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名も知らぬ彼女へ送る邪悪な熱視線十三秒

作者: XI

*****


 ぼくは独身の――まだまだぴちぴちの若者(二十五歳)なのだけれど、特別な考えもなくマンションを買った。いつか迎え入れるべき女性が得られるだろうと思ってのことで、だけどしょせんはそんなふうなふわふわした理由である。


「マンションを買ったのに奥さんの、それも候補すらいないのかい? 情けないねぇ」

「そうだぞ。母さんの言うとおりだ。家を買ったんだったらとっとと結婚しろ。規則正しく幸せになれ」


 やっぱり「伴侶を得ろ」という話になるわけだ。まったく、母と父はそんな前時代的な凝り固まった「好き勝手」を押し通そうと、ごり押ししようとするから困る――否、困りはしない。ゴーイング・マイ・ウェイ。古いかな? 古い文化が案外ぼくは好きなんだ。「昭和」と呼ばれる時の流れに、ぼくは惹かれる。だからさっさともろもろ片づけたほうがいいのかもしれないし、そうすべきであろうことはわかっている。


 だけどまあ、そんなことは置いておいて――。



*****


 ぼくは目がいい、あるいはアフリカ大陸に住まうの某原住民のそれのように――こと表現方法については世知辛い「叩き」がある世の中だけど、ほかの例えは思い浮かばないわけだ。


 なにげなくベランダに出て、ちょうどいい高さにある塀に両腕を乗せ上半身を預け、ぷかぷか煙草を吸っていたのである。


 視界に映るのは片側二車線、きちんと緑の木が立つ中央分離帯が設けられている道路と、その向こうにある五階建てのマンション。


 ぼくが住まうマンションと向こうのマンションは背格好が似ている。造り自体も似たようなもの。だけど、土地の高低差ゆえにフロアの高さに微妙な差異があり、相手のマンションのほうがじゃっかんながらも下になる。要はぼくのマンションと比べて、相手のマンションは土台が少々低いということだ。


 ある日、非常に優れた――否、ぼくの変態的な視力はきちんと視界におさめたのだ。相手のマンションに住まってるニンゲンはこちらの「邪な視線」に気がついていない。もう夜だ、暗闇だ。レースのカーテン一枚だけではそれはヒトの目を防御をしていないのと同じことなのだ。


 彼女が服を脱ぎ払うときの色っぽさが好きだ。艶めかしくストッキングを脱ぐ様が好きだ。それ以外にも――ああ、まあ、なんにせよ、むずむずする。そも彼女のために……ために? そうだ、ためにだ。ぼくはすでに「投資」をしている。それなりの望遠鏡を買った。上等なカメラを買った。――一つだけわかっていることがある。ぼくは犯罪者になりつつある。



*****


 今日も定時上がり、急いで帰宅。彼女が気になるからだ。もはや、とにかく、彼女のことを無視することはできないからだ。文句があればソッコーで会社なんてクビになったってかまわない。働き口なんていくらでも見つかる。だけど「彼女」のような存在はどう合理的に考えても今後いっさい現れるようには思えない。稀有なのだ。ぼくはとっくに彼女に魅せられている。言い訳のしようがないし、しない、する必要もない。


 例によって望遠レンズつきのカメラで「彼女」を観察している。ぼくはこんなヘンタイ野郎だったのかと自身に疑問を呈したくなるし、注文をつけたくなったりもするわけだけれど、世の中、どうしようもないことってある――って、割り切れるようになってしまった。ぼくって奴はすでに罪深い。



*****


 どう見ても今日も美しい。眺めているだけで背筋がぞわぞわしてくるし、いっぽうで妙な安心感、安らぎが得られたりもする。不思議なものだと思う。彼女が彼女であることだけをぼくは望んでいる。おめでとう、ぼく。やっぱりぼくはヘンタイだ。


 彼女の帰宅時間はまちまちだ。まっすぐ定時であろう――そんな時間に帰ってくるほうが多いけれど、たまに頬も胸元も桃色に染めて帰宅することもある。「胸元も桃色」――ぼくの盗撮グッズは万能で優秀だ。


 変態的にカメラを向けて、その隣にはいつでも物事を分別してくれる望遠鏡。悪いですけどおねえさん、ぼくは今日もあなたの一挙手一投足を記録し、漏れなくファイリングさせていただきます。ただ卑猥なことに用いたりはしません。約束です。ぼくにとってあなたは誰より尊いのだから。



*****


 ぼくには時間をカウントする癖がある。

 今夜も彼女のことを望遠鏡で観察しながら、秒を数える。


 1.2.3……。


 いつか見つかることは覚悟していた。

 捕まることだって。


 だけど、彼女は笑った。

 レンズの向こうで笑ってみせた。

 1.2.3……と数えて十三秒のこと。


 ぼくの、一般人と変わらない読唇術が気を利かせた。


「したい? おいで?」


 全部見抜かれていたのだと思うと、背筋を冷たいものが滑り落ちた。


「したい? おいで?」


 ――また言った。



*****


 次の日とその次の日も、ぼくは覗き見を続けた。彼女が帰ってきたのを確認し、望遠鏡で彼女のあられもない姿を観察するのだ。


 彼女の視線がまた、望遠鏡に絡まった。


「やっぱりしたい? おいで?」


 違う。

 違う違う。

 違う違う違う。


 盗撮趣味のあるぼくからすると、姿を見れるだけでいいのだ。大それたことなんて一つも考えていない。だけど、だけど……ヤバいなあ。これ、相手には気づかれているわけで、その旨、彼女に警察に話されてしまうと、いよいよ逃げようがないではないか。もし盗撮の罪などで逮捕されてしまったら、母は泣くだろうし、父は怒るだろう――って、いや、そんなことはいまのところどうでもいいんだけれど――。


 どうしよう……。


 そんなふうに数分悩んでいると、いきなりだ、ぼくの部屋の戸を、どんどんどん、どんどんどんっとノックする音が聞こえた。ノックと言えば聞こえがいいけれど、とにかく乱暴だ。止むを得ないのでドアスコープを覗き込み、そしたら「くだんの彼女」がニコッと笑っているものだから、それはもう驚いた。


 どうしようかと考えた。


 落ち着け、落ち着け。望遠鏡とカメラをとりあえずクローゼットに隠した。そのあいだもドアはがんがんがんがん叩かれている。ご近所さんの目を考えても対応しなければならないと思い、しかたなく玄関の戸を開けた。


 美しい彼女がラフな恰好でいた。


「このマンション、分譲だよね?」

「は?」

「分譲だよね?」

「まあ、それは……」

「どうして覗き見なんてするの?」

「は?」

「どうしてするの?」


 平たく言ってしまうとどう考えたって性癖だろう。恥ずべきことを指摘されたのかもしれないけれど、特段、嫌な気持ちにはならなかった。


「聞いてくれる? わたしはしょーもないOLで、毎日毎日それなりにがんばってるわけだけど、夢はお嫁さんなわけ」

「お、お嫁さん?」

「そ。小学生のときからずっとそう」


 なんて無邪気な「夢」だろうか。では、生々しいぼくは自らの行い――覗き見をしていたことがメチャクチャ恥ずかしくなったかというとそうでもない。そうである以上、やっぱりぼくは邪悪でヘンタイな存在なのだろう。


「とにかくだ、きみ」

「は、はい、きみです」

「わたしはいまのマンションから出るつもりはないのだよ」

「住まいを簡単に変えるのは難しい。わかっているつもりです」

「へぇ、案外、大人じゃん。まともなこと言うじゃん。でも、だったらこれからも『覗き』を許容しろっていう話になっちゃうよね」


 ……は?

 ぼくの目は点になったことだろう。


「い、いえ。きちんとカーテンをすればいいだけの話なのでは……?」

「ああ、そういうの嫌いなんだ。大切にしたいのは解放感、なんてね」


 えぇーっ。


「やめます。お約束します」

「でも、それじゃあきみの人生、面白くなくなっちゃうでしょ?」


 人生とか。

 そんな大げさな話でもないと思うんだけど……。


「やっぱりやめます。お約束します」

「やめますやめますって、オウムかきみは」


 しかたないなぁとでも言わんばかりの顔をして、彼女は笑った。


「話を詰めよう。部屋、入っていい?」

「いいですけど……」

「だいじょうぶ。変なティッシュが転がっててもなにも言わないよ」


 その心配はまるきりないのだけれど、ぼくの顔は真っ赤になってしまっていたことだろう。とにかく気が弱いんだ、ぼくの場合、特に女性が相手だと。



*****


 リビングにぽつんと置いてある黒くまあるいちゃぶ台を前にし、彼女と向かい合った。ぼくは正座だ。彼女は豪快にあぐらをかいているというのに。


「まずは握手をしよう。我々は同志なのだ」


 ぼくはなかば反射的に目をぱちくりさせた。彼女は右手を差し出したまま、ニコッと笑う。なんて魅力的な笑顔なのだろうと思う。彼女、やっぱり同い年くらいだろうか、やっぱり途方もないくらいに美人だ。


「ねぇ、きみ」

「は、はい、きみです」

「これからも覗いていいよ。カーテン、開けておくからさ」

「えっ」

「いやね? きみがカメラ片手に右手をアソコにやるような男ならまた考えなきゃいけないんだけどさ、きみは純粋に覗きという行為に楽しさ面白さを見い出してるだけなんでしょう?」


 それは間違いない。

 なんだかとても恥ずかしくて情けないけれど、そこのところは間違いない。


「お、お金なら払います」


 ぼくはどこまで必死なんだ。


「できるだけ高額を払います」


 ああ、ほんとに、ぼくったら、もう。


「お金なんて要らないよ」彼女はニッコリと笑んだ。「ただ、そうだね……縛りくらいは設けよっか」

「縛り?」

「一日において、きみがわたしを覗いていい時間は十三秒だけ」

「じゅ、十三秒?」

「ダメ?」

「ダメじゃないですけど、どうして十三秒なんですか?」

「十三秒っていう数字が好きだから。デス・サーティーン、知らない?」

「知りませんけれど……」

「うぬは勉強が足らんな」


 彼女は右手を伸ばして、ぼくの左肩をばしばし叩いた。


「一つ疑問があります」

「なんぞや?」

「ぼくは十三秒以上、あなたを見てしまうかもしれませんよ?」

「そこはきみががんばるんじゃない。がんばれないの?」

「わ、わかりました。がんばり、ますっ」

「正直だね。わたし、きみのこと好きになっちゃうかも」

「えっ」

「帰るね」


 彼女はすっくと立ち上がると、「バイバーイ」と言いつつ、部屋から出て行った。



*****


 ぼくはどちらかというと料理男子だったはずなのだけれど、最近、夕食はカップラーメンが増えた。シーフードヌードルとカレーヌードルを交互に食べている。たまにプレーンも混じるかな? それもこれもなぜかと言うと、帰宅したらすぐさま望遠鏡なりカメラなりを覗く、あるいは覗き続ける必要があるからだ。


 今夜も貴重な「十三秒」がやってきた。

 やはり彼女の帰宅時間に法則性は見受けられない。

 この分だと、しばらくはカップ麺生活から抜け出せそうもないなぁ……。


 絶対だ、絶対に、彼女はぼくから覗かれていることがわかっているのだけれど、わかった上で、だから帰宅するや否や、ぼくにウインクして見せるのだ。


 ほんとうにそれだけ。

 そのウインクを得るだけで、「十三秒」は過ぎてしまう。


 ぼくは彼女の真っ白な背中が見たい。きめ細やかな肌が見たい。ただ、彼女がウインクとともに「ただいま」と口を動かす姿を見るとこの上なく安心したりもする。


 ぼくがしたいのは覗き見だ。

 あくまでも覗き見だ。


 だけど、そのうち、「それはちょっと違うんじゃないだろうか」などと思うようになった。残業をするようになった。望遠鏡もカメラも売り払ってしまおうかと考えるようになった――休みの日、彼女の部屋を覗いてみた。彼女は一人でちゃぶ台に向かい――ちょうど昼食時、地味な部屋着でご飯を食べている様子だった。御飯茶碗が見える。お茶漬けだ、すするようにして食べている。とても寂しそうに見え、気づけばぼくは左手の爪を自身の胸に激しく立てていた。



*****


 十三秒ルールは守っている。住まいの距離は近いのに、心はずいぶんと遠く感じる。結局、覗き見はまだ続けている。毎日、きっちり十三秒――だいたいの場合、彼女のウインクと「ただいま」を見るだけで終わってしまうのだけれど、もうそれでいいやと思うようになった。彼女が一日を平穏に暮らせたのであればそれでいい。いつしか覗き見は邪悪なる意味を失い、彼女の無事を確認するだけの行為、手段、ルーチンになった。それでいいのだと考えた。



*****


 十三秒、十三秒、心の中で十三秒。

 彼女の帰宅を確認してから、カウントを開始する。


 ウインクがなかった、「ただいま」も。


 彼女の後ろからグレーのスーツ姿の男が入ってきた。大柄な男だ。押し入ってきた感がある。実際、彼女は部屋の隅まで逃げると、持っていたバッグを男に向かって投げつけた。


 彼女がガラス戸に張りつき、叫んだ。


「助けて!」


 ぼくはとっくに「十三秒ルール」を破っていた。


 ぼくは駆け出していた。



*****


 彼女に覆いかぶさろうとしていたところを、ぼくは右足で大男の顔面を思い切り蹴り上げた。大男は仰向けにばたんっと倒れた。馬乗りになって、気絶するまで殴ってやった。ぼくは腕力に自信があるほうじゃない。起き上がってこられて反撃に遭うのが怖かった。左足を掴んでうんせうんせと身体を引きずり、部屋の外に出した。戸には鍵をかけた、がちゃり。一件落着? そうだといいな。


 彼女ははだけた胸を隠すように真白のブラウスの前を掻き合わせて、目を見開いていた。そこにあるのは恐怖だろうか。きっとそうだろう。こういう場面で抱き締めたりするだけの甲斐性があればぼくの人生はもっと希望に満ちたものになっていた――のだろうか?


「あの、もうだいじょうぶですから」

「ほんとうに?」

「はい。すぐに警察に連絡します。そういうことなんですよね?」

「あいつ、前からしつこかったの。でも、まさか家にまで押しかけてくるなんて……」


 彼女は身を震わす、がたがたと、がたがたと。ほんと、どうしてこうときにそっと抱き締めてあげるだけの度胸と根性が、ぼくにはないのだろう。それでも、頭を撫でてあげることくらいはできた。途端、彼女は泣きじゃくった。両の目元を両の指で拭いながら、えーんえーんと。怖かったんだ、ほんとうに。かわいそうだ。女のヒトって、みんな、少なからず、かわいそうなのだろうか。



*****


 彼女はブラウスのボタンを一つずつ留めた。手はもう震えていない。落ち着いたようだ。もう少しだけそばにいようと考え、ちゃぶ台を挟んで、ぼくは彼女の正面であぐらをかいた。「紅茶でも入れようか?」と提案されたけれど、彼女に動いてもらうのはなんというかこう、心許なかったので、刹那迷った挙句、「おかまいなく」と伝えた。彼女は「変なの」と言い、花のように笑ってくれた。


「あの男」

「ん?」

「あの男、もう少し、殴っておきましょうか?」


 彼女はちゃぶ台をばんばん叩いて笑った。


「勇敢なんだね。っていうか、すっごくカッコいいじゃない」

「えっ、そうですか?」

「きみはどこかズレてるんだ。そこがきみの楽しいところだと思う」


 ぼくは気になっていたことがあって、それは彼女が部屋で一人お茶漬けをすすっていた姿で、だからそのへん、思い切って切り出してみた。


 彼女は「変なところ見られちゃったね」と微笑し、それからインチキ外国人みたいに「あれがわたしの本性デース」と片言で言った。


「どうしてなんですか?」

「えーっ、そこ突っ込んでくるのぉ?」

「どうしてなんですか?」


 一本気の馬鹿だね、きみは。

 彼女は悪い気はしていないようだった。


「わたしには家族がいないの」と言った彼女の笑みは間違いなく苦笑だった。


「どういうことですか?」

「もうね、十年以上も前のこと。家族で北海道旅行に行ったんだ。パパとママと、そして妹と一緒に。ほら、ここまで言ったらさ、勘のいいきみにはわかるんじゃないかな?」


 勘がいい?

 ぼくが?

 ――だけど、なんとなく、わかった。


「パパの運転する車が事故っちゃったの」しかたなさそうに、彼女は眉を八の字にして笑った。「パパもママも妹も、みんな死んじゃった。生き残ったのはわたしだけ。わたしだけなんだ。ねぇ、こんなに残酷な現実って、ほかにある?」


 ないと思う。

 思うと同時に、彼女は寂しいニンゲンなんだという思いを確かにした。


「これまでいろんなヒトと付き合った、キスもした、セックスもした。だけどわたしの心を、寂しい心を埋めてくれる男のヒトなんて一人もいなかった。だったら一人でいたほうがマシだと思わない? 少なくとも、誰にも気を遣わなくて済むんだから。ねぇ、違う? 違うなら言って?」


 捲し立てるような言い方に、彼女の必死さと切実さを見た気がした。


 自分がそうあることが恥ずかしかったのか不本意だったのか、彼女は気を取り直したように「ピザでも取ろっか」と笑顔になった。彼女はケータイを手にする。その手がまた震え出した。「あれ? おかしいな、おかしいな あれ? あれ?」と言ってなおも手を震わせ、そのうち身まで震わせ、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。


「怖い、怖いよ……。私はひとりぼっちなのに、これから先もずっとひとりぼっちなのに、ささやかな時間すら邪魔されるのは、怖いよ、怖いよぅ……」


 めそめそ泣く彼女。ぼくは少々顎を上げ、部屋を見渡した。白い壁掛け時計を見つけた。珍しい。フツウの時計だ。電波時計ですらない。そう、か……。ぼくはヒトをデジタルで捉えようとする。そのほうが手っ取り早くて間違いがないからだ。ぼくは坂道より階段のほうが好きだということだろう。でも、彼女は坂道なのだ。そこには相容れる要素なんてないように思う。だけど――。


「アナログ時計さん」

「えっ……」


 彼女は目を大きくして、不思議そうな顔をした。


「ぼくは無愛想だけど正確なデジタル時計です。それでもよければ、ぼくは、あなたを一人にしたりはしません。約束です」それから、ぼくは笑った。「ありえないかなと思います。ぼくは言わば覗き魔ですから。でもあなたの苦しみや寂しさを知ったいまとなっては、ぼくはあなたのためになにかをしたいと考えてる。迷惑ですか?」


 彼女はきょとんとしたのち、ぶんぶんと首を横に振った。

 それから破顔して、それからいっそうはっきりとした泣き顔になった。


「助けてくれる? 助けてくれるの? ほんとうにわたしのことを、救ってくれる?」


 ぼくは「はい」と答えた。


 彼女は涙も鼻水も乱暴に拭い、「立て、少年!」と声を張った。言われたとおりぼくが立ち上がると、彼女は抱きついてきた。違うな、違う。愛があっての抱擁じゃない。


 彼女が求めているのは安らぎと優しさだ。


 だけどぼくは彼女のことがやっぱり好きだから、下記を述べた。


「守ります、あなたを、絶対に」


 我ながらクサすぎるセリフなので、そんな自分に目眩を覚えた。



*****


 いわゆる「覗きの十三秒」はなくなってしまった。ぼくとしては、いま思ってみてもなかなかに魅力的で有意義な時間だったのだけれど、「きみを守る」と言って、都度都度彼女の家に長居をさせてもらっている手前――。カメラは捨てた、望遠鏡も。そもそも要らない物は持たないタチだ。全部捨てた。全部捨てた上で、ぼくは彼女の、言わば「番犬」になることを選んだ。犬だ、犬なのだ、わんわんわんっ!


 ぼくはその日も定時に上がり、それなりに疲れた顔で電車を乗り継ぎ、自宅に至り、それからすぐに彼女の部屋に合鍵でもってお邪魔し――困ったことがあれば連絡しろと言っている。彼女もその折には必ず一報を寄越すと言っている。だったらいい。それでいい。


 今夜も彼女が帰ってきた。ちゃぶ台の前であぐらをかいているぼくを見つけて喜んでいるのは明らかだ。「きゃっほーっ! 今日も無事帰宅だよぅっ!」などと大きな声を出す。それでいい。彼女が元気であれば、目下のところ、ぼくはそれでいい。ノー・プロブレム。


「ねぇ、きみ」

「はい、きみです」

「もうそろそろキスくらいいいんだよ? 許すっ!」

「いいです。そんなことがしたくて、ぼくはここにいるんじゃありませんから」


 その気持ちは途方もないくらいの本心だ。


「……あのね、きみくん」

「きみですけど、なんですか?」

「きみはヘンタイだよ?」

「自覚してます」

「ヘンタイなんだよ?」

「ですから、強く自覚しています」


 彼女は笑った。「それでも抱いてって言ったら?」と言った。


「お断りします」

「馬鹿っ」

「自覚しています」


 だけどぼくは、つまるところ、はぁ……情けないんだけれど、覗き見の癖は残っているらしくって。


 彼女がリビングから消え、隣室に入り、戸を閉めたところで、あろうことか、ぼくは戸をこっそり開けてしまった。――ああ、なんて美しいんだろう。彼女の真白の背中ときめ細やかな背中が目に飛び込み、それは視覚を痛いくらいに刺激し――。


 彼女が振り向いた。

 その口が「ばーか」と大きく動いた。


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