十三
〇 ● 〇
一刻ほど仮眠を取った後、井戸――勿論、屋敷の中央に封じられた堅須国へ続くものではなく、屋敷の横手にある井戸だ――で顔を洗って着物を替え、丞幻はひねもす亭を出た。
秋の天気は移り気だ。
朝は澄んだ青空に鰯雲が泳いでいたのに、今は灰鼠色の雲が厚く重なりひょうひょうと寒風が音を立てている。
丞幻は寒さに首をすくめながら、アオを抱き上げて懐の中に入れた。腹の部分だけぽっこりと膨れた間抜けな恰好になったが、早速腹がじんわりとぬくまった。
「あー、アオちゃんあったかーい。これだから、アオちゃんは冬に手放せないのよねー」
「いっかいね、ごもんね! しょれかおだんごね!」
「まー、ちゃっかりしちゃって。じゃあ帰りにお団子ね」
「う! ねー、丞幻。矢凪のしゅきなひと、どんなひと?」
猫のように丸くなったアオが、懐中でもふもふとくぐもった声を上げる。
足に絡んでくる落ち葉を追い払いながら、丞幻は「そうねえ」と風に三つ編みを揺らした。
「雪、って名前に付いてるわりに、そりゃあまあ、爆発しやすい姐さんだったわねえ。矢凪の事がだーい好きで、ワシを矢凪の情人だって思い込んで、殺しにかかってきたからねえ」
しみじみと呟く。
うっかり殺されかけたものの、丞幻自身は泡雪花魁に対して悪感情を持ってはいなかった。猪みたいな姐さんで、中々に面白い。
アオが、懐の隙間から青い目を輝かせて丞幻を見上げた。
「いちゅ、そのひと、おうちにくうの? あちた? あしゃって?」
「うーん、いつかしらねえ」
期待しているアオには悪いが、それにはまず泡雪花魁を矢凪が身請けしなければ。
そんな会話をしながら、蛍声の住んでいた長屋へ向かう。場所は昨日、羽二重楼の楼主から聞いていた。
冴木にある翠蓮池を通り過ぎた先にある、大きな通りから少し外れた傍池長屋が蛍声の住まいだ。
刺すような冷たい風に首をすくめながら、裏長屋へ続く木戸をくぐった。
中央に井戸があり、左右には安普請の長屋が並んでいる。障子をざっと数えて部屋は十部屋。ありふれた裏長屋の光景だ。
「ええっと、確か右側三番目の……」
ひのふの、と数えて腰高障子がぴったり閉じられた部屋の前に立つ。ここか。
「あら、にゃんこ」
ふと、足元に柔らかい感触が当たった。
見下ろすと、黒い毛皮に白ぶちの猫がいた。蛍声の部屋の腰高障子を、かりかり引っかいている。大きさからして成猫か。見守っていると、器用に障子を開けた。
ちらり、と猫はこちらを見ると、鼻を一つ鳴らして中に入ってしまった。
「じょげん、いまよ、いま」
「そうねアオちゃん、今だわ」
丞幻は少し大きな声で、
「あらー、にゃんこちゃん、どしたの。駄目よー」
と話しかけながら、蛍声の部屋に入った。
小さな土間の奥には四畳の板間がある、ごく一般的な部屋だ。引き払ったと言うだけあって、中はがらんとしていた。
丞幻は、じっと『目』を凝らす。……怪しいものは視当たらない。懐から鼻だけ出したアオが、ふんふんと空気の匂いを嗅ぐ。そうしてすぐに尻尾を激しく振った。とてもくすぐったい。
「あまいの! あまいにおいしゅる!」
「甘い匂い? アオちゃん、それどんな――」
「あれっ、ちょいと。何してるんだいっ」
背中に素っ頓狂な声がぶつかった。丞幻は言葉を切り、振り返った。真向いの部屋から出てきた年増女が、目を尖らせてこちらを見ている。
丞幻は慌てた様子を取り繕って、頭を下げた。
「ああ、ごめんなさい。この子が入り込んじゃって。今出るわあー」
板間で遊んでいた猫を抱き上げ、小走りで外に出る。
ふと、丞幻は猫を見下ろした。猫はつやつやした珊瑚色の瞳で丞幻を見上げると、うやーお、と一つ鳴く。
きりきりと目を吊り上げていた年増女が、丞幻の手の中にいる猫を見た途端に目元を和ませた。
「あれ、おしるこ。そこのお人は、もう出てっちまったからいないんだよ」
なーう、と猫が一鳴きして丞幻の手から下りる。女の足首に頭を擦りつけ、甘えるように喉を鳴らした。
それを撫でて女は「心配したよ」とほっとしたような声を上げる。
「お前、しばらく姿を見せなかったからねえ。あんたがこの子を?」
後半の言葉は丞幻に向けてだ。
丞幻は口元に微笑を保ったまま、口を開く。
「数日前の大雨の時に、ウチの軒下にうずくまってたのよー。綺麗な毛並みの子だったから、どこかで飼われてる子じゃないかと思って。あちこち聞いて回ってたんだけど、姐さんの子だったのねえ」
適当な嘘を並べ立てると、女は疑う様子もなく頷いた。
「そうだったのかい、ありがとうねえ兄さん。おしるこは、この長屋に棲みついてる子でね、みんなで面倒を見てるんだ。そうかい、散歩に行った帰りに雨に降られちまったのかねえ。災難だったねえ、おしるこ」
なんにせよ良かったよ、と女はおしるこの喉元を撫でる。
丞幻は、その猫をじっと見つめた。
気持ちよさそうに目を細めながらも、おしるこは珊瑚色の視線をこちらに投げかけ、なーお、と鳴いた。
猫のおかげで打ち解けた女から、丞幻は色々と情報を引き出した。
蛍声――彼は小柄で痩せぎすの、四十を一つ二つ過ぎたばかりに見える男である――は、確かに十日前に出て行ったこと。出て行くことを長屋の住民以外には告げていなかったようで、ひっきりなしに蛍声を訪ねてくる客で一時は長屋が騒然とした事。
「全く、せめて自分の仕事先にもきっちり挨拶してから引き払ってほしかったね。おかげであたしらはいい迷惑だよ」
と、女はぷりぷりしていた。
蛍声は、祓い屋の他に菓子売りをしていたらしい。
困っている所から金をむしり取るわけにはいかないと、安値でお祓いをしていたので常に金が足りないと笑っていたのだそうだ。それで、饅頭や飴などの菓子を作り、売り歩いて銭を稼いでいたという。アオの嗅ぎとった甘い匂いはそれだろう。
時折、形の悪い菓子を長屋の子ども達に配っていたと聞いて、丞幻はさりげなく子ども達に異常が起きていないか確かめたが、女は首を横に振った。
――蛍声さんが、餞別だって一部屋一部屋にお札を貼ってくださったからねえ。変なこたあ無いよ。
貼ってある札を見せてもらったが、確かに怪異避けの札であった。札からは清浄な霊力の波動が放たれ、結界のように部屋を守っている。
霊力の質からして、力のある祓い屋であることは確かだったようだ。
「聞いただけなら、本当にただの気の良い祓い屋のおっさんなのよねえ」
だが、丞幻の勘が訴えている。
蛍声には必ず何かある、と。そしてそういう勘は大抵、外れた事が無い。
「禿の子達にやってたのが、飴とか饅頭。で、それを作って売り歩いてたんでしょ。もうこれは、禿にやる菓子に混ぜ物をしてたって事じゃない」
元来た道を戻っている最中、翠蓮池の近くを団子売りが歩いていたので呼び止め、団子を五つばかり買い求めた。
ぴゅうぴゅう風が吹く中、池の近くに置かれた縁台に腰かける。
「うぅっ、やっぱ吹きっさらしは寒いわぁ」
冬にかけ、とろりとした緑色の花を付ける翠蓮はまだ蕾ばかりだ。花が咲くのは雪がちらつき始める頃。蓮見客を見込んで温かいものを売る屋台が多く出るから、冬に蓮見に来るのも悪くない。
膝に乗せた竹の包みを開くと、うっすらと赤みを帯びた団子が四つ、串に連なっていた。串の尻をつまんで、懐のアオに向けると嬉しそうに団子を口にする。
「うめぼち!」
「あら、梅干しのお団子なの。珍しいわねー」
甘味の中にある、程よい酸味が口を刺激する。中々に美味い。
みゃーおう、と可愛い鳴き声に丞幻は横を見た。
いつの間にか、先に見たおしるこが縁台に行儀よく座り、こちらを見上げていた。
珊瑚色の丸い瞳といい、黒白ぶちの艶のある毛並みといい、綺麗な雌猫だ。丸い尻尾をぷりぷりと振っている。
丞幻は萌黄色の瞳を細めて、おしるこを見下ろした。
「美人さんも、お団子食べるかしらん? さっき、助けてもらったしねえ。梅干しだけど、あんまり酸っぱくなくて美味しいわよ」
はい、と目の前に串ごと置く。やけに婀娜っぽい目つきで、おしるこが見上げた。
「アタイをこんな、寒い所まで連れ出しといて、貢物が一串四文の団子にゃんてね。もう少し、艶のある貢ぎ物はにゃいのかい。しかも串から外さないで、そのままとはね。女心の分からにゃい、とんだ野暮天だねえ」
にゃーお、という鳴き声に代わって、艶めいた女の声が響いた。
先ほどまで丁寧に隠されていた瘴気が、ふわりと猫の身体の周囲を漂う。
丞幻は苦笑いの形に唇を緩めた。
「ついてきたのは、猫の姐さんでしょ。ワシは一言も、着いてきてほしいなんて言ってないわよー」
「にゃに言うんだい。しっかり、アタイに秋波を向けといてさあ。アタイに、はにゃしがあるから、あんな熱っぽい目で見てたんだろ?」
「まあねえ」
この子は、ただの猫ではない。年経た猫が怪異と化し、人語を話すようになった怪猫だ。
多分、それなりの年を生きているのだろう。怪異の気配を隠すのが上手い。最初は丞幻も、うっかり普通の猫と間違えそうになった。
なーお、と気の無い風情で鳴きながら、おしるこはぺろりと前足を舐める。
「ねえ、アンタ。おんにゃをその気にさせるなら、もっと気の利いたものはにゃいのかい? 団子一本なんて、坊やのお使いじゃにゃいんだからさあ」
「はいはい。それじゃあ後で、うんと綺麗な音の鳴る猫じゃらしを差し上げましょうかしらねえ、お嬢様」
ぴぴっ、と団子尻尾が嬉しそうに揺れた。
「ちゃんと、白岑国の鈴のにしておくれよ。白岑国の銀の鈴が、一番良い音だからねえ」
ちゃっかりしている。
丞幻は苦笑した。白岑国の鈴を使った猫じゃらしは、上物だ。
「じょーげん! もいっこ! おだんごもいっこ!!」
「はいどーぞ、アオちゃん。……分かったわよ、おしるこの姐さん。銀の鈴を使った猫じゃらしを一本買ってあげるから、ちょいとワシにお話を聞かせてほしいのよ。いーい?」
「いいともさ。にゃにを聞きたいんだい?」
「姐さん、あの長屋にはよく出入りしてたんでしょう? ワシ、姐さんが入ったあの部屋に住んでた蛍声ってお人について知りたいのよね」
長屋に好きに出入りしていた猫ならば、なにかしら見聞きしているだろう。
かの祓い屋、人に対しては上手く誤魔化していたようだけれども。ただの猫として振舞っていた彼女の前ならば、一言二言、うっかりなにか零していないだろうか。
おしるこが、鼻面に皺を寄せた。
「ああ……あの祓い屋の男、嫌にゃ奴だったよう。長屋の人達にゃあ、良い顔してたけどねえ。一人の時はくらぁい顔して、ぶつぶつと、言ってたよう」
「ぶつぶつと……なにを?」
「ええとね……『もっと廽らねば』『廽ればいずれ、私は神の子に』……だったかにゃ?」
神の子。昨日散々聞いた言葉に、丞幻は顔をしかめる。
集めた情報が、ぱちりぱちりと音を立てて繋がっていく。やはり悪さをしていたのは、蛍声で確定のようだ。
「それで? 他にはなにか言ってたかしらん?」
勢い込んで急かす丞幻に、おしるこは喉の奥が見えるほど大きく欠伸をした。
「アタイ、信田屋で使ってる鰹節が好きにゃんだよねえ。時々あそこに行って、あまぁい声で鳴いてやれば、みんにゃ、でれでれして削り節を食べさせてくれる。でもねえ、たまには、鰹節を分厚く削ったのを、食べてみたいんだよねえ」
丞幻は天を仰いだ。
「……信田屋って確か、使ってるの三野筅鰹の鰹節よねー……。一本銀五枚とかいう、馬鹿みたいな値段の奴」
「話がおしまいにゃら、アタイは昼寝に行くだけさ」
「……はいはい、信田屋の鰹節もつけてあげるから」
自分も食べたい、と言いたげに顔を上げるアオの頭を撫でて、おしるこに約束する。
にゃーおう、と機嫌よく猫が鳴いた。商談成立という事らしい。
「どうやら、アタイをただの猫だと思ってたみたいでね、アタイの前でも、気にせず神の子だ、にゃんだとぶつぶつ言ってたよう」
ちょうど、蛍声が長屋を引き払った日。
おしるこがいつものように長屋に行くと、いつも昏いぎらぎらした目でぶつぶつ言っている男が、まるで別人のように浮ついて、話しかけてきた。
――おお、お前か。これか、これは禿共にくれてやる、私の種だ。ははは、お前は食ってはいかんぞ。流石の私も、お前の胎から生まれる気はない。
――市井の女共は、駄目だ。巫女も駄目だ。清楚に見えて、とんだすきものという事もある。信用できん。その点、遊郭の禿共は水揚げまで純潔を守られている。私の母にふさわしい。
――なにか言いたげだな、猫。おお、おお、力無き小娘の胎では、神の子たる私がきちんと育たないのではないか、生まれないのではないか、そう心配しているのか。安心するが良い。確かに霊力の欠片も無い小娘ならば、宿った私に全ての生気を吸い取られたちまち死ぬだろう。
――だから、滋養が必要なのだ、猫よ。母が滋養を食らえば、私が育つまではもつ。血の繋がりがあればなお良いが、まあ遊郭では期待できまい。
――神の子である私が生まれでる時は、そこにいる者全てが我が誕生を寿いでくれる。神の子の生を寿ぎ、その命を自ら私に捧げる。そして私は、彼らの命を吸い上げ己のものとする。遠き空の言葉でジュンキョウと言うのだ、猫よ。一つ賢くなったな。
――此度で八度目。生を廽るごとに、我が力は増してゆく。次の生では必ずや、我が身は神の子と化すだろう。
「ってね。にゃっ」
話は終わった、とでも言いたげに、とびきり可愛くおしるこは小首をかしげて見せた。




