十五
遊郭内に飛び込んだ矢凪は気配と痕跡を丁寧に消して、六畳ほどの布団部屋に立てこもった。選んだ理由は単純で、窓が無く入口は一人ずつしか入れないほど狭い為、各個撃破が可能であること。それとずぶ濡れの泡雪を着替えさせる為だ。
戸につっかえをしてから奥の押し入れを開けると、布団に混じって行李が一つ。丁度良く古びた小袖がいくつか入っていたので、なるべく綺麗なものを選んで泡雪に渡す。
「手伝うか」
「大丈夫だよ、旦那様。昨日ほど具合も悪くないし、怪我したわけでもないからさ」
「おう。できなかったら呼べよ」
「すき」
「……なんで返事がそれなんだよ」
などと戯けたやり取りをして泡雪が着替えている間、矢凪は猫のように戸に近寄った。戸の前に片膝を立て、聞き耳を立てる。
「どちらに行かれましたか」「どちらに行かれましたか」「神の子に滋養を」「聖母に滋養を」「どちらに行かれましたか」「どちらに行かれましたか」「どちらに行かれましたか」「神の子に滋養を」「聖母に滋養を」「どちらに行かれましたか」
ささめく無数の声と、ひたひたとした足音が部屋の外を通り過ぎていく。どうやら今の所、居場所がばれてはいないようだ。
声と気配が遠ざかってなお、たっぷりと間を取った後。矢凪はシロの方を振り返った。
「おい。……おい、シロ」
ほとんど吐息のような声で名を呼ぶ。畳に積まれた布団の影に、ぺたりと座り込んでいたシロが、のろのろと顔を上げた。
「てめぇの本性の、あの瓢箪使えねえか。使えんだったら、あれ使ってずらか……どうした」
引き結ばれたシロの唇が、ぷるぷると震えているのを見て矢凪は言葉を切る。こちらを凝視する夜明け色の瞳が、みるみるうちに潤んでいくのが薄暗い中でも分かった。
ぎょ、と思わず目を見開く。
「どうした、おい」
「や、なぎが……おこ、た……ごおーって、怒った……」
ぐしゃり、と丸めた紙のように愛らしい顔が歪んだ。ひっ、ひっ、と引きつるような声が漏れて、白い頬を涙がいくつもいくつも滑り落ちていく。
「おれ、おれっ、なにもしてな、のに……やなぎ、おこった……おれ、じゃましてな、っのに……おこ……っ」
うええ、とこらえきれない嗚咽が小さな口から漏れそうになる。
矢凪は百五十年余りの人生の中、一等素早く動いた。シロを胸元に抱き込み、顔を押し付けさせて声を封じる。左手を背に回して、ぽんぽん叩いた。
「悪かった。てめぇに怒ったわけじゃねえ。てめぇを狙った奴に怒ったんだ」
あの時、シロは矢凪の方を向いていて、迫る危機に気づいていなかった。だから矢凪がなぜ咆哮したか分からず、「自分が怒られた」と解釈したらしい。
怒っていない、大丈夫だ、お前の後ろにいた奴に怒ったんだと何度も声をかけて慰めていると、小刻みに震えていた肩が落ち着いてきた。胸元に吐き出される嗚咽も、小さくなっていく。
もう大丈夫だろうか。
「ね、ね、旦那様。そういえば、その子は誰なの?」
つい、と袖を引かれて横を向く。色褪せた竹の葉模様の小袖に着替えた泡雪が、シロを見つめて首をかたむけていた。
「あー……」
そういえば泡雪とシロは初対面だったし、先ほどは……まあ今もそうなのだが、悠長に挨拶をしている暇など無かった。
簡単に互いを紹介すると、泣き濡れた瞳が泡雪を見る。すん、と鼻水を啜って、シロは「じゃあ」と小さく声を上げた。
「こいつが、矢凪の思い人なのか」
「そうだよ。よろしくねー、おちびちゃん」
泡雪はにこにこと笑顔を浮かべてシロの頭を撫でた。シロは驚いたように矢凪の着物を掴んだが、されるがままになっている。
「あたしは泡雪だよ。おちびちゃんはシロちゃんっていうんだね、かわいいねえ、いくつくらい? 女の子みたいだけど、男の子なのかな?」
穏やかなゆっくりとした声音で、語りかける泡雪。その白い頬が、笑顔を浮かべているものの硬く強張っている事に矢凪は気づいた。
胸の奥が、ぎしりと軋む。
当たり前だ。突如こんな状況に置かれて、普通の人間が恐怖を感じないわけがない。混乱し、泣き喚いても仕方ないと言うのに、自分より小さい子を怖がらせないよう、気を張って明るく振舞っている。泡雪自身も髪をばっさり切られて池の中にいたのに――、と矢凪は眉を寄せた。
「泡雪」
「なんだい、旦那様」
ぱ、と顔を上げた泡雪に、矢凪は手を伸ばした。首の辺りで乱雑に切られた毛先に触れて、眉間に皺を寄せる。
「これ、どうした」
「ああこれ? あたしが自分で切ったんだあ」
あっけらかんとした答えに、思わず絶句した。
「一階の座敷牢に閉じ込められてたんだけどね。そこから出てあたしの部屋まで戻ったんだ。そうしたら、おかしくなった楼主様達に滋養だなんだって襲われちゃってね。髪の毛掴まれたから、切って池に飛び降りたの」
そうして、ふと黙り込む。
どうした。そう問えば、空々しい明るさをまとっていた顔が、弱々しく歪んだ。張り詰めていたものが少し緩んだ、そんな気配がした。
「泡雪?」
「分かんないよ、旦那様。ねえ、羽二重楼で何が起こってるの、楼主様達も、千鳥も、みんな変なんだよ。ありまを囲んで訳分かんない事を言いながらずっと拝んでて、ありまはお腹が馬鹿みたいに膨れてて、ねえ、あれなんなんだい旦那様。あたし、ただ寝てただけなんだよ。なのに起きたら座敷牢にいて、変になった千鳥が、あたしにセイスイとかいうのを飲めって言って、同じ事しか言わないんだ。それに千鳥は千鳥じゃなくてシトだって言って、ねえ、あの庭に浮いてた光の玉はなに? なんであれから、蛍声の声がしたの。神の子って言ってたのは、蛍声の野郎の声だったよ。あいつが羽二重楼をおかしくしたの?」
ぱっちりとした氷色の瞳が忙しなく動き、顔にじんわりと畏れの色が広がっていく。
「泡雪。……泡雪、落ち着け。大丈夫、大丈夫だ」
シロを抱えていない方の手を伸ばし、泡雪の頭を引き寄せた。肩口に、額が強く押し付けられた。まだ水気を含んだ髪が、じんわりと着物を濡らす。
頬の辺りで揺れる頭を撫で、落ち着かせるように背をさすった。
「全部なんとかしてやる。だから、大丈夫だ」
なにが大丈夫だ、敵の正体もロクに分かっちゃいねえ癖に。
腹の中で己を叱咤しつつ、矢凪は不安に震える泡雪にまじないのように「大丈夫だ」と繰り返す。
「うん。……うん」
白い指が、ぎゅうと矢凪の二の腕辺りを掴んだ。かたかたと、その指が細かく震えている。それが落ち着くまで、矢凪は泡雪の背をゆっくりと撫でさすった。
先に落ち着いたシロが、「おれを無視していちゃいちゃするとはいい度胸だな」とでも言いたげに目を半眼にしていたので、こちらの頭も撫でておく。
「いいんだ、いいんだ。こういう、命をかけた状況の中でいちゃいちゃした奴は大抵おそわれるんだ。お前達がおそわれてる間に、おれは逃げるから気にするな。ちっとも怒ってないぞ、おれは」
「ごめんね、おちびちゃん。おちびちゃんの事、仲間外れにしちゃってたね」
矢凪から顔を離して泡雪が、あはは、とぎこちない笑みを浮かべた。
吐き出すものを吐き出して、少し落ち着いた様子の彼女に、矢凪は問うた。
「泡雪、さっき『光の玉から蛍声の声がした』ってぇ言ったな。そりゃぁ本当か」
「え、うん。そうだよ、旦那様。あたし、耳は良いんだ。あれは間違いなく、蛍声の声だったよ。自分が神の子に成る為に、あたしに滋養になれ、って言ったんだ」
「成程なあ……」
一言呟いて、矢凪は瞳に怒気を宿らせた。シロが「あ」と小さな小さな声を上げる。
「蛍声って、丞幻の言ってた奴だな。怪しい祓い屋だ、って」
「間夫がなんだって?」
む、と泡雪の眉間にたちまち皺が寄った。への字に口を曲げて不機嫌そうにしている泡雪を見上げて、シロが不思議そうに首をかしげる。
ありがとう丞幻、よくやった丞幻。てめえのおかげで泡雪が持ち直したぞ。
当の丞幻が苦々しい表情を浮かべそうなことを胸の内で呟いて、さてと矢凪は思考を切り替えた。
丞幻が言っていた通り、羽二重楼及び他の遊郭に悪さをしていたのは、蛍声で間違いが無さそうだ。
己を聖母だと言っていたありま。彼女の話す言葉の中にあった、「神の子を孕んだ」というもの。己が神の子に成る為に滋養となれと戯けた事をぬかした蛍声。その蛍声の声で喋り、己を神の子だと囀り祓いの刃を放ってきた光球。
「……てめぇが神の子に成り上がる為に、この事態を引き起こした……か?」
だとしたら、あの光の玉が蛍声自身だろうか。あれが、神の子としての彼の姿だとでもいうのか。
推測の域を出ていないが、その説がしっくりくるように矢凪は思えた。
「まあ、どっちしろ潰すがな」
神の子がなんだというのだ。泡雪の生気を吸い取り、怖がらせ自ら髪を切らせ池に飛び込ませた相手に慈悲など不要。
子虎も言っていた。神の子が、生まれる際に他人を滋養とする例は聞いた事が無いと。ならばあれは、神の子もどきとでも言おうか。
しかし困った。
倒すべき敵はあの光球――蛍声だと分かったのはいいが、迂闊に動けない。
自分一人だけなら、並み居る敵全てをとっとと打ち倒し、真っすぐ元凶に向かう。
だが泡雪とシロ。守るべきもの達を抱えて、数十人近くの囲いを突破するのは得策ではない。このままここに籠城する方が、まだ良い。
中庭であれだけ凄まじい音がしたにも関わらず、表通りの方からは慌てふためくの声の一つも聞こえてこなかった。今も、耳をすませてみるが羽二重楼を訪う物音も無い。
人払いの術とやらのせいで音が周囲に漏れないのか、あるいは奴が羽二重楼自体を異界に切り離したか。
「そうだ、おいシロ。てめぇの」
と、先に有耶無耶になった事を思い出して問おうとすれば、シロが首を横にふるふると振った。
「年増はむりだぞ、矢凪。この敷地一帯、祓い屋の結界が張りめぐらされてるらしい。そのせいで、力を上手く使えないらしいぞ」
「結界だぁ?」
また戸の近くに戻り、耳をそばだてつつシロに聞き返す。
シロは畳に積まれた布団の影に隠れながら、こっくり頷いた。
「うん。『四方祓の術だ。面倒くさい。家に張る結界術の一つで、敷地の四方に呪具を埋めて結界を張り、中を清浄な気で満たす。外からの怪異の侵入を拒み、敷地内の怪異を一掃する祓い屋お得意の術だ。可愛い俺は、ほとんど人に近い怪異として生み出したから、この結界内でも問題無く動けるが、俺は難しい。呪具の一つでも壊してくれれば切れ目ができて、なんとでもしてやるんだが』って、言ってる」
そう言って不意に、両手を口元に当ててくふくふと笑った。
「あのなあのな、年増の奴、そうとう参ってるみたいだ。気持ち悪い、吐きそうだって言ってるぞ。いつもおれを、ちびとか、なんとか言っていじめるから、ばちが当たったんだ」
「ほー、怪異にも罰ってなぁ当たるもんなんだな」
ならば、瓢箪での避難は難しいか。真白が動けるなら、せめて泡雪だけでも逃がしたかったのだが。四方に埋められた呪具を壊すのも手だが、羽二重楼は広い。二人を抱えながら、見つからないように四方の呪具を探すのは難しいだろう。
そういえば、丞幻は長屋に向かうと言っていたが、なにかしら手がかりを掴んだだろうか。あの空に浮いていた光の玉が蛍声だとすれば、今ありまの状態はどうなっているのか。無事なのか。蛍声に操られていると思しき羽二重楼の連中は。彼らは元に戻るのか。
「まあ、あいつがこっち来たらなんとでもなるか」
ご飯は全員揃って、がひねもす亭の掟。
昼餉に矢凪達が顔を出さなければ丞幻の事である、何かあったと訝しんで、こちらに来るに違いない。
なら、丞幻の到着までここで待とう。
あいつの煙管で結界を張ってもらえば、泡雪の身に危険が及ぶ事も少ないだろう。奴が泡雪達を守っている間、自分が動いて呪具を壊しに動いてもいい。
戸の外からは足音が聞こえない。集中して聞き耳を立てれば、遠くの方で物音がした。ここではない別の場所を探しているようだ。
もし見つかっても、入口が狭いので大勢が雪崩れ込むことは無い。最悪、戸を破られる前に畳を剥がして床下に逃げ込むか、泡雪とシロを押し入れに放り込んで自分が盾になり、丞幻とアオが来るまで時間を稼ごう。
「死なねぇってなぁ、こういう時に便利だな」
ぼそり、と小さくひとりごち。
矢凪は、はたと我に返った。
シロが、ぱちくりっ、と目を瞬かせる。
「どうした、矢凪。変な顔してるぞ」
「旦那様、どうしたんだい?」
「……なんでもねえ」
誤魔化すように乱暴に頭をかいて、矢凪はシロ達から目を反らす。
自分の思考に驚いた。今、丞幻達が来ることを当然のこととして、今後の事を考えていた。
来るか分からねえ助っ人を期待してるたぁ、俺も甘くなったもんだ。
胸の内で吐き捨てるが、それに対しての嫌悪感は無く。かといって素直に認めるのはどうにも照れ臭くて、盛大に舌打ちしてもう一度頭をかいた。




