八
ようやく落ち着いた泡雪に、丞幻は正座したままそろりと声をかけた。
「……あのー」
「なんだい間夫」
冷え冷えとした冷気が返ってくる。丞幻の膝前の畳が、ぱきりと音を立てて凍った。前言撤回。ちっとも落ち着いていない。
余談だが間夫とは遊女の情夫の事を指すので、丞幻を間夫と呼ぶのなら関係的には矢凪が遊女の立ち位置になるのだが。
「話、戻していいかしらん?」
そこら辺をどう思っているのか、若干の好奇心はあったがこれ以上彼女を刺激するのも良くない。
また氷塊を飛ばされかねないというのもあるが、やはり泡雪は本調子ではなかったらしい。ひとしきり暴れて叫んだ後、矢凪の胸に上体をもたせ掛けてぐったりとしてしまった。
それでも目に満ちた敵意が消えないのは、いっそ天晴である。
「ええとね、泡雪花魁がお世話をしている、ありまという子について聞きたいのよ。よろしい?」
丞幻は努めて穏やかに話しかけた。襖の敷居の外から。
自室に丞幻を入れるのを、泡雪は頑なに拒んだ。その為、丞幻は部屋に足を踏み入れずに話をしている。
仰臥した状態で丞幻の話を聞いていた泡雪は、枕元で胡坐をかいている矢凪に視線を向けた。
「ありま? ……あの子がどうかしたのかい、旦那様?」
「腹が膨れてんだろ、てめえが世話ぁしてた禿が」
「ああ……」
頷いて、泡雪は大儀そうに身を起こした。すかさず矢凪が手を伸ばして、その背を支えて起き上がるのを手伝ってやる。
あらまあ、本当にほの字だこと。
しみじみと仲睦まじい様子を眺めていると、こちらに目線を向けた泡雪が、勝ち誇ったような笑みを唇に乗せた。
「本当、どこをどう聞いたらワシと矢凪が恋仲だなんて勘違いするのかしらん」
記憶を辿るように唇に指を当てる泡雪に聞こえないよう、口中で呟く。
「ええと、そうだね。二日前に、楼主様に呼ばれたら、ありまの腹が膨れていて……」
言いさしてふと、泡雪は挑むように丞幻をねめつけた。
「え、なに、どしたの?」
「…………」
無言で丞幻を睨む泡雪の肩を、矢凪が撫でる。
「泡雪。こいつぁ、聞いた話をぴぃちくぱぁちく囀るこたぁしねえよ」
ああ、丞幻が聞いた話をあちらこちらに吹聴するかもしれないと、心配していたのか。
禿の身で子を孕んだと不名誉な噂が立てばこの先、ありまが生き辛くなる。場合によっては遊郭を追い出されるかもしれない。
彼女の世話を任されている泡雪としては、不安の種はできるだけ摘んでおきたいのだろう。特に軽薄そうですぐ誰彼構わずべらべら内情をくっちゃべりそうな自分の最愛の旦那を奪った間夫とか。……考えていて悲しくなってきた。
静かに肩を落としていると、泡雪が不承不承頷いた。
「……まあ、旦那様が言うなら」
おのれ旦那様に理解されやがってこの野郎、と言いたげな視線を丞幻に注ぎつつも、泡雪はなにがあったかを説明してくれた。
神の子を孕んだ、自分はセイボになるのだとありまが言っていた事。楼主が医者に診せるというので、任せて自室に戻った事。うたた寝から起きたら、目の前にありまが立っていた事。
「――それで、あの子が『腹の中の神の子が、滋養が欲しいと言ってる』とか言ってね。あたしに抱き着いてきたんだよ」
その瞬間、自分の中の熱が一気に奪い去られた気がした。貧血を起こした時のように頭がくらくらとして酷い吐き気と倦怠感に襲われ、畳に倒れ込む。
暗くなる視界にありまの白い素足が見えたが、そのまま泡雪は気を失ってしまった。
「で、気づいたらこの有様だよ」
「成程ねえ」
確かに泡雪の頬は青白く生気を感じない。目を閉じて横たわっていれば、死体と見紛う程である。
ただ幸い、今日明日にも命がどうなるというほどではなさそうだ。栄養のあるものを食べてゆっくり休めば、いずれ回復するだろう。
「――へえ」
軽い調子で、矢凪が一言呟いた。
だがその裏に、ごりっとした冷たいものが潜んでいるのを、丞幻は感じ取った。
怒っている。これは、相当に激怒している。
「うふふー」
己の為に怒っているのだと察した泡雪が、嬉しそうに頬を緩めて矢凪の胸元に頭を沈める。もちろん、こちらに自慢気な視線を送るのは忘れない。
「ワシ、今なら饅頭とか吐ける気がするわ。それもめっちゃくちゃ甘い奴」
焼けるように甘ったるい光景を見ながら、丞幻はぼそりと呟いた。
楼主夫婦に頭を下げられ、丞幻達は羽二重楼を後にした。
雨はすっかり上がり、厚い雲の隙間から星が瞬いている。
それもあってか、色町には先ほどより人が増えていた。広い道の両端に、ずらりと並ぶ張見世の赤格子。軒先に揺れる玻璃竹が照らされる様が、なんとも艶めかしい。
羽二重楼の近くに出ていた立ち飲みの屋台に入り、熱燗と串おでんを頼む。よく味の染みた蛸足を齧って、丞幻は懐からネタ帳を取り出した。
「しっかし、分からんわねえ。前から聞いてた話と違うし、あの子が話してた言葉も分からんし」
ネタ帳に書き留めた、ありまの話していた言葉を見直して首を捻る。
どうして羽二重楼だけ、他の遊郭と違う事が起こっているのか。セイボとは。ありまの話していた言葉はなんなのか。なぜ泡雪花魁が『滋養』として襲われ生気を吸い取られたのか。
「……引きずり出して、潰すか」
酒を嘗めていた矢凪が、ぼそりと呟いた。
主語は無いが何を指しているのか察して、丞幻は助手の後頭部をしばき倒す。何をすると言いたげに睨みつける眼光を受け流して、その口に串大根を突っ込んだ。
「むぐ」
「正体も分かってないのに、それはだーめーよー。母体に何かあったら、悲しむのはお前の思い人でしょ」
「……」
ばき、と大根ごと竹串を噛み折って、矢凪は屋台にぶすっとした様子で頬杖をついた。
そうしてふと思い出したように、こちらに視線を向ける。
「なあ、おい」
「んー?」
「そもそも人と神の間に子ってなぁ、生まれるもんなのか?」
「生まれないわよ」
神が位を捨てて人に堕ちる、あるいは人がその身を捨てて神と成ったならともかく、神と人の間に子が産まれる事は無い。
唯一の例外が天帝だ。遥か昔、天大神と彼を祀る巫女との間に生まれた天帝は、半神半人。遠き神話の時代より天大神の耳目として陽之戸を、この地に生きる人々を雲涼殿より見守り続けている。
じゃあ、と矢凪は眉間の皺を一段と深くした。
「腹の中にいる奴ぁ、神の子を騙ってるっ怪異てぇ事か?」
「まあ、その可能性は高いんだけどねえ。ただそれにしちゃあ、あの腹の中にいた人影から瘴気を感じなかったのよね。もし怪異の仕業だったら瘴気が必ずある筈だし、いやでも瘴気を抑えてワシに感知させないほどの相手って事もある? ていうか今回の件って怪異って感じがしないのよね勘だけど。まあ怪異と仮定して女の腹に潜む怪異にそこまで強いのいたかしら、それに幼い子だけ狙う理由はどこにあんの、腹を借りるなら普通の女でもいいしああそれにあの言葉はなに」
屋台を指で叩きながら目を伏せ、ぶつぶつと呟く。
思考の海に沈んでしまった丞幻を放置して酒を嘗めていた矢凪は、丞幻の前に広げられたネタ帳に目を止めた。
真新しい紙面の上にずらずらと、よく分からない言葉の羅列が並んでいる。
「おい」
「いっだあ!?」
指先で弄んでいた竹串で、丞幻の頬を刺す。
鋭い痛みで現実に引き戻された丞幻は、目を白黒させながら隣を見た。こんにゃくが刺さっていた串でネタ帳をつつきながら、矢凪が丸い瞳を半月にしている。
「これ、なんだ。気でも狂ったか、てめえ」
「違うのよ。これ、あの子が話してた言葉。なんか意味があるのかしらんって思って、一応書き留めてきたのよー」
見る? と矢凪の方へネタ帳を押しやる。
屋台の軒下で揺れる玻璃竹の明かりの下、矢凪の皺がどんどん増えていく。右に左に首を捻る姿に、うんうんと丞幻は頷いた。
やっぱり、そんな反応するわよねえ。
「全然わっかんないでしょ、意味。あ、そうそう、それを話してた時の抑揚もちょっと変でねえ。えーっと……はろうちーわあゆー、まねーめいず……みたいな感じだったかしらん」
ネタ帳に記した言葉を口にしながら、矢凪に顔を向ける。
「……どしたの、その顔」
矢凪は目をまん丸にして、ぽかんと口を開けていた。先ほどまできつく浮き出ていた眉間の皺も、綺麗に消えている。てっきり顔をしかめ、「は? なんだそりゃ意味分かんねえ」とでも言うと思ったのだが。
「矢凪。やーなぎー。どしたの、戻っといでー」
ひらひらと目の前で手を振ると、我に返ったようで目が激しく瞬いた。
そのままネタ帳を引ったくるように掴むと、矢のように屋台から飛び出していく。丞幻は慌ててその背に叫んだ。
「ちょっと! どうしたの、どこ行くの!」
「これ借りるぞ!!」
こちらを見もせず怒鳴り返し、薄茶色の髪が人波に消えていく。
「なによー、いきなり。……なんか心当たりでもあったのかしらん」
だったら、そちらは矢凪に任せてみるか。
矢凪の皿に残った串豆腐に味噌を付け、齧りながら丞幻は思案した。
さて、自分はどうするか。このまま帰ってもいいのだが、せっかく色町まで来たのだから、もう少し情報収集はしておきたい。
なにせ、羽二重楼の事例は他の遊郭で起こった事と比べて逸脱しすぎている。
「あの女が情報をあえて絞って、実際は他のとこでも似たような事が起こってたって可能性はまあ、あるかもしんないけど。そも情報を隠す意味が無いものねえ。まあそこは信用してもいいかしらん。信用したくないけど」
とりあえず、他の遊郭にも話を聞きに行ってみるか。幸い、いつもより少し多めに銭を持ってきているから、口の軽そうなのに握らせて聞き出そう。
「ま、シロちゃん達が起きるまでには帰れるでしょ。あの子ら最近ねぼすけだし」
玄関の開く音で目が覚めたシロとアオが、置いて行かれた事を知ってぶすくれ面をしている事など露知らず、丞幻はそう呟く。
横目に映る羽二重楼は、異常を内包している事を見せる事なく、いつも通りな顔で賑やかな三味線を通りへ流していた。
〇 ● 〇
良い土を見つけたら、次は水である。
良い水が無ければ、種も満足に育たない。
水はできるだけ多く欲しい。そうでなければ種が育たない。
あちこちからかき集めた水では駄目だ。同じ水源の水を与え続けるのが肝要である。
それこそが、神の子と成るにふさわしい水である。
〇 ● 〇
泡雪は寝相が悪い。
目が覚めればいつも手足が布団から飛び出ているし、場合によっては枕に足を置いて寝ている事もある。夏でも冬でも、それは変わらない。
今日もまた、布団から逃げ出した手足が畳を滑る。ざり、と不快な感触が指先に走った。
夢と現の間に揺蕩う意識の中、これはなんだろう、と泡雪は手のひらを畳に押し付けて動かした。ざり、ざり、と細かい砂利のような感覚がする。
「……んむー……?」
なんだろう。なんだか、畳がやけにちくちくする。泡雪の部屋の畳は、こんなに触り心地が悪くないのだが。それにどうも、空気が悪い。
息を吸い込むごとに、舌の奥にざらざらとした埃の味がした。
「……んー……」
口をもごつかせながら、泡雪は重たい瞼をこじ開けた。
ばさばさに毛羽立った畳が、揺れる視界に映る。畳に伸びた己の爪先に、大きめの埃が乗っているのが見えた。手を動かすと、ふわりと灰色の塊がどこかに飛んでいく。
何度か目を瞬かせて、泡雪は半身をゆっくりと起こした。
座敷牢だった。
「あれえ?」
呆然と呟いて、周囲を見渡す。
四畳ほどの座敷牢だ。右側を、天井から床までを太い木の格子が塞いでいる。格子の向こうは日の当たらない薄暗い廊下。格子以外の壁は板で覆われ、窓は無い。
真っ暗と言うほどではないが、宵の口のように薄暗い。枕元に置かれた小さな玻璃竹行灯だけが、よすがだった。
自分が寝ていたのは、薄っぺらい煎餅布団。長く使っていないような、黴の臭いがした。
「なんで? あたし、普通に寝てたよねえ?」
愛しい旦那様と、気に食わない間夫が帰った後、流石に体力が限界に来てそのまま眠ってしまった。だというのに、目が覚めたらなぜ座敷牢にいるのか。
ここは、羽二重楼の一番奥まった廊下にある座敷牢だ。「あんまり悪い事をしたら、ここに閉じ込めるからね」と遣り手婆のみどりが、禿達を脅しつける用のもので、実際使われた事は無い。
「お目覚めになられましたか」
「……千鳥?」
知った声に、格子に顔を向ける。縦横に組まれた格子の向こうに、佇む千鳥の姿が見えた。
いつも強気な表情を浮かべている端麗な顔には、なんの色も無い。無感情な瞳が泡雪を見据える。
「こちらをどうぞ。お飲みください」
膝をついた千鳥が、格子の隙間から椀を差し出してきた。朱塗りの椀の中で、透明な液体が揺れている。
「千鳥。なんでありんすか、これは」
千鳥ははんなりと笑んだ。
「貴女はセイボありま様の滋養に選ばれました。羨ましい事です。これは有難い事なのです。三日のお籠りの後、セイボありま様は神の子をお産みになられます。貴女はその際の滋養に選ばれたのです。羨ましい事です。これは有難い事なのです」
「……」
どうしよう。千鳥が壊れた。




