分かるにゃ。だいたいそういう顔をしている奴は、現実にうんざりして、今すぐにどこか非日常の場所に行きたいっていう、よく分からない衝動に動かされるような奴だにゃ。でも実際はどこもかしこも現実だにゃ。どこに行っても、お前は現実から逃れることは、できないのにゃ。」
「……ああ、その通りだよ。不本意だけど、その通りだ。」
「そうにゃ。でもそれは間違いじゃないにゃ。そういう時、自分の心って分からなくなるにゃ。確かに寂しい、悲しいって感情はあっても、その根拠が何だか分からないにゃ。でも、そういう感情を抱いている自分という存在は、真実だにゃ。だから、自分の否定だけはしちゃだめだにゃ。」
そう言うと、猫はなめらかな動きで俺の足元に寄り添った。
「ちょうど暇だったにゃ。よかったら付き合えにゃ。」
「付き合うって?」
「こういうことだにゃ。」
そう言うと、猫は俺に襲い掛かるように頭に覆いかぶさって来る。俺はたまらず尻もちをつき、江ノ島の空を見ながら、仰向けに後ろに倒れてしまった。幸い背負っていたリュックサックがクッションになってくれたが、もしリュックがなければ、俺はコンクリートの道路に頭を打って大怪我していただろ。
「いっててて……おいおい、何するんだよ。」
そう言ってゆっくり目を開けた俺の目の前には、信じられない光景が広がっていた。
「……おいおい、嘘だろ?」
「嘘じゃないにゃ。」
そこには、あり得ないほどの絶世の美女が、デニムと黒いティーシャツを着て、倒れる俺に手を差し伸べていた。一瞬何が起こったのか分からなかったが、次の瞬間には、どきっと大きな衝動が俺の胸を打った。なんて美しい。絵に描いたような美女が俺を見て、手を差し伸べている。それだけでも恋に落ちるのは十分だった。ただし、その中身を除いてだ。
「にゃ。早く起き上がるにゃ。ほら、お前もきっとこれを望んでいたにゃ。」
望んでいたわけではないが、俺は起き上がった。立って並ぶと、隣にいる美女は俺よりも十センチほど身長が低いだろうか。すらっとした体躯はスタイル抜群で、道行く全ての男がその目を釘づけにされるように、不可抗力で振り向いていた。まあ、その中身が嫌味な化け猫だということは、俺しか知らないのだが。
「さあ、早く行くにゃ。」
「行くって、どこへ?」
「江ノ島だにゃ!」
「そ、そうか。」
にゃの語尾がなければ完璧だっただろうに、もったいない。しかし美しい女性が俺の隣を歩いてくれるなんて、素晴らしいことだ。正直、行先なんてどうでも良かった。この化け猫が江ノ島に行くと言うならば、俺はもちろん付いていく。実際に、その心は踊っていた。
◯
江ノ島は山のようなつくりで、その頂上には江島神社中津宮がある。そこに通じるように通りと、様々な出店があり、多くの観光客で賑わっていた。やはり黒猫は注目の的で、どこに居ようと、何をしようと男の目線を釘付けにしている。正直、そこらの女優やアイドルなどでは比にならない。ただしこいつ、ものすごく欲望に忠実な奴だった。
「リョウタ、これ欲しいにゃ。」
「はいはい。」
「あれも欲しいにゃ。」
「はいはい。
「これも食べたいにゃ!」
「……はいよ。」
ソフトクリーム、ラーメン、コロッケ、出店があるたびに猫は立ち止まり、俺に欲しいと言った。少しうんざりしたが、まじまじと見つめられるとつい許してしまう。こういうところが甘いなと思う。神社の二つ目の鳥居をくぐるまでに、既に三千円超の出費をしていた。もうこいつのために金は使わないと、俺は腹を決めた。
「美味しいもの沢山食べたし、さて、ここからは神社を巡るにゃ。」
「全部俺のおごりだけどな……」
「こんな美人が隣を歩くんだから、三千円くらいケチるなだにゃ。さて、まずは辺津宮だにゃ。」
そう言って、猫は饒舌に喋り始める。
「この江島神社には、『宗像三女神』が祀られているにゃ。宗像三女神は『天照大神』と『建速須佐之男命』が『うけい』という儀式をして生まれた、三人の女神なのだにゃ。これは詳しく話すと長くなるので、割愛するにゃ。」
「へえ、お前、よく知ってるんだな。」
「当たり前だにゃ。そして宗像三女神は、『市杵島姫命』、『多紀理姫命』、『多岐津姫命』の三柱の女神で、江島神社では、辺津宮に多紀理姫命、中津宮に市杵島姫命、奥宮に多岐津姫命が祀られているにゃ。まあ、これを三姉妹とする説もあれば、『幸魂』『奇魂』『荒魂』というように、ひとりの女神の三つの側面を、あえて別々に祀っているという説もあるにゃ。ちなみにこれは自説だにゃ。まあこんな話、誰も得しないからやめるにゃ。とりあえず、まずは一番近い辺津宮に行くんだにゃ。」
俺たちは急な石段を上がり、右手に曲がると、もうそこに辺津宮があった。辺津宮は江島神社の中でも最も浅い場所にあるため、多くの人で賑わっている。赤く綺麗に維持されている本殿と、その横にある六角堂が特徴的だ。宗像三女神は仏教系の「七福神弁財天」と混交した神様らしく、その境内も、仏教の名残を思わせる建築様式が目立つ。俺たちはしばらく滞在したのち、中津宮に足を運ぶ。
中津宮までも歩いてそれほどかからなかった。急斜面の石段を嫌う観光客は、備え付けられた『江ノ島エスカー』という、巨大なエスカレーターを使う。俺の大好きなアジカンの曲名にもなっている。しかし俺は歩くことが好きだし、猫は言わずもがな、身軽な動きですいすいと階段を駆け上がるので、エスカーを使うことはなさそうだ。中津宮に行く途中の道で、海がよく見える場所がある。江ノ島の緑と合わさり、その青はなんとも美しい。
そうして、赤く美しい境内が俺の目に飛び込んでくる。辺津宮よりも小さく、参拝客も少ないものの、江ノ島山の頂上に位置し、山の緑を背後に抱える。
「市杵島姫、今日もすごい力だにゃ。」
猫は訳の分からないことを言っている。どうやら、神様の力を感じるらしい。
「おまえ、霊感あるのか。」
「そりゃあ、多少はあるにゃ。」
「へえ、珍しいな。」
「珍しいことなんてないにゃ。みんな霊感はあるにゃ。ただ気づいてないだけにゃ。」
「ふうん。じゃあ、神様っているのか?」
「いるにゃ。ここにもいらっしゃるにゃ。偉大な女神さまだにゃ。」
「いったい、何を言っているのか……」
「馬鹿にしたように言うなにゃ。むしろ馬鹿はお前だにゃ。みんな、気づいてないだけ、気づこうとしていないだけだにゃ。お前はこの神社のパワーを何も感じないにゃ。お前のほうが馬鹿だにゃ。」
一瞬かちんときたが、言われてみればそうかもしれない。俺たち人間は、もともと持っていた直感を自ら否定しつづけ、次第にその感覚すらも失ってしまったのかもしれない。知らないが。
「さあ、奥宮にいくにゃ。奥宮の多岐津姫命は、三女神の中で一番荒々しい魂をお持ちで、強い力を持っているにゃ。」
猫は中津宮の本殿にひとつ礼をすると、足早に山頂へ向かった。山頂に着くと、休憩所や江ノ島タワーがあり、多くの人々でにぎわう。奥宮はそこから山の逆側の石段を下って行った先にある。俺は坂道の連続でやや疲れていたが、猫は一切疲れを見せず、奥宮へと急ぐ。少し歩くと、すぐに奥宮に着いた。以前に行った伏見稲荷の山登りに比べれば、随分と楽な方だ。
「うわあ、びんびんするにゃ。」
奥宮の石鳥居をくぐると、すぐ目の前に奥宮が鎮座している。猫は口々にびんびんするやら、パワーを感じるやらと言う。俺には分からないのがなんだか悔しい。手短に奥宮に礼をした俺たちは、すぐ横の龍宮社に足を運ぶ。巨大な龍の彫刻があり俺は驚いたが、猫はあんなのは作り物だからあんまり好きじゃないと、盛大にディスっていた。龍宮社への参拝を済ませた時に、また猫が饒舌になる。
「宗像三女神は、海や、そこに暮らす『海神族』と深い関わりがある神様だにゃ。龍宮は昔の日本に存在した、海の近くに暮らす一族の住処だにゃ。そして、彼らが龍を信仰していたことで、その住処が龍宮と呼ばれたのだにゃ。」
「あの、浦島太郎の話に出てくるやつか。」
「そうだにゃ。浦島太郎はもともと丹後国、京都の北の海辺に住んでいた男だったにゃ。そして、そこには海辺に暮らす海神族の住処があったにゃ。海神族はもともと日本に住んでいた出雲族の子孫だにゃ。浦島太郎はその地で出雲族の巫女と結婚し、彼らの住処であった龍宮で、姫と暮らしていたにゃ。物語の最初で亀がいじめられているシーンがあるにゃ。亀甲紋は出雲族の象徴だにゃ。要するにこれは、出雲族の姫が多くの男に襲われていたことを表しているシーンで、それを浦島太郎が助けて、結婚のきっかけになった。という話の流れなのにゃ。」
「言われてみればそんな気もするが……おまえ、なんでそんなに詳しいんだ。」
「神様に教えてもらったにゃ。」
意味不明なことを口走るなと思った。喋る化け猫、おまえだって神様みたいなもんじゃないか。
そんな調子で、俺たちは奥宮と龍宮を参拝した。江ノ島にはまだ、その奥に通じる道がある。そこを進むと、岩屋に到達する。俺たちは並んで岩屋を目指した。少し歩くと、青い海が一面に眼前に現れる。ぎらぎらとした夏日の太陽の下には、岩海岸がどこまでの続いており、そのすぐ向こうは大海原だ。岩海岸に勢いよく波がうちつける様子は、自然の大きさと怖さを連想させた。
ここで、唐突に猫はおかしなことを言う。
「さて、おまえには話さないといけないことがあるにゃ。というか、話したいことがあるにゃ。」
岩海岸を並んで歩いている時、猫は言った。
「なんだよ、改まって。」
「まあおかしな話になるが、おまえはいま、不安で寂しいかにゃ?」
俺ははっとさせられた。
「いや、全くだ。なんでだろう。さっきまでは不安や訳もない悲しみでいっぱいだったのに、今は全く。むしろ、最近ずっと心に引っかかっていた悲しみを、まるで忘れていたような、そんな気がする。」
「そうか、それはよかったにゃ。」
そう言って、猫は優しく微笑んだ。どきっと、胸の奥が高鳴るのを感じる。猫の背後には、岩屋の波が大きな音を立てて、ざぶんと響かせている。大海原の潮の香りが鼻を刺激し、猫は俺の方を見て柔和に微笑む。その瞬間、懐かしさと清々しさが混じり合った。それはまるで夏の日の魔法のようにも思えた。夏の神様が、俺に施した盛大ないたずらみたいだった。ああ、きっとこれだったのだ。俺が求めていた非日常とは、夢のような瞬間とは、きっとこれのことだった。俺はたったいま、名もなき絶世の美しき化け猫に、自分の心を射止められてしまったかもしれない。いや、きっと出会った時から、俺はこの化け猫に恋をしていたんだ。恋、いや、恋心に似た何かを抱いていた。それは例え、人間の姿じゃなかったとしても、猫の姿のままだったとしてもだ。
「いま消えたら、お前は寂しいかにゃ?」
猫はその大きな瞳で俺を見つめる。胸の奥からこみ上げてくるものがあった。
「ああ、寂しいよ。なんて言おうか分からないけれども。なんだか、とっても寂しい。」
「そうか、それは嬉しいにゃ。ふふふ、それはきっと、おまえの本心だにゃ。理由がなくたっていいにゃ。おまえがそう思えば、それは正しいにゃ。事実と真実は違うにゃ。おまえは、おまえにとっての真実を大切にして、これからも生きてほしいにゃ。」
この猫はどうして、こんなことを言うんだろう。分からない。しかし猫の言葉のひとつひとつが、余すところなく、俺の心のすっと入り込んでくるのはどうしてだろう。
「真実……」
「そうにゃ。あと、もうひとつ言っておくことがあるにゃ。それは、この世界は全て自責で成り立っているにゃ。つまり、自分の心が、自分の行動が、この世界を作っていくにゃ。他人任せにして、期待してばかりじゃ、人生が変わることはないのにゃ。もしおまえが人生を変えたいと思うなら、自分の意識で、この世界を力強く、変えていくにゃ。それでおまえの人生は、きっと大きく動くにゃ。」
「自分の力で……」
「そうだにゃ。自分の力、自分の意識で、この世界を変えていくだにゃ。リョウタ、お前にはきっと、それができる力がある。自分を信じるにゃ。ねだるな、勝ち取るんだにゃ。」
猫は眉をきりりと立て、後ろの大波にも負けないほど強い口調で、勇気づけるように言った。その瞬間、俺の心に無限の熱が、勇気が、湧いてくるような気がする。どうしてだろう。こんな気持ちになったのは初めてだった。黒いティーシャツを風に揺らしながら、猫は右手で拳を握り、俺の目の前に突き出した。潮風がどっと吹く。太陽の温もりと潮の香りを運ぶ、ここにしかない風の感触に包まれる。
「頑張れよ、青年。」
気付けば、俺の目には一筋の涙があった。猫は変わらず、一抹の迷いもない表情で、ただ俺だけを見つめている。かつてこんなことがあっただろうか。バイト先のみんなも、家族も、友達も含めて、俺の心の底にある愛されたいという欲求に、ここまで寄り添ってくれた存在と、俺は今、人生で初めて出会ったと思う。奇しくも、それが人間ではなく、どこか阿保で、神秘的で、絶世の美女の化け猫だっただけだ。
なんだよ、最高に面白い人生じゃないか。俺の中で確信に近い気持ちが湧いてきた。そうだ、人生は楽しいんだ。路頭に迷ったり、自分を犠牲にしすぎて、楽しさを見失うこともある。けれども、人生はいつだって最高であり続ける。最高の存在として、俺たちのすぐ傍にいつづけてくれている。この化け猫がそう言っている気がした。自分の意識次第で、どうにでもなる。だから執着や理屈は棄てるんだ。そして心の奥底にいる、真実の自分と向き合って、その気持ちに正直になるんだ。そこに正解はない。みんながみんならしく生きる。誰しもが誰かのものではない。みんな自分は自分だけのもので、みんな違って、みんないい。
「ありがとう。」
ふと、俺はそう呟いていた。
「おまえのおかげで、救われた気がする。」
ざぶんと、ひときわに大きな波が岩を打ち付けた。
「……よかった。じゃあ、こっちもひとつ、いいかにゃ?」
猫は言った。
「なんだ?」
「変な意味じゃないんだにゃ。ただ、おれのこと、抱きしめてほしいにゃ。」
俺はどきっとした。猫は伏し目がちで、いかにも恥ずかしそうに顔を赤らめている。
「ど、どうして。」
「理由はないにゃ。ただ、おまえだけへのお願いだにゃ。」
「そ、そうか。」
なんで化け猫がそんなことを頼むのか、理由は分からない。でも分からなくていいんだと思う。理屈はきっと、なくていいんだと思う。
「じゃあ、分かった。」
「う、うん。」
波音が響く岩海岸には、俺たち以外に誰もいない。岩屋に続く赤い橋にも人影はない。まるで神様が俺たち二人、いいや、一人と一匹のために用意してくれた神聖なステージのようだ。そうして、俺は猫の身体を抱き寄せ、優しく抱きしめる。ふわりとした感触が全身を包み込む。ドクンドクンと、二人の心の臓の高まりが共鳴する。じわり、じわりと、俺は猫の身体をこちらに手繰り寄せるように、力を強める。猫の身体が腰から胸にかけて、前のめりに、俺の身体にぴたりとくっつくと、その温もりはいよいよ、巨大な熱を帯びてくる。
「幸せ、だにゃ。」
猫が静かな声でそう呟いた。波音が作る音の幕が、俺たちだけの空間だけに、その声を響かせる。猫の吐息が、ささやきが、俺の耳元に、吐息交じりに押し寄せる。
俺だって幸せだ。そう言いかけた時、猫がゆっくりと口を開いた。
「リョウタ、あの……あのだにゃ。」
「どうした?」
「顔、こっちに向けてほしい。」
俺は猫とにらめっこした。美しく整った顔が、俺の目の前にはっきりと映る。ただ美しいだけではない、猫の表情が、感情のゆらめきが表れているその様子が、とても美しいと思う。
「リョウタ、あの……」
「ど、どうしたんだよ……?」
「怒らないでほしい。今のままで、ずっと、お願い。」
「だから、いったい何の……」
刹那、俺の唇にふわりと、優しい感触があった。猫の身体が更に近くにやってくる。あまりにも突然の出来事に、俺は猫を手放しそうになる。しかし猫の言葉を思い出す。今のままで、ずっと、お願い。その言葉の意味がようやく分かる。俺はその手をしっかり掴み、猫の身体を放すまいと、更に抱き寄せる。
「はあ、はあ……」
ようやく顔が離れる。俺たちはしばらく、無言で見つめあっていた。何をどうすればいいか分からない。キスも、この海も、俺にとっては初めてで、猫の気持ちも、その行動の意味も、分からない。ただ、猫は柔和な笑みを浮かべて、ありがとうと言ってくれた。神様が用意してくれた、誰も寄せ付けない、俺たちだけの思い出。
「ねえ、最後に。」
猫は続けて言った。
「もし消えてしまっても、ずっと、記憶に留めておいてね。忘れないよ。」
「……それ、どういうことだよ。」
「そのままの意味だよ。」
「おまえ、消えるのか?」
「……そう、かも。」
猫は満面に笑った。
「ありがとう。リョウタに出会えて、少しだけだったけど、旅ができて、幸せでした。」
「おい、やめろ、お願いだから……!」
どうしてか、俺は叫んでしまった。
「……困った人。」
猫はそう言うと、両の手を握りしめ、俺の身体を抱きしめる。その瞬間、俺は別れを悟った。先程とはまた別の涙が頬を濡らす。波の音が先程よりも静かになる。波よ、お願いだから消えないでくれ。この時間を永遠に、この場所に留めておいてくれ。そんな無駄な願いを天に祈っては、馬鹿馬鹿しくて捨ててしまう。猫はそんな俺に感づいたのだろうか。自分だけを見てくれと言った。そしてひと呼吸置いて続ける。
「最後に、ひとつだけお願い。」
「……なんだ?」
「何でもいいの。名前をつけてほしい。」
猫は言った。
「あなたが思う、名前を、つけて。」
猫を抱きしめながら、俺はしばらく考えていた。心の底にいる、本当の自分に、この子の名前を聞いてみる。突然の出会い、そして早すぎる別れ。それはまるで、高波が勢いよく岸に打ちつけ、まるで何もなかったように消えてしまうようだ。
「ミナミ、とか?」
「……なにそれ、可愛い名前だね。」
猫は目を瞑った。まるで穏やかな眠りにつくかのように。そして二度、ミナミと、噛みしめる様に口ずさむ。
「ありがとう。」
猫は言った。その瞬間、猫の身体は色を失い始める。半透明になっていく身体とは対照的に、猫はとても幸せそうな表情で、目に涙を浮かべながら、俺を見つめている。
それは『美しい涙』。
ああ、本当に消えてしまうのか。俺は寂しかった。せめて、この子が完全に消えてしまうまでの、ほんの儚い時間の中で、俺にできることがあるか。何か、悔いを残さないように、俺にできることは……
『自分の力、自分の意識で、この世界を変えていくだにゃ。リョウタ、お前にはきっと、それができる力がある。』
猫の言葉がよぎる。考えるよりも前に身体が動いていた。強引かもしれない、それでいいんだ。今この猫に思いを伝えないと、きっと後悔する……俺は半透明になった猫の身体を抱き寄せ、その唇にキスをする。
「んんっ!」
猫は一瞬、驚いたように声をあげた。少し驚かせたかな。でも最後は全身の力を抜いて、俺に全てを委ねてくれている。よかった。唇と唇が複雑に絡み合う中で、猫はいよいよ大粒の涙を流し、そのまま静かに、俺の手の中から、その温もりを消してしまった。
「ありがとう。」
そんな声が、空の彼方から聞こえたような気がした。
〇
「リョウタ、バイト入れる?」
鎌倉から帰ってきた翌日、アオイから電話がかかってくる。どうも俺が鎌倉から帰る日程を把握し、それを狙ってかけてきている気がする。
「ごめん、無理だ。」
「うっそでしょ。リョウタ、もう札幌帰ってるんでしょ?」
「うん、でも無理なんだ。ごめん。」
「そっかあ。うーん、分かったよ。」
アオイはいつもの活発な声で、残念そうに言った。鎌倉に行った日から、俺は自分の心に素直になることにした。全ては自分の意識次第、俺の初めての口づけを奪って消えてしまった、あの不思議な化け猫の教えが、俺を強くしてくれた。結局、バイトに入ってた俺は、みんなに承認してほしくて、感謝がほしくてやっていた。でもそうじゃない。本当に自分がやりたいことを心に問いかけた時、おのずと答えは出た。そう、俺はいま電気屋で、カメラを選んでいる最中だ。バイトで貯めたお金でいいカメラを買う。そして卒業までにもう一度江ノ島に行って、あの化け猫との記憶を思い出しながら、沢山写真を撮りたい。そしてあわよくば、ファインダー越しにその姿を見せてほしいとも思う。
「でも、よかったじゃん。」
そんな俺に、アオイは思いもしないことを言った。
「わたし、今のリョウタの方が好きだよ。」
少しどきっとした。
「え、なんでさ。」
「えーだって見てれば分かるもん。やっと自分のための人生を歩む気になったんだーってね。」
そんなアオイの言葉が嬉しくてたまらなかった。俺は照れ隠しで言った。
「なんだよ、それ、意味わかんねえ。」
「ふふふ、いーのいーの。じゃあ店忙しいから戻るね。また今度、バイトで会いましょ。」
「はいよ、じゃあな、頑張れよ。」
電話が切れた。なんとなく幸せな電話だった。あの江ノ島での不思議な一日から、俺は自分で人生を変えようとしている。そして、現に今、俺はかつての自分では想像もつかないくらい、人生というものを楽しめているような気がする。何より、アオイの言葉がとても嬉しかった。そんな余韻を抱きながら、俺は恐る恐る目線を後ろに向ける。ああ、やっぱりだ。そこには髪の毛を在り得ないほど逆立たせて俺を睨みつける。デニムと黒ティーシャツの女がいる。
「だ、誰だにゃ、今の女は!」
いくら絶世の美女とはいえ、半透明の女に周囲の人間が気づくことはない。ただ俺ひとりが、札幌の電気屋の真ん中で、猫に向かって話す。
「誰って、バイト先の同期さ。世話になってるんだよ。」
「な、なにい……許さないにゃ。その女、名前は何ていうにゃ。我慢ならないにゃ。リョウタも、その女も、絶対に許さないにゃ!」
「何もないから、落ち着けよ……」
拳を握りしめ、ただ怒り狂うその姿は見てて滑稽だ。確かに猫は俺の初めての口づけを奪ったが、俺が女の子と仲良くしていても、何も口出しできる立場じゃない。だから俺には罪悪感のひとかけらもない。まあ、そう言えば嘘になるかもしれないが。
「まったく、執着や理屈は捨てろって言っときながら、一番執着してるのはおまえじゃないかよ……」
やれやれと、俺は呆れ口調に笑う。たぶん猫には聞こえていないだろう。でも、本当は分かっている。俺も、猫も、お互いが特別な存在で、無条件に信頼しあえる仲だってことを。そして恋愛云々ではなく、この人に、いや……この化け猫に出会ったことが、まるで運命の導きにも思えることを。そして、猫が傍にいてくれるからこそ、俺は前よりも自分らしく、自分を大切にして生きられるようになったと思う。ここまで来るとまるで守護霊だけど、守護霊にしてはあまりにも阿呆でおっちょこちょいで、愛らしい。そんなどうしようもない化け猫を、俺はカバン二つ分のお土産とともに、江ノ島から持って帰ってしまったようだ。
えのしま化け猫ものがたり (完)
ご読了ありがとうございます。この小説は実際に私が江ノ島に訪れた際、江ノ島神社で出会ったかわいい黒猫がモデルです。実は、私も現実を生きることに少々疲れていて、そんな時に鎌倉に旅をしに行きました。そこで出会った大海原と自然、鎌倉の文化、また鶴岡八幡宮や、江ノ島神社にいらっしゃる神様に、大きな力をもらえた気がしました。その経験をもとに、この短編をしたためることができましたこと、嬉しく思います。
鎌倉はなんといっても海が素晴らしいです。江ノ電に乗って、由比ガ浜や江ノ島の海に思いを馳せていた瞬間が、旅の一番の思い出かもしれません。またいつか、まとまった時間を見つけて鎌倉を旅したいと思います。その時は作中のリョウタのような、不思議な出会いが私にも訪れたり・・・なんて妄想をしながら、旅を楽しみにしたいと思います(笑)。