16.緊急事態発生
本日最初の投稿です。
よろしくお願いします。
白いテーブルに飲み干したグラスを置いたキーラは、ニッコリと微笑んだ。
「疑われるのは楽しくないですが、相手が女神ですからね。私のような異国の男が言葉を交わせただけで幸せです。女神との出会いがあまりにも衝撃的過ぎて、ついワインを一緒に酌み交わしたいと分不相応な夢を見ました」
キーラがそう下手に出ると、側妃は「そこまで言われて、出会いに乾杯できないほど無粋ではないわぁ」と言って両方のグラスを取り、一つをダンに渡した。
渋い顔をしたダンは仇のようにグラスを睨みつけていたけれど、側妃が「遅れてしまったけど、わたくし達も乾杯しましょう」とグラスを持ち上げれば同じようにするしかない。
キーラに倣って、二人共グラスを飲み干した。
「今日は美しい満月です。せっかくバルコニーがあるのなら、そちらに移動して乾杯し直しませんか?」
キーラがそう言って立ち上がると、側妃は「それも悪くないわね」と言って後に続こうとした。
しかし、立ち上がることは叶わずに、ピンクの絨毯に膝から崩れ落ちた。
慌てて側妃の下に走ったダンは、「貴様何を!」と血走った目をキーラ向けるも絨毯に膝をついて動けない。
ワインのコルクを開けた時に、キーラは指輪の仕掛けを使って痺れ薬を仕込んでいた。キーラが動けるのは、こんなこともあろうかと解毒剤を飲んでいたからだ。
即効性の強い薬を使ったのにもかかわらず、怒りで燃えたダンの眼光がキーラを捉えている。
蛇のように絡みつくその視線から逃れるためにも、キーラは予定通りにバルコニーから逃走するために全力で走り出した。
だが背後では、もう動けないはずのダンがこれ以上ないほど頬の傷を歪め怒りに震えていた。最後の力を振り絞って握ったワインボトルを、バルコニーへ飛び出そうとするキーラに向かって投げつけた。
ボトルはキーラに当たりはしなかったが、ガラスの扉に当たり一面に赤紫色のワインが飛び散った。ピンク色の部屋が、赤黒い色で汚されていく。
それだけでなくボトルとガラスが砕け散るけたたましい音は、部屋の外にいる護衛の耳にも届いていた……。
明らかに緊急事態だと分かる大きな音のせいで、赤髪の大男が扉をぶち破るように部屋に駆け込んでくる。暗闇に紛れ込む前のキーラに気付いた赤髪の大男は、側妃達には目もくれず外に向かって走り出した。
ひんやりとした夜の匂いがする中を、キーラはひたすら走っている。
玄関から入った時は見えなかったけれど、この裏庭には屋敷を囲む塀よりも高い木が鬱蒼と生えていて月明かりを通さずに闇を落としてくれる。
その木の間をすり抜けるように駆け抜けたキーラは、予定通りに王太子の手の者が待っているはずの裏口を目指した。
普段から裏山で鍛えているキーラの足は、普通の令嬢では考えられないくらい速い。当初の計画通りなら、何の問題もなく闇に紛れて裏口までたどり着けていたはずだ。
しかし、ダンがワイングラスをぶん投げたことで、事態は変わってしまった。
燃えるような赤い髪をした大男は、でかいくせに小回りもきいて恐ろしく足が速い。足の長さも違えば、持っているエンジンも違うとなれば、逃げきるのは難しい。
「おい、お前! 一体何をしてくれたんだ!」
その声が耳元で聞こえたと思えば、キーラは腕を掴まれ一瞬で肩に担ぎあげられてしまった。
当然キーラも力の限り暴れたけれど、ぶっとい腕はびくともしない。
(このままガッチリと押さえつけられたままは、まずい……。何としても、このぶっとい腕から逃げ出さないと!)
赤髪の大男に担がれたまま、塀のそばにある大きな木の下を通る。キーラはありったけの力を全身に込めて、逆立ち状態で太い枝に足を絡めた。赤髪の大男もまさかキーラが上に逃げるとは予想しておらず、上手い具合に力が抜けた。
「おい、お前、何を! ……嘘だろ!」
男の腕から逃れ木にぶら下がった状態のキーラは、振り子のように身体を振って枝の上に立った。そしてそのまま、サルのように木を登り始めた。
「嘘だろ? ふざけんな! 下りてこい! すぐにこの木を取り囲むぞ! 木に登ったって何の意味もねぇんだよ! 時間がないんだから、早くしろ!」
苛立った怒鳴り声をあげる赤髪の大男が、大木を力任せに揺するが、それくらいでキーラの身体はぶれたりなんてしない。
キーラの領地には高い木の上になる実があり、それが高値で売れる。幼少期からその実を狙って稼いできたキーラの木登りは、子供の遊びレベルではない。
(アヤの実取りの申し子と呼ばれた私の実力を見るがいいわ!)
猛スピードで木を登ったキーラは、屋敷の外に向かって伸びる比較的太い枝に乗った。細くなっていく枝先に向かって慎重に進み、塀のそばにまでたどり着く。躊躇いなく枝にぶら下がったキーラは、しなりを利用して塀を飛び越えて外に出ると脱兎のごとく逃げ出した。
(側妃を逃がさずに捕まえられるかは分からないけど、自分が生きていることが重要よ。王太子とローゼントさんには申し訳ないけど、私がやれることはやったわ!)
そう心を切り替えて、表通りらしき道に出たキーラは愕然とする。
ここは王都ではなく、郊外だ。周りに家はないし、灯りもなければ、馬車や人の往来もない。王太子の仲間も見当たらないし、助けが一切望めない。
キーラが生き残るためには、赤髪の大男を始めとする男達に捕まることなく、王都に帰らないといけない。
しかも、徒歩で……。
目の前に広がるのは広大な森と一本の道。左に行けば王都に、右はどこに辿り着くか分からない。前に見える森は深く見渡す限り木しか見えない。後ろは危険なオークション会場。
さぁ、どうする?
(森に逃げ込む? 動物達が、男達より理性的で優しい保証はないよね……。オークション会場に戻って王太子の仲間を探す? こんな状況になれば、もう逃げている可能性の方が高い。なら、右に行く? どこに辿り着くか分からないし、何があるかも分からない。行き止まりの可能性だってある。王都に帰るには来た道を戻らないといけない。追いかけられるのは覚悟の上だ! 考えている暇があるなら、走れ!)
危険を覚悟して、王都に向かって必死に走るキーラ。
(もう少し進めば、集落があったはず。とりあえず集落の納屋でもどこでも、隠れられるところに身を隠す。赤髪の大男達は、後ろ暗い立場。そんな人達が目立つ捜索ができるはずがない。やり過ごせれば何とかなる!)
そう思っていたのに、広報から赤髪の大男らしい低い声が届いてくる。まだ姿は見えないけど、これでは時間の問題だ……。
(どんな身体してんのよ! 屋敷で振り切ったのに、どうしてもう追い付くの?)
キーラの気持ちの上ではスピードを上げているのに、身体がいうことをきかない。怖いし焦るし疲れるしで、もう全てが限界寸前だ。
汗なのか涙なのか分からない水分で滲む視界に、夜目にも明るい白い馬が引く馬車が目に入った。
赤髪の大男達の馬車の可能性もあるとキーラは身体を身構えたが、馬車の家紋は見慣れた剣の紋章だ。ロベルタント家の馬車だ!
キーラは迷うことなく白い馬の前に飛び出し、両手を広げて馬車を止める。
暗闇の中で突然飛び出してきたキーラに驚いて立ち上がった御者が白馬を止めたので、ザっと砂埃が舞い上がる。
御者に向かって叫ぶ時にキーラの口の中は、砂埃が入り込みじゃりじゃりだけど気にしている場合ではない。
「私はリエットール学院で外国語教師をしている、キーラ・アラマスです! 不審者に追われています! 助けて下さい!」
「…………」
何度も顔を合わせたこともある御者は、キーラを見たままポカンとしている。
いつもはひっつめ眼鏡の地味な女教師が、ド派手な衣装で男になっているのだから当然だ。これで信じろって方が無理なのかもしれない。
それでも必死に髪を団子状にして「ほら、キーラ・アラマスです」と言っても、キーラのトレードマークになってしまった眼鏡がない。眼鏡がなければ印象も変わるし、フレイヤの化粧も影響して今のキーラは全くキーラ・アラマスには見えない。
(嘘でしょ? 学院長の馬車なのに、助かったと思ったのに……)
キーラが膝から崩れ落ちそうになっていると、馬車の扉がゆっくりと開いた。中から「乗れ」と声は聞こえなかったけれど、扉が開いたのだから乗っていいと言われたも同然だ。
天の助けとばかりに、キーラは馬車に飛び乗った。
遠くにオークション会場の屋敷の灯が遠くに見えるだけで、外だって暗闇だ。しかし、満月の光が届かない分だけ、馬車の中は外よりずっと黒さが増す。
何故かゾクッとするような冷気を感じたキーラは、向かいに座っている学院長の使用人に感謝の言葉を述べる。
「急な願いを聞き入れていただき、ありがとうございます。こんな格好をしておりますが、リエットール学院の教師をしているキーラ・アラマスです。お手数ですが、王城まで連れて行っていただけると助かります」
「……………ならば、ここにいる理由を説明してもらおうか」
暗がりから、怒りに満ち溢れた低い声を聴いた瞬間に、キーラは馬車に乗ったことを後悔した。
「えっ? 何で学園長が馬車に……?」
こんな時間にこんな場所を走っていた馬車だ。てっきり学院長の家の使用人が、何か急ぎの用事で通りかかったのだとばかり思っていた。まさか、多忙な学園長が、夜に郊外をうろついているなんて……信じられない。
信じられないけど、暗闇に目が慣れた今なら分かる。目の前にいるのは間違いなく学院長だ……。
腕を組んで椅子に座っている学院長から、今までで一番どす黒く粘り付くような怒りのオーラを感じる。いや、オーラというかもはや液体? そのスライムみたいなどす黒い怒りが、大蛇のようにキーラの全身に巻き付いて離れない。
「俺の質問に答えろ」
冷たく厳しい声は、一瞬でキーラを凍り付かせる。
「こんな夜更けに、こんな場所で何をしていた?」
「…………」
学院長の声が冷たすぎて、キーラの喉も凍り付いて言葉が出ない。
(これは……、本当のことを言わないと、殺される……)
「…………人身売買の、オークションに潜入していました……」
「………………」
何をしていたのかは答えた。相手が何も言ってこないのなら、このまま黙っていればいい。
何て気持ちには、全くなれない。
無言の圧力が、どす黒い怒りがキーラを襲う。全身に巻き付いた怒りが、これ以上ないほどにキーラの身体を締め上げる。
「あの屋敷で、ギネール国が人身売買のオークションをしています」
「………………」
「そのオークションに側妃が関わっている証明ができれば、人身売買組織を一網打尽にできます」
「………………」
「男装した私は、当然この国の誰にもギネール国にも知られていません。異国の貴族になりすましても、疑われずに側妃に近づけます。ですから、側妃と護衛に毒を盛る役となりました」
「………………」
「……王太子殿下とローゼントさんに頼まれはしましたが、協力することを決めたのは私です!」
学院長の深く長いため息が、馬車の温度をまた下げる。
全力疾走の汗と冷汗で服がぐっしょりと濡れていて、冷え切った服に体温が奪われる。寒さに凍えるキーラは、両腕をさすってわずかに暖を取る。
「……服を脱げ」
「いやいや、脱いだら脱いだで寒いんで」
「汗が冷えているんだろう? その素材の服は簡単に乾かないから、脱がないと寒いままだ。とりあえずジャケットとベストは脱げ!」
確かに刺繍だらけのこの服が簡単に乾くとは思えない。着替えるのが一番いいのは分かっているけど、着替えなんてない。
それに、男装はしているけれどもキーラだって一応女だ。人前で服を脱ぐのは抵抗がある。ましてや、学院長の前で脱ぐなんてもってのほかだ。
そう思って服を握り締めたまま動けないでいると、学院長の大きな身体が立ち上がった。
「それはそんなに大事な服なのか? どこの誰の服だ? ジョーゼスの服か?」
「……? 誰の服? フレイヤさんが趣味で集めた服と言っていましたから、フレイヤさんの服かと……」
「……んっ、そうか……」
学院長はなぜかホッとした声色でそう言うと、キーラの隣に腰を下ろした。驚いたキーラが端っこに飛びのくと、学院長も一緒に横に動く。
(どうなっているの? 向かいの椅子に移動するのは失礼に当たる? 失礼でも何でも、肩がくっついた状態で同じ椅子に座っているのはおかしいよね? 狭いのなら、私がどくべきよね?)
冷え切っていた身体が温もりに包まれたのは、学院長が自分のジャケットをかけてくれたおかげだ。
慣れ親しんだ大好きな匂いに包まれて、嬉しそうにホッとした表情を見せるキーラは幸せ一杯だった。
この時までは……。
学院長越しに、馬車の中に月明かりと冷たい風が入ってきた。出入口の扉から中を窺うのは、赤髪の大男だ。
「おい、キーラ・アラマス! 本当に貴族か? 本当にただの教師なのか……って、お取込み中?」
赤髪の大男は怒るというより呆れ果てた様子で馬車に乗り込んできたが、学院長の顔を凝視するとなぜか後ずさった。
(どういうこと? この人、側妃側の人間じゃないってこと?)
「あれ? えっと……、味方だったの? 王太子殿下の部下の方?」
「味方は味方だけど……」
チラリと学院長を見た赤髪の大男は、「王太子ではなく、あんたの隣にいる隊長の部下だ」と言って笑った。
「たい、ちょう?」
「あんたは学院長としての顔しか知らないんだっけ? この人は王家の影として、何と言うかまぁ、面倒事を押し付けられてるんだよ。表の肩書は学院長だけど、裏の肩書は軍の特殊部隊の隊長だ」
フレイヤや王太子から裏の顔があるのは聞いていたけど、それが王家直属の正式なものだったのにはキーラも驚いた。
信頼と高い身分がなければ、王家の闇に触れることは許されない。
自分との立場の差を改めて感じさせられて、キーラは学院長を見ることができなくなった。
「俺は隊長の指示で長いことギネールの人身売買組織に潜入してたんだけど。まぁ、今日が一番驚いたね!」
「あぁ、王太子殿下が強硬に制圧に踏み切りましたからね。もしかして、連絡がなかったのですか?」
「隊長が知らなかったんだから、俺に連絡があるはずがない。まぁ、あの坊ちゃんは手柄を急ぎたがるから、別に驚きもしない」
「…………!」
王太子を子ども扱いで斬って捨てる赤髪の大男にキーラは驚いた。
軍人がみんなこんな感じなら、そりゃ王家もやりづらいだろう。
追いかけられている時は恐ろしく怖かった赤髪の大男は、意外と砕けた感じで話しやすい。
相手もそう思ったのか、狭い馬車の中に大きな身体が入り込んでくる。大きな身体が二つもあれば、馬車も悲鳴を上げそうだ。
「そんなことより俺が驚いたのは、キーラ・アラマス、あんただよ。あんたがオークション会場に乗り込んできたことに驚いた。しかも、側妃好みの男に男装してだろう? 何をするつもりかとヒヤヒヤした」
「王太子殿下の指示で、側妃と護衛のダンに痺れ薬入りのワインを飲ませたんです。二人が動けなくなったところを王太子殿下の手の者が捕まえる計画だったんですけど、上手くいきました?」
「あぁ、そういやあの二人倒れてたな。あんたがそこまでお膳立てしたなら、さすがに失敗はしないだろう。それより、この俺から逃げるなんてやるな! 教師にしておくのはもったいないから、俺の下で働かないか?」
キーラの視界が学院長の広い背中で埋まって、返事ができない。
「……お前は今すぐに会場に戻って、不備がないように王太子の部隊を手伝ってやれ」
「逮捕と撤収くらい俺の指示がなくてもできるだろう? 遠くで見てるだけだったキーラと喋れるんだ……。うっわ、そんな怖い顔すんなって。今すぐ行くよ」
酷く慌てた感じで扉が閉まると、学院長はキーラの隣にため息をついてどかりと座った。
キーラが一人で背負うには重すぎるほどの怒りが漂う室内が、また闇に閉ざされた。
読んでいただき、ありがとうございました。
あと四話で完結予定です。




