十六
何度か目に、外に耳をすませた時だった。
きし……きし……きし……きし……。
微かな板の軋みを、矢凪の耳が捉える。近くではない、もっと奥の方から。
きし……きし……きし……きし……。
少しの逡巡の後、矢凪は戸に手をかけて指一本分の隙間を開けた。ひやりとした空気と共に、音がよりはっきりと聞こえてくる。
「どうしたんだい、旦那様」
積まれた布団の影から顔を出す泡雪に、矢凪は振り返った。人差し指を立てて、上を指す。
「連中、二階に上がってやがる」
一人、二人ではない。恐らくだが、羽二重楼にいる者全てだろう。二階に人の気配が集中している。
「じゃあ、今なら逃げれるな」
ぱっ、とシロが顔を輝かせる。だがその直後、しおしおと肩を落とした。
「……矢凪、年増が『羽二重楼の周囲を四方祓の術とは別の結界が囲んでいる。恐らく今、羽二重楼は異界にある状態だ。表門から出ようと思っても出れんだろうな』って言ってる」
「そうか」
二階に人が集中したならその隙に、と思っていたのだが。やはり今の内に羽二重楼の四隅に埋められているという、呪具を探して壊すか。
「シロ、泡雪」
名を呼ぶと、二人がこちらを見る。
今の内にここを出るぞ。そう言おうとした矢凪の視界が、不意にぐにゃりと歪んだ。
泡雪達の呆然とした顔が、布団が、押入れが、壁の木目が縦に横にと引き伸ばされて、自分自身すらぐにゃりとぐにゃりと捻じ曲がるような感覚に、立っていられなくなる。
ぴぃん、と耳の奥に突きこまれるような、甲高い音がした。
「――……っ!」
胃の腑が丸ごと引っくり返りそうな不快感。覚えがあった。真白の瓢箪で、ひねもす亭から東丸村に転移した時も、こんな不快感があった。
歪む視界で足元も覚束ない中、畳を蹴る。
もし、これが真白の瓢箪と同じものなら、どこか別の場所に転移させられるかもしれない。泡雪達とはぐれた挙句、危険な目に合わせるのは御免だ。
どうにか、泡雪とシロの腕らしき場所を掴む。そのまま抱え込むのと同時に、地震でも起きたかのように、足元が大きく揺れた。激しい耳鳴りの中で、泡雪の悲鳴らしきものが響く。シロの小さな手が矢凪の二の腕辺りを掴んだ。
歪む視界に揺れる足元、流石の矢凪も吐きそうになり、思わず目をきつくつむる。
ゆわんゆわんと、耳の奥で叫んでいた耳鳴りが止んだ。同時に、耳に、意味のある言葉が響いてくる。
――聖母よ、神の子よ、聖母よ、神の子よ、聖母よ、神の子よ……
甘ったるい、花のような匂いが鼻腔を刺激する。
目を開けた矢凪は、己の周囲を人の群れが取り囲んでいる事に気が付いた。
庄十郎、みどり、遊女達、禿達、男衆。皆々胸の前で両手を組み、一心に祈りの言葉を捧げている。
彼らはこちらを見ていない。矢凪達を取り囲んでいても、彼らの顎は仰向けられ、熱心に一点を見つめていた。
――来たか、我が母の滋養よ。そして神の敵よ
居丈高な声が頭に響く。降り注ぐような殺気を感じた瞬間、矢凪の身体は勝手に動いていた。
囲まれている状態では守るに不利。頭上からは殺気。ならば下だ。
畳ごと、床板を破壊しようと拳を振り上げる。
――愚かな
足元から突き上げるような突風が、巻き起こった。その場に踏ん張り切れずに弾き飛ばされる。猫のように空中で体勢を変え、四つん這いで畳に着地。立ち上がる。背後に壁。壁際まで飛ばされたか。
「だんなさ……!」
細い悲鳴が人垣の向こうから響いた。シロの「くるな、ばか、あっち行け!」と叫ぶ声がする。
胸の奥がぞわりと冷えた。しまった、泡雪達と離された。
――神の敵よ、滅ぶべし。我がシトの手にて滅ぶべし
爆発的に殺気が膨れ上がった。
面のようなのっぺりとした表情のまま、馴染みのある顔が一斉に矢凪に向かって飛び掛かってくる。
「滅ぶがいい、神の敵よ。我が手にて滅ぶべし」
淡々とした声を上げながら、短刀を持った庄十郎の腕が突き出された。
隙だらけのそれを脇に挟んで動きを封じ、躊躇いなく顎を蹴り上げる。頬肉をぶるんと揺らしながら、庄十郎の顔が跳ね上がった。
「聖母を害す神の敵よ、神の子を脅かす神の敵よ。滅ぶべし」
殺気に身体が反応する。簪を振り上げたみどりの喉に貫手を突き込み、前によろめいた後頭部を掴んで夫の頭とぶつける。
硬い音を響かせ絡まり合って倒れる二人、更にその奥からも波のように人が押し寄せてくる。
「くそがっ!」
次々と伸ばされる手や武器を払いのけ、殴り飛ばし、蹴り上げながら、矢凪は奥歯を噛みしめる。
やり辛い。
これが破落戸、盗人などであれば遠慮無く息の根を止める。二度と立ち上がれないよう足も破壊する。箸も持てないよう腕を壊す。粥すら食えぬよう、顎も歯も砕いてやる。
だが彼らは操られているだけの、ただの人だ。
「神の敵よ。神の敵よ。神の敵よ。神の敵よ」
「滅ぶべし。滅ぶべし。滅ぶべし。滅ぶべし」
先に倒れた庄十郎とみどりが、よろりと立ち上がるのが視界の隅に映る。額から流血しているものの、足取りはしっかりしている。
いつも先導してくれる男が、燭台の尖った部位を突き出してくるのを蹴り倒す。音を立てて畳に転がった男はしかし、すぐにもぞもぞと起き上がった。
「――ちぃッ!」
馴染みある顔ぶれが、矢凪の殺気を鈍らせる。
人垣の向こうには泡雪とシロがいる。抵抗する声が聞こえているが、姿が見えず分からない。
早く助けなければと思うのに、人の壁が邪魔をする。
頭上で輝く光球が、ちか、ちかと苛立たしげに明滅した。
――なにを恐れる、なにを嘆く。我が母の滋養となり、神の子たる私が生まれる為の一助となれるというのに
「うるさいっ! あんたの滋養になんてなってたまるか!」
わんわんと響く人々の声を切り裂いて、泡雪の怒号が轟いた。それに矢凪が気を取られた一瞬、頭上に影が差す。
「滅ぶべし」
眼前に立つ巨漢の男が、無表情で鉈を振り上げていた。
「遅ぇ!」
足を振り上げる。鳩尾に爪先を叩き込み、前のめりになった男の肩を足場に跳躍。視界が開ける。襖に満月。観月の間だ。視線を走らせる。上座に位置する場所。そこに丸い肌色の、巨大な塊。あれか。群がり来る人の肩や頭を土台に、そこまで跳んだ。
布団の脇に、片膝を着いて着地する。
花魁の三つ重ねの布団よりも上質な布団に乗せられたそれには、足があった。手があった。頭があった。丞幻の言っていた通り、異様なほどに腹の膨れた女童だ。
「てめぇが、ありまか」
ばさばさになった髪の下に、骨に直接皮を貼り付けたような顔がある。どす黒い顔色には明らかに死相が漂っているが、落ち窪んだ目は異様に穏やかで澄んでいた。
矢凪の問いかけに、ゆるりとありまが首を回した。
「――……」
乾いた唇が、何かを言おうと口を開く。その前に、矢凪は幼い細首を片手で鷲掴みにした。
光球が、ようやくこちらに気づいたように激しく明滅する。
――貴様、我が母を……
「――動くなあああぁぁぁッ!!」
吸い込んだ息を吐きながら、矢凪は腹の底から咆哮した。
同時に、首を掴んだ手に力を込める。こちらに向かって来ようとした人々が、雷にでも打たれたかのように、一斉に震えて動きを止めた。
この状況下でもなお、微笑みを浮かべている女童の首をじわじわ締めながら、矢凪は天井を見上げた。
そこに浮く白い光の玉が、蜃気楼のように揺らいだ。苦し気な声が、頭に響く。
――お、のれ……! 貴様、よくも……
「ああ、やっぱりな」
矢凪は凄絶に笑った。
「まだてめぇ、生まれてねぇな。てこたぁ、その光の玉ぁ幽体離脱かなんかか? んで、本体はまだ腹ん中か。そりゃそうだよなあ、そうでなかったら、こいつの腹が膨れてるわけがねえからな」
ゆるり、と動きの止まった人の群れを見渡す。
氷色と白色が見えて、そこで目を止める。
シロを守るように抱え込んで畳に座り込み、頭上を見上げる泡雪の姿があった。周囲の畳が真っ白に凍り付き、冷気で人を遠ざけている。
どちらにも、怪我らしい怪我は見当たらない。
ほ……と矢凪の口から、詰めていた息が漏れた。
「おい、如何様野郎」
少しばかり緩んだ表情を引き締めて、矢凪は光球を睨み上げた。
「どうする。俺ぁこのまま、てめぇの母さんの首ぃへし折ってやってもいいんだぜ。小枝みてぇに細い首、俺にかかりゃぁ一瞬だ。そうしたら、てめぇも死んじまうんだろ?」
――汚らわしき卑賤の輩風情が、神の子を脅すか
「うるせぇ。神の子だなんだと気取っちゃぁいるが、てめぇは所詮祓い屋だろうが。図に乗ってんじゃねえぞ、がき」
――…………
りぃん、と涼やかな音が鳴り響いた。庭で見たのと同じ光の刃が、光球の周りに現れる。数十の切っ先が、こちらに向けられた。
――神の敵よ。我が母、聖母より、その汚らわしき手を放すがよい
「嫌だね。そも、てめぇの命を握ってんのは俺だってぇのに、なにを偉そうに上から指図してんだよ。このまま、この首折っちまうぞ」
ぐ、と矢凪は指に力を込めた。光球がまた、苦し気にその身を揺らがせる。
――その……手を放せ……この、不届き者……この滋養を……殺されても良いとでも…………
光の刃が数本、鈴の鳴る音を立てて泡雪に向く。泡雪がますます強くシロを抱え込み、胸に顔を押し付けられたシロが「むぎゅ」と潰れた息を漏らした。
矢凪は、すぅと目を細めた。
「――やってみろよ、てめぇ」
みしり、と童の首の骨が嫌な音を立てる。
「その前にこの首へし折って、てめぇごと殺すぞ」
――…………!
脳内に苦鳴が響く。綺麗な丸を保っていた光球が、ゆやゆやと煙のように歪んだ。
光球を睨みつけながら、矢凪は次にどうするか激しく思案を巡らせていた。
簡単なのは、このまま首をへし折ることだ。腹の中に奴――己を神の子だとかほざきやがる祓い屋、蛍声――の本体がいるのなら、母体ごと殺してしまえば全てが終わる。
だが、相手はただの幼い童。しかも姿形が変容してしまっているとはいえ、泡雪の可愛がっていた禿だ。
光球の動きは封じても、腹の中から彼奴を引きずり出すことが矢凪にはできない。やり方が分からないからだ。このまま睨み合いを続けながら、丞幻を待つしかないだろうか。
何もたもたしてやがる、あの阿呆髭三流作家。
そう毒づいた時。
ひたり、と腹の辺りに小さなものが触れた。
視点を下げれば、ありまが小枝のような細い腕を伸ばして、矢凪の腹に触れていた。
「神の敵よ、神罰を受けなさい」
絹のように柔らかい、幼い声が不穏な言葉を囁く。
腹を衝撃が貫いた。
「――……ッ!」
のろりと目を落とす。
あの光の玉の周囲に展開されていた光の刃が三本、己の腹に突き立っていた。
喉から、鉄臭いものがたちまち込み上げてきた。濁った咳と共に、大量の血が口からこぼれる。
――愚かな。愚かな神の敵よ。何も知らぬ哀れな神の敵よ。我が母と私は一心同体である。繋がっている。身体が、魂が、繋がっている。ならば私の術を、我が母が使えない道理があるだろうか。愚かな哀れな神の敵よ。せめてその愚かさを悔いながら、滅びるが良い
勝利を確信した傲慢な声音が、頭に響いた。
光球から、立て続けに刃が矢のように打ち出される。腕に、肩に、膝に、腹に、背中に、次々と光の刃が突き刺さる。
血が飛沫となって舞い、ありまのどす黒い顔に頬紅のように朱が散った。
とどめだとばかりに、喉に深々と刃が食い込んだ。真正面から光の刃が喉仏を貫いて、切っ先が首の後ろから顔を出す。
「旦那様!」
「矢凪!」
二つの声が悲鳴を上げる。
矢凪は倒れない。全身を光の刃に突き刺され、ありまの首を掴んだまま、血だらけの顔面で頭上をぎろりと睨み上げた。
げらげらと、神の子と自称するにはあまりに野卑な笑声を上げていた光球が、一転して驚愕の叫びをあげた。
――…………ば、かな……!?
「こ、の……てい、ど、で」
喉に刺さる光の刃を、掴む。手に霊力を込めて握り砕いた。光の欠片が宙を舞う。
ごぼ、ごぼと血を吐き出し、矢凪は唇の両端をぐいと吊り上げた。
「俺が、くたばるとでも思ったのか、あぁ?」
最初に食らった腹の傷は、既に癒えている。貫かれた喉の傷も、再生を始めている。
怪異を誘引し、死に至るほどの傷ですら治癒し、五体ばらばらになろうとも蘇生する、悍ましい生餌としての体質だ。
「どうしたよ、神の敵は滅んでねえぞ。ほら、俺を滅ぼすんだろ?」
ありまの首に手をかけたまま、もう片方の手を挙げる。手のひらをくるりと返して天井に向け、人差し指をくいくいと動かした。にたり、と歯を剝きだして挑発的に笑う。
ちかちかと、光球が戸惑うように明滅する。周囲に残った十数本の光の刃は、射出される気配を見せない。
轟、と真冬の空気が突如として頬を打った。
ぱちぱちと音を立てて、冷気を受けた毛先が凍り付く。矢凪は反射的にそちらに目を向けた。
泡雪が、シロを離して立ち上がっていた。氷の瞳が炎を宿して轟々と燃えている。
「のらしてんじゃねぇぞおめえええぇ!!」
北訛りの怒号。高い笛のような音を立てて、渦を巻いた冷気が天井まで吹き上がった。雲が描かれた天井が、真っ白く凍り付く。周囲にいた人々が、合わせたように一歩、二歩と背後に下がった。
鮮やかな着物の裾を凍らせながら、シロがわたわたと泡雪と矢凪を交互に見る。
「ばかっ、やめろ泡雪! 俺は大丈夫だ!」
白い息を吐いて、矢凪は叫んだ。泡雪は聞こえていないのか黙殺しているのか、冷気の鉾をありまへ向けている。
このままでは、間違いなく泡雪はありまを殺す。そうすれば蛍声とて、滋養だなんだと言っていられず泡雪を殺しにかかる。
人質を離したくはないが、泡雪が殺されるのは御免だ。
泡雪を宥めるべく、矢凪がありまの細い首から手を離そうとした時。
すたーん、と派手な襖音が一触即発の場に響き渡った。
「……遅ぇよ。馬鹿野郎」
矢凪の口元に浮かんだのは、心底安心したような緩い笑みだった。
「のらすな」=なめるな。東北地方の方言。




