五
「あっ、しまったわあ。何刻くらいに、その友引娘が出るんか聞きそびれたのー」
にぎりまるから帰る途中のおそねが行き逢ったのなら、日が沈む辺りだろうか。
だが、あの店は用意した材料が無くなった時点で店を閉める。客が多ければ昼過ぎには閉めるかもしれないし、帰る途中におそねが寄り道をした可能性だってある。
「あ? なんだ、てめぇもいたのか」
「あら矢凪。お前もこの辺調べてた……のー……?」
髭をいじって唸っていると、横合いから矢凪に声をかけられた。そちらを振り返って、丞幻はぱちりと目を瞬かせた。
路地木戸から出て来た矢凪の右手に、いかにも破落戸ですという風情の若い男が、首根っこを掴まれ引きずられている。頬や目には真新しい青痣をこさえ、おこりのように全身がたがた震えていた。
「そちらどなた、お友達?」
「昨日ここいらで消えた金髪女を見たって野郎だよ」
なぁ? と矢凪は男を掴んだまま前後左右に揺さぶった。「はい、はいィ!」と上擦った悲鳴を上げながら、男がもげるほど首を縦に振る。
丞幻は感嘆の声を漏らした。
「あらら、そうなの? へぇー、よく見つけたわねえ。どーやって見つけたの」
「その辺の破落戸連中片っ端から締め上げた」
「なんて?」
詳しく聞くと。
丞幻と別れた矢凪はまず、この辺りの破落戸がたむろしている居酒屋に行った。
そこで目に着いた者を片っ端からぶん殴り蹴り飛ばし、「この辺で消えた金髪の女を知らねえか」と聞いて回った。だが手がかりが無かったので、やくざ者が裏に付いている水茶屋へ。店を壊す勢いで暴れたがそこでもロクな情報は無かった為に、盗人紛いの行いをする浪人共が居座っている廃寺へ――。
「お待ち」
「あ?」
「……なんか、どんどん上がってってなーい?」
主に対象の危険度とか、死の危険とか、そういうものが。
というよりも、わざわざそんな所ばかりを選んで、情報を集めようとしなくてもいいだろうに。思わずそう呟けば、矢凪はけろりとした顔で答えた。
「そっちの方が楽しいだろうが」
「あー、お前そっち系の人? 三度の飯より喧嘩と強い奴が好きな質?」
「飯と同じくらい好きだが」
「成程ねー。続けて」
そうして浪人を遠慮容赦無くぶっ飛ばした所、ここに住んでいる破落戸が昨日そんな話を酒場でしていた、という情報を得た。そこでそいつが住んでいるという、この長屋にやって来たわけだ。
殴るつもりは無かったらしいが、金をせびられたので代わりに拳を食らわせてやったらしい。
話を聞き終えて、丞幻はふむふむと頷いた。
情報収集の方法はまあ、こっちに置いとくとして。消えた女というのがおそねの事なら、それは貴重な情報だ。
よく見つけてきた。流石ワシの助手。昨日雇ったばかりだけど。
「そいじゃ、ちょっとお話いいかなー?」
二人が話している間、「すみません」と「許してください」の二語しか口にしていない破落戸の眼前に、ひょいと丞幻はしゃがみ込んだ。
「ひィっ」と小さく恐怖の息を漏らす男に、にっこりと笑いかける。
「んじゃお前、何を見たか教えてもらってもいーい? だいじょーぶだいじょーぶ、見たもの教えてくれれば、すぐに終わるからねー」
「ひっ、あ、あのっ、俺、あの時酔っててっ、だからあのっ、夢、夢かもしれなくて」
「あ? さっきと言ってる事がちげぇなあ?」
片眉を吊り上げた矢凪が首を掴む手に力を込めた。骨の軋む嫌な音がする。
「ひぃいッ! すみませんすみませんすみません!」
「およしよ、そんな怯えさせたら話せるモンも話せないでしょ。……ねーえ、お前が見た消えた女って金髪で、瑠璃色の花簪つけた中年増だったかしらん?」
「ひへっ、は、はぃっ、そう、そうです! あ、でも、あの、簪は確か、赤っぽい色でしたッ! あのッ、あの、本当です、嘘じゃないです!」
ほとんど涙声で破落戸が叫んだ。
なんだなんだと通行人が視線を向けてくるが、猛獣のような目つきで男を睥睨する矢凪。男の前にしゃがみ込み、笑顔を浮かべている丞幻。そこに挟まれ半泣きの痣だらけの破落戸。
この取り合わせを見た途端、無言で顔を背けてそそくさと立ち去っていく。正しい反応だ。
周囲の視線を見事に黙殺して、丞幻はわざとらしく手のひらに拳を打ち付けた。
「あー、そうだったわね。そうそう、珊瑚色の簪だったわー、そういえば。んで、その中年増、どうなったのかしらん?」
「俺っ、あの、その、酒買いに行こうとして、木戸出たら、その、女が向こうから慌てた様子で走って来てッ! それで、そこの、あそこ、あそこで……!」
「あそこ……あの通りの真ん中らへん?」
「そうっ、はい、その辺りです!」
「うんうん、そしたらー?」
男は引きつれるように息を吸った。
「消えたんだよ! 急にッ、急にだよアンタ! あの女が走って来て、それでそこで消えちまったんだ! 急に! 煙みたいに!」
恐怖に彩られた叫びごと、息を吐きだす。
そこ、そこと男が喚いて指さす方向には、いまだわだかまる瘴気があった。指さす先を視線だけで追った矢凪が、「ああ」と小さく呟く。
「なんかあんな、そこに」
「あれも視えるなんて、やっぱ優秀じゃね、お前。あれ、簪に付いてた瘴気と同じ奴よん。……まあ、簪の色も正しかったし、こいつが言ってる事に間違いはなさそうねー」
ここまで殴られ脅されてなお、嘘を言う度胸のある男には見えない。そもそも嘘を吐く意味だって無いのだ。真実と見ていいだろう。
「んじゃ、あと一つだけ。友引娘、って怪異がこの辺に――」
――ひ…………び…………しょ……かぁ……。
か細い、蚊の鳴くようにか細い声が、どこからか響いた。
その声が鼓膜を震わせた瞬間、ぶわり、と丞幻の全身が総毛立つ。
「――……っ!」
跳ね飛ぶように立ち上がり、矢凪の腕を掴む。懐に手を突っ込み、煙管を掴み出すが速いか吸い口を噛んで思い切り息を吸った。
煙を吐き出す。唇から吐き出された白煙が霧のように広がり、あっという間に周囲を円状に取り囲んだ。
「ひっ、ひぃ、ひいぃ……」
矢凪の手を振り払った男が悲鳴を上げ、這いずるように逃げていく。
「おい」
「しっ。……なーんか、危ない感じがすんのよ。とりあえず、ここは隠れてやり過ごしましょ。この煙から出なきゃ安全だからねー」
しぃ、と唇に人差し指を当てて、もの言いたげな矢凪を黙らせた。
薄い煙の壁の向こうに、人気が無い。先ほどまで、こちらを見て何やらひそひそ話していた女達も、小間物屋の商品を見ていた男も、いつの間にか消えている。
まずった。怪異の作り出す異界に取り込まれたか。力の強い怪異は異界を作り出し、そこに獲物を誘いこんで狩る事があるのだ。
――ひ……むす…………しょ……かあぁ……。
空々しいほど明るい太陽の下に、鼓膜をさりさりと引っ掻くような不快な声が響く。
道の端。煙の結界内で男二人が身を寄せ合っていると、通りの中心を通るように、ゆっくりと人影が姿を現した。
――ひも……むすびましょかあぁ……。
明瞭になっていく声と共に、それは遅々とした速度で丞幻達の視線の先へと現れた。瘴気が音も無く、結界の周囲を取り巻いていく。
「……友引娘」
ぼそり、と矢凪が低い呟きを漏らした。
「ひも……むすびましょかあぁ……」
顎を上向け、一人の女が呆然と空を見ながら歩いていた。ばさばさになった黒髪を腰まで無造作に伸ばし、感情のこもらない声を上げている。
伸びた髪が顔を半分以上隠して、年齢や美醜の程は分からない。模様も色も見えない程に薄汚れて擦り切れた小袖を、同じくぼろぼろになった麻縄で締めている。だらりと緩んだ襟元から、あばらの浮いた胸元が見えていた。
身体から発散される瘴気が、簪と通りにあったものと全く同じだ。おそねを襲ったのは、やはりこいつ――友引娘で間違いない。
「ひも……むすびましょかあぁ……」
ひび割れた唇が動く。その度にじわり、じわり、と割れた唇に血の玉が浮いた。
こちらの姿は視えていないだろうが、それでもすぐ近くを怪異が通るというのは気持ちの良いものではない。鳥肌の立った腕を丞幻がさすっていると、矢凪が小声で囁いた。
「おい、あいつの後ろ」
「うん? ……うっわぁー、なによあれ。気持ち悪ぅー。歩くならもうちょっと陽気に歩けばいいのにねえ。派手に太鼓鳴らすとか、踊りながら歩くとか、歌うとかさー。そんなんじゃもてないわよー」
小声で話す程度なら、結界のおかげで怪異に気付かれる事はない。丞幻も密やかな声で囁き返す。
友引娘の襟首の辺りから、艶の無い黒髪をかき分けるようにして、赤茶けた麻縄が一本伸びている。その先に、十数人の人間が数珠繋ぎに繋がれていた。
「ひも……むすびましょかあぁ……」
友引娘が足を進める度に、その人間達も縄に引っ張られ、ざり……ざり……と足音を立てて後に続く。男もいる、女もいる。老人もいれば、子どももいる。浪人のような風体もいるし、鍬を持った農民のような者もいた。
死人のような青白い顔色で、生気の無い瞳で、半開きの口から涎を零しながら、足を規則的に動かしている。
「ひも……むすびましょかあぁ……」
「たすけて……ゆるして……かえして……」
「ん」
聞き覚えのある声に視線を向ける。
最後尾におそねがいた。
「たすけて……たすけて……」
他の、虚ろな顔をした人々とは違う。
簪の無い髪は崩れ、顔はぐしゃぐしゃに歪み、滂沱の涙を零して許しを請いながら、友引娘に連れられていた。
「あれか」
「あ、こらちょっとお待ち!」
結界を飛び出そうとする矢凪の肩を、慌てて丞幻は掴んだ。ここはやり過ごそう、と言ったのに何をしようとしているのだ、この助手は。
出鼻をくじかれた形になった矢凪が、むっとした顔で振り返った。
「なにしやがる、てめぇ。あの女捕まえるんだろうが」
「捕まえるんじゃなくて救出ね、救出。……今は無理よー、道具持って来てないし。一回出直しね、でーなーおーしー」
「あぁ?」
眉間に皺を寄せて矢凪が凄む。
それを受け流している内に、おそねを連れた友引娘の姿がふぅ……っと船着き場の手前で消えた。




