九
「千鳥、これはどういうことでありんすか」
「お飲みください。貴女はセイボありま様の滋養に選ばれたのです。羨ましい事です。これは有難い事なのです」
泡雪は、氷色の瞳に険を宿らせた。
「わっちは、どういうことかと聞いているんでありんす。あまりふざけた真似をすると、わっちも怒りんすよ」
「お飲みください。貴女はセイボありま様の滋養に選ばれたのです。羨ましい事です。これは有難い事なのです」
淡々と同じ言葉を繰り返し、千鳥は牢内に差し入れた椀を手のひらで示す。
泡雪は、細い眉をひそめた。背筋をうすら寒いものが駆け上がる。
「……千鳥?」
確かに、自分と千鳥は反りが合わない。
嫌味や皮肉の応酬はしょっちゅうであるし、互いに旦那を奪っただなんだと言い合うこともある。だが泡雪を座敷牢に閉じ込める、という直接的な手段に手を出すほど、憎みあっているわけではない。
敵視しつつも、互いの事は認めている。そういう関係だった。
そもそも座敷牢の鍵を管理しているのは、楼主夫婦だ。遊女同士の争いで座敷牢を開けるほど二人は馬鹿ではないし、鍵を盗むにしても夫婦の部屋には常にどちらかがいる。
盗人でもない千鳥が、その目を盗んで鍵を奪うなんてできるはずがない。
「お飲みください。これはセイボありま様が貴女の為にお作りになられたセイスイです。お飲みください」
「……」
最初こそ千鳥の嫌がらせかと思っていたが、考えれば考えるほど違和感が強くなる。
格子の隙間から見える顔からは、綺麗に表情が削ぎ落されていた。ゆっくりとした瞬きがなければ、端麗な面を被っているようにも見える。常なら派手に飾られている髪には簪の一本も無く、豊かな黒髪が背に流されていた。
まとっているものも、千鳥好みの梅模様の着物ではない。何の柄も入っていない、白地の単衣だ。日の当たらない肌寒い廊下、薄い単衣一枚では寒いだろうに、細い身体は震える様子を見せない。見れば白い足も裸足だ。
「……寒くないのかい、あんた?」
「お飲みください」
秋も深まれば、ああ寒い寒いと着物を何枚も重ね、綿を多く入れた足袋を履くのがいつもの千鳥である。常につんけんした態度の千鳥が、秋冬はふくら雀のように着膨れしているのが愛らしいと、客の間では評判だ。
なのに。
「千鳥、あんた一体どうしたんだい。……本当に千鳥だよね?」
薄い口元に、うっすらと微笑が浮かんだ。
「その名は既に捨てました」
「はぁ?」
「かつてわたくしは千鳥でありました。しかし今のわたくしは千鳥ではありません。今のわたくしは神のシト。セイボありま様と神の子にお仕えする名も無きシトの一人です」
何を言っているのか、さっぱり分からない。
「お飲みください」
目を白黒させる泡雪に構わず、廊下に片膝をついたまま、千鳥は淡々と促してきた。
お飲みください、と言われて差し出された椀を見下ろす。行灯の光を反射して、中の液体が微かに輝いている。
セイスイ、と言っていたがなにか特別なものなのだろうか。見た目だけなら普通の水に見える。そもそもこれは、飲んでいいものなのだろうか。毒でも入っているんじゃないか。
「お飲みください」
「ねえ、セイボって、一体なんなんだい。なんで、ありまがそう呼ばれているのさ」
せっつくように繰り返す千鳥に、泡雪は尋ねた。
本当は、そんな事はどうでもいい。ただ、椀の中で揺れる正体不明のものを飲みたくなくて、時間稼ぎをしているだけだ。
「セイボはセイボ。神の子を孕んだ聖なる母を示す言葉でございます。男を知らぬ純な娘が聖母となる素質を持ち、ありま様は神の子を孕み聖母となりました。そして貴女はその滋養に選ばれたのです。羨ましい事です。これは有難い事なのです」
「……なんで、あたしがその滋養とやらに選ばれたのさ」
「貴女がありま様と一番に近しいからでございます。血の繋がった者ならば尚良いのですが、いないのですから仕方ありません。三日の後、貴女は滋養としてありま様の一部となり、貴女を滋養としてありま様は神の子をお産みになられるのです。羨ましい事です。これは有難い事なのです」
「それで? ありまが聖母で、あたしが滋養で、じゃああんたは何なの、シトってのはなにさ」
「わたくし共は神のシトです。聖母ありま様の身の回りの世話を行い、神の子を無事お産みになられるよう祈り、お産まれになった暁には、わたくし達の身を寿ぎの証として神の子に捧げる事となるでしょう。わたくし達は選ばれたのです。これは有難い事なのです」
滔々と語る千鳥の瞳には、相変わらず熱を感じない。
話し方や表情がいつもと違うという事もあるが、まるで何かの台本を口にしているかのような、そんな印象を受けた。
――何かに操られてる?
泡雪には、凍らせる力はあっても見鬼の才は無い。もし、ありまや千鳥に怪異が憑いていたとしても、泡雪には分からない。
布団に上体を起こしたまま、千鳥を見つめていると、
「お飲みください」
生き物のように、格子に白い指が絡みついた。格子の隙間に顔を突っ込んで、じぃ……と無感動な視線を向けてくる。
「お飲みください」
「……はいはい、分かったよ」
泡雪は、千鳥から目を離さないままに指を伸ばした。漆塗りですべすべとした椀に指を引っ掛け、己の方へと引き寄せる。
畳の毛羽立ちに高台が引っかかって、椀が揺れた。中の液体がゆらりと波打つ。
「あ」
雫が数滴、椀の縁から飛んで色褪せた畳に落ちた。液体が染み込んだ場所が少し濃くなり、すぐに乾いて元の色に戻る。
「何をしているのですかそれは聖母ありま様が滋養たる貴女の為にわざわざお作りになられたセイスイなのですよ何をしているのですか事もあろうに零すなど何を考えているのですか貴女は己の役割を理解しているのですか貴女は聖母ありま様の滋養となり聖母ありま様が神の子を産むために必要な滋養となるのですよだというのに貴女は何をしているのですかなぜセイスイを零すなどという愚行ができるのですか分かっていますか貴女は滋養なのですよそれを飲むのが貴女の役割なのですよだというのに何をしているのですか」
「っ!?」
瞬間、言葉の奔流が叩きつけられた。
面を被ったような無表情のまま、息継ぎもせず静かに、淡々と、こちらをなじる。それがいつもの千鳥とは正反対で、ひどく気持ち悪い。
千鳥の皮を被った何かを見ているかのようで、泡雪の背にじわりと冷や汗が滲んだ。
「――お飲みください」
一息の間の後、落ち着いたように格子から手が離される。だらりと身体の脇に両手が落ちた。
「お飲みください。お飲みください。お飲みください。お飲みください。お飲みください。お飲みください。お飲みください」
そうして今度は、壊れたように同じ言葉を繰り返す。
――嫌だ、気味が悪い。
押し入ってきて、無理やりにでも飲ませようとする気配は無いが、このまま格子の向こうに立ち尽くされているのも気持ちが悪い。
「……」
中の液体を零さないように、そろりと椀を持ち上げる。たぷんと揺れる度に、甘い花のような香りが鼻腔をくすぐった。
「お飲みください。お飲みください。お飲みください。お飲みください。お飲みください。お飲みください。お飲みください」
少し掠れ気味の千鳥の声が、静かに言葉を繰り返す。
泡雪は格子の向こうを一睨みして、椀に口を付けた。
一気に中の液体を呷る。口内に、吐きそうになるほど濃厚な花の香りが広がった。こくり、と仰向いた泡雪の喉が動く。
「……」
無言のまま空になった椀を格子の方へ押しやると、廊下に膝を付いた千鳥が手を伸ばしてそれを回収した。
「では、お休みください」
立ち上がり、深々と一礼した千鳥が歩き去っていく。
泡雪は口を閉じたまま、布団から這い出して格子の隙間から頭を出す。突き当たりを右に消えていく、千鳥の揺れる髪が見えた。
「……馬鹿だねえ、千鳥。飲んだ後に口を開けさせて、ちゃんと飲んだかどうか確かめなきゃあ」
足音が遠ざかって行った後。頭を引っ込めた泡雪は氷の塊を吐き出して、単衣の袖で口を拭った。
氷でできたような菫を食べてから、泡雪ができるようになったことは二つ。
一つ、氷の塊を虚空から生み出すこと。作れる大きさは拳大くらいで、最大四つまで作り出せる。ただこれはひどく疲れるので、一日一回しかできない。
一つ、己の身体から冷気を出し、それに触れたものを凍らせる。凍ったものは不思議なことに、外気温の影響を受けない。夏でもその状態を保ったままだ。
椀の中の液体を口に含むと同時に凍らせ、飲み込むふりをした。それで騙されてくれて良かった、と畳の上に転がる氷塊を一瞥して泡雪は胸を撫で下ろす。
本当に飲んだか口をこじ開けられそうになれば、千鳥に氷塊をぶつけて気絶させる事も目論んでいた。
「それにしたって、千鳥はどうしちゃったんだろうね。こんな馬鹿げた事、する女じゃないのに」
あれはどう見ても、尋常な様子ではなかった。
もしかして、怪異に憑かれたのだろうか。
だがありまも千鳥も、「神の子」と口にしてはいなかったか。なら怪異ではなく、神の仕業なのか。
「っていうか滋養って、要するに贄ってことだよねえ。だって滋養だもん」
三日のお籠りの後に、ありまが神の子を産む為の滋養として捧げられる……千鳥はそう言っていた。
正直、泡雪には何が起こっているのか、さっぱり分からない。
ありまの腹が膨れたことから、全てが始まっているのは確かなのだろうが、それの原因が怪異なのか、それとも本当に神の子とやらの仕業なのか。全て分からない。
所詮、泡雪はただの遊女だ。異怪奉行所の者でも、祓い屋でもない。
薄い布団に、仰向けに横たわる。身体にはまだ倦怠感が残っているが、昨日ほどではなかった。
「旦那様なら、何か分かるかなあ……」
暗い天井を眺めながらぼんやりとひとりごちた泡雪は、はっと目を見開いた。
「あっ……菫!」
飛び起きる。眩暈が襲ってきたが気合で跳ね飛ばし、座敷牢内を見渡す。
枕元の小さな行灯、それと天井近くにかかる蜘蛛の巣が埃を捕まえているくらいで、牢内には何も無い。白い単衣しかまとっていない自分の身体を探るが、薄紫を閉じ込めた氷柱はどこにもなかった。
さぁ……っと顔から血の気が引いた。
「旦那様から貰った菫……あたしの菫……!」
黒い黴が浮いた布団をきつく握りしめる。
千鳥の異変だの、滋養だの、聖母だの、シトだの、色々と言われた事や今まで考えていた事は、泡雪の頭から綺麗にすっ飛んでしまっていた。とにかく、あの菫を自分の手元に取り戻さなければ。あれは旦那様が、自分の為だけに摘んできてくれたものだ。
足に気合を込めて立ち上がり、格子を握る。
寝癖の付いた氷色の長髪が、冷気に煽られて大きくうねった。
高台=椀の下にある丸い輪。




