十
羽二重楼の中は、驚くほどに静まり返っていた。
窓から入る陽光と、外から響く声からして多分、朝五つ半|(九時)くらいだろうか。普段であれば、遊女達が起きだしてわいわいと賑やかな声が交わされる一階の大広間には、重たい静寂が横たわっている。
「……なんで、誰もいないんだい?」
大広間に置かれた衝立からそっと顔を覗かせて、泡雪は素人なりに注意深く、周囲の様子を伺ってみた。
座敷牢の戸の蝶番を凍らせて壊し脱獄した後、泡雪は大広間へやって来た。二階へ続く階段があるのはここしかないのだ。
念を入れて小説の盗人がよくやっているように、衝立や物置に身を隠しながら移動してきたのだが、廊下にも部屋にも人の気配は無かった。ありまの寝ていた療養部屋を覗いてみたが、そこも無人である。
大広間から続く厨も風呂場も、人気どころか火の気が無い。竈に火は入っておらず、ひんやりとした空気が漂っていた。
まるで夜逃げをした後みたいだ、と泡雪は思った。
「……上?」
きし、と微かに板が軋む音が聞こえて、ぱっと顔を上げる。
耳をすますと、人が歩き回るようなきし、きし、という音が時折響いている。どうやら、二階には誰かしらがいるらしい。
ぴったりと閉じられた戸に、視線を投げかける。心張棒はかかっていない。もし逃げるなら今だ。
迷ったのは瞬き一つの間。
泡雪は、戸から視線を引き剥がして階段に足をかけた。身体を階段にぺったりと伏せ、手と膝を使って音が鳴らないよう、猫のようにゆっくりと階段を上がっていく。
矢凪から貰った菫を取り戻す。それが今の最優先事項。逃走を考えるのはその後だ。
「……ふぅ」
どうにかこうにか階段を上がり終え、はぁ、と詰めていた息を吐く。
普通に階段を上がるより疲れた。途中で一度気を抜いてしまい、ぎ、と足音を立ててしまった時は全身が冷たくなったが、幸い誰かが様子を見に来る気配は無かった。
「やっぱり、誰もいない……」
二階の廊下にも、人はいない。となると、どこかの部屋にいるのか。
廊下には、身を隠すものが無い。もし部屋から人が出てきたら、鉢合わせしてしまう。千鳥以外の者が、どうなっているのかは分からない。ただ、一階の様子を見る限り普通ではないだろう。
「もし、誰か出てきたら凍らせてやる」
足を凍らせてしまえば、動けなくなるから時間は稼げる。その隙に逃げればいい。もし大勢が出てきたら、その時はその時だ。なんとでもなる。いや、する。
「よしっ」
ぎゅっと拳を握り、泡雪は足を忍ばせて廊下を歩き始めた。
幸い、二階の部屋は全て襖だ。廊下を歩く泡雪の姿が見える事は無いだろう。それでも用心の為に口元を手で覆って息を殺し、なるたけ足を立てないよう摺り足で板張りの床を歩く。
廊下の端に寄った方がいいだろうかと思ったが、廊下の両側は襖が連なっている。もし端に寄って歩いて、誰かに気づかれたらと思うと恐ろしくて、結局廊下の真ん中を歩く事にした。
――…………と
「……?」
自室まで、あと半分くらいの所まで来た時だ。
ふ、と耳に音が飛びこんできた。びくりと肩を揺らして、泡雪は慌てて周囲を見渡す。
――さ…………と……
右に向けた首の動きが、ぎくりと止まる。氷色の瞳に、満月の描かれた襖が飛び込んできた。
観月の間。羽二重楼で、一番広く上等な間。
そこに、人の気配がみっしりとひしめいていた。
ぴったりと閉じられた襖の向こうから微かな衣擦れの音や囁き声が、さざなみのように廊下に流れ出している。もしかして、羽二重楼の全員が観月の間に集まっているのか。
――中で、なにをしてるんだろう。
ふぅー……と、泡雪は手のひらの中に湿った息を吐き出した。
もし全員集まっているなら、今が好機だ。今の内に、自室に行って菫を取ってくればいい。
だというのに泡雪の身体は、自分のものではないかのように観月の間に近寄っていた。どうしても、中の様子が気になる。みんな、千鳥のようにいけなくなったのか。朝餉も食べず、夜の支度もせず、一部屋に集まり何をしているのか。
そんな場合ではないのに、好奇心がむくむく膨れて止まらない。
――少しだけ。ちょっとだけ中を見たら、すぐ部屋に行くから。
自分にそう言い訳をして、泡雪は襖の隣にある窓に近づいた。壁を丸くくり抜き、丸の下半分に細竹を菱形状に編んだものを嵌め込んだものだ。上半分の方には障子紙を張っており、うっすらと中の様子が伺える。
そこに泡雪は近づいた。指に唾を付けて障子紙を湿らせ、ぷつ、と穴を開ける。少し背伸びをして、開けた小さな穴に目を近づけた。
――ばじまりさんごどばじまりさんごどばじまりさんごどばじまりさんごどばじまりさんごど……
一瞬、泡雪は己の視界に入ったものが理解できなかった。
穴から目を離し、胸に手を当てて跳ねあがった心臓を宥める。大きく息を吸って吐き、もう一度目を穴に近づけた。
――ばじまりさんごどばじまりさんごどばじまりさんごどばじまりさんごどばじまりさんごど……
上座に当たる位置に、肌色の大きな丸いものが鎮座していた。大人一人が入れそうなほど大きな丸いそれは、ゆっくりとではあるが上下している。――生きている。
上質な布団をいくつも重ねた上に恭しく置かれた様子は、まるでそれがこの世で一等尊い存在であるかのようであった。
そして肌色の塊を崇めるように、羽二重楼の面々が上座を向いて正座していた。
どいつもこいつも飾り気のない白い単衣をまとって、髪も結わずに背をぴんと伸ばし、一心不乱に呟いている。
――ばじまりさんごどばじまりさんごどばじまりさんごどばじまりさんごどばじまりさんごど……
泡雪は、そろりと足を後ろに下がらせた。一歩、二歩下がり、ぱっと身を翻して廊下の奥へ向かう。
走りたいのを我慢して、それでも時間をかけたくなくて、先ほどより少し早足で廊下を進んだ。
――気持ち悪い。なんだい、あれ。なんで、ありまがあんな姿に。
吐き気がしそうなほど、心臓がばくばくと鳴っている。
怖いよりも、ありまの心配よりも、嫌悪の方が強かった。
肌色の丸いあれの正体を、泡雪は察してしまった。羽二重楼で腹が膨れていたのは一人しかいない。二日前までは少なくとも、あそこまで異様な形ではなかったのに。
この遊郭で何が起こっているのか。事態のただ中にいるはずなのに、泡雪には何一つ理解できない。それが一番嫌で、気味が悪かった。
自室の襖が見えた。足を早め、襖を開けて中に入る。豪奢な部屋を通り過ぎ、奥の襖を開ける。
己の部屋はいつも通り、何も変わった様子が無かった。寝ていた布団が綺麗に畳まれ、部屋の隅にどかされているくらいだ。
「菫……あった!」
ほ、と思わず安堵の息が漏れる。
文机に置かれた小さな氷柱は、変わらずそこで陽の光を浴びていた。
駆け寄って両手を伸ばし、氷柱を取り上げる。光を反射してきらりと輝く氷の中、くたびれた菫が薄紫色の花弁を嬉しげに綻ばせたように見えた。
どこに行ってたんだ、一体。
そう言われているかのようで、こんな状況なのに泡雪は思わず小さく笑ってしまう。
衝立も持ち出したいが、泡雪の力じゃそれは無理だ。
――どうしよっかなあ、これから。
ひとまず、異怪奉行所に知らせ出るのが一番良い選択肢だろうか。本当は矢凪を頼りたいが、彼がどこに住まいを構えているのか泡雪は知らない。
とにかく羽二重楼から出よう、と振り返って、
「お戻りください」
無表情の顔の列に出迎えられ、さしもの泡雪もひゅっと息を呑んだ。
「お戻りください」「お戻りください」「お戻りください」「お戻りください」「お戻りください」「お戻りください」「お戻りください」「お戻りください」
庄十郎が、みどりが、千鳥が、他の遊女達が、禿達が、男衆が。息がかかるほど近くにずらぁりと、立ち並んでいた。
指を絡み合わせて握った両手を胸の前に掲げた姿勢で、表情が削ぎ落された顔をこちらに向けている。背伸びをして奥を見れば、そちらにも人が並んでいる。
泡雪は歯噛みした。
どうやら、羽二重楼にいる全員がこの場に集まっているらしい。
「お戻りください」「お戻りください」「お戻りください」「お戻りください」「お戻りください」「お戻りください」「お戻りください」「お戻りください」
「なんだい! 揃いも揃って怪異なんかに毒されちゃって! なにがお戻りくださいだ、あたしは絶対に嫌だからね!!」
胸にわいた恐怖を誤魔化すように、大声を上げて泡雪は一歩下がる。
その時だった。
――なにを恐れる
頭の中に、声が響いた。
泡雪は驚いて、周囲を見渡す。
――お前は私が……神の子がこの世に生まれる為の一助となるのだ。なにを恐れることがあろうか
頭の中に、再び声が響いた。
きょろきょろと周囲を見渡す泡雪とは対照的に、目の前の無表情面達は恍惚とした表情を浮かべ、顎を上向けて天を仰いでいる。
彼ら彼女らにも、この声は聞こえているのだろうか。
――さあ。お前のなすべき事はもう分かるだろう。大人しく身を清め、その時を待つが良い
三度語り掛けてきた声に、泡雪は目を尖らせた。
姿の無い声の主を探すように視線をうろつかせ、怒声を上げる。
「なに言ってんだい、さっきから! あんたの言ってる事は、ちっとも分からないよ! このおたんちん!」
先ほどまでの恐怖は、どこかへすっ飛んでしまっていた。
滔々と頭に響く、低く渋い声。泡雪は聞き覚えがあった。最初に聞いた時は分からなかったが、三度も聞けば流石に思い出す。
――花魁、良かったらこれを、そこの禿に。なに、貰い物だが私は甘い物が苦手でな。
耳の奥に、春先に聞いた声が蘇る。
「あんたの声、聞いた事があるよ! 思い出した! あんたの仕業なのかい! あんた、けい――」
――お前、セイスイを飲まなかったのか
泡雪の言葉を遮り、唸り声が轟いた。
歯を軋り合わせるような、ぎしぎしとした音が脳内に響く。先ほどまで落ち着き払っていた声は今や、嚇怒に塗り潰されていた。
――たかだか遊女如きに、神の子を生む為の滋養となる栄誉を授けてやったのだ。お前に拒む道理などない
恍惚の表情を浮かべ、天を仰いでいた連中は目を吊り上げ歯をかちかち噛み鳴らし、殺気をその身からみなぎらせている。
――大人しく、私が神の子と成る為の滋養となれ。誰にでも股を開く阿婆擦れが、この私に逆らうな!
脳内で喚き散らす声を、泡雪は鼻で笑った。
「たかだか遊女如きとはよく言ったものだよ。その阿婆擦れに頼らなけりゃ生まれる事ができないなんて、神の子ってのも程度が知れてるねえ」
挑発しながら、泡雪は一歩後ろに下がった。合わせて、庄十郎達も一歩前に出る。
――捕らえろ、手足を叩き折っても構わん!
上擦った怒声が脳内を席巻し、姿無き声に命じられた操り人形達が胸の前で組み合わせた両手をほどく。こちらに向かって突き出された幾本もの手に、泡雪は冷気を叩きつけた。
たちまち、ぱきぱきと音を立てて庄十郎やみどりの手が凍り付く。操られていても驚いたのか、手が引っ込んだ。
「触るんじゃないよ! あたしに触っていいのは旦那様だけさ!」
――貴様……!
手を凍らされた庄十郎達を押しのけ、背後にいた連中が前に出てくる。それらが手を伸ばす前に、泡雪は閉じられた窓に駆け寄った。障子を開け放ち、窓べりに足をかける。
下は中庭、瓢箪型の池がある。あそこに飛び下りれば死にはすまい。
足に力を込めた瞬間、背に流した髪をぐいと引っ張られた。頭皮に鋭い痛みが走る。
「離しな、あたしの髪に触るな!」
髪の根本を掴み、凍らせる。ばきん、と音がして頭が軽くなった。乱雑に散った毛先が首筋を刺す。
いつだったか、氷原みたいで綺麗だと、矢凪が珍しく褒めてくれた。
ぎり、と唇を噛む。感傷に浸るのは後だ。
「髪の礼は、絶対にさせてもらうからね!」
わらわらと伸ばされる手と、頭の中で喚く声に捨て台詞を吐き。泡雪は小さな氷柱を固く抱きしめ、窓べりを蹴った。
勢いよく小柄な身体が瓢箪池に落下し、派手な水音と柱が立ち上がった。




