七
「蛍声様がいてくれたらねえ……」
盆を膝に置いたみどりが、畳にため息を吐き出した。
「蛍声様?」
湯呑み茶碗を置いた丞幻に、庄十郎がこくりと頷いた。
「お世話になっていた、祓い屋の先生です。実は、ありまの腹が膨れて泡雪花魁が倒れたその日の内に、蛍声様に視ていただこうと思ったのですが……」
暗い顔で、首が振られる。
使いの者をやらせてみれば、住んでいた筈の長屋は戸がきっちりと閉まっていた。大家に聞けば、十日も前に長屋を引き払い、どこへ行ったか定かでないという。
「元々、無頼の身故いつここを去るかも分からぬ、とは仰っていたのですが……まさかこうも具合の悪い時に去ってしまわれるとは……」
「全くだよ! そりゃあねえ、行くも行かないも蛍声様の勝手なのは分かるよ! でもねえ、なにも今出ていかなくてもいいだろうに。祓い屋のセンセイなんだから、こういう大変な事が起こると事前に分からないモンかね!」
「ああーまあ……祓い屋と一口に言っても、色々と種類はありますからねえ」
ぷりぷりと怒るみどりに、丞幻は苦笑いを返した。
異怪奉行所に所属していない、いわゆる在野の祓い屋は意外と多い。
日常で起こるちょっとした怪異――誰もいない廊下から足音がしたり、障子に影が差したり――などは在野の祓い屋に相談。
誰それが神隠しにあっただの、明らかに人の手でない死に方をした死体が出たなどの大事が起こった際は、異怪奉行所に届け出るのが普通だ。
「そういえば、こちらの花魁も二日前から体調を崩しているとか?」
訪れた時から気になっていた事を、丞幻は口にした。
ありまの腹が膨れたのが二日前、花魁が倒れたのも二日前。偶然とは思えない。
途端、水を得た魚のようにみどりが身を乗り出してきた。
「そう! そうなんだよ! アタシは見たんだ、泡雪のあれは、間違いなくありまの仕業だよ!! あの子がやったんだ!!」
「だからみどり、お前、それは前に言ったように、お前の勘違いじゃないのかい?」
口を挟んだ夫を、みどりは凄まじい眼光で睨みつけて黙らせた。力関係が伺える夫婦である。
「なあにが勘違いなモンかい、アンタはちょっと黙ってな! センセイ、聞いとくれ! アタシは見たんだよ! 二日前に、アタシは泡雪を呼ぼうと思って階段を上がっていたんだ! そしたらセンセイ、アタシはお腹の膨れたありまと会ってさあ!」
「はい、はい、ちょっと待ってくださいねえ、まず落ち着いて、ゆっくり話していただけます?」
興奮し、鐘を突くような凄まじい声で喚くみどりを二人がかりで落ち着かせ、聞いた話はこうであった。
ありまの腹が膨れた日は、羽二重楼の髪洗いの日だった。長い髪を一日がかりで乾かす為、髪洗いの日は店を閉める。
しかし、しっとりとした洗い髪姿の遊女達というのはまた格別の美しさだ。その為、暮れ六つ|(十八時)から夜五つ半|(二十一時)までは、洗い髪の遊女達を張見世に並ばせている。
休みなので客を取る事は無いが、いつもと趣の違う遊女達を眺められると中々に評判は高い。
泡雪花魁も、この日ばかりは張見世に並ぶ事になる。しかし、その花魁が待てど暮らせど姿を見せない。
花魁目当てでやってくる客も多い為、遣り手婆も兼任しているみどりは文句を言いながら自ら泡雪を迎えに行った。うたた寝でもしていたら、怒鳴ろうという心づもりだった。
痛む腰を励ましながら、階段を上っていた時。
ふと頭上に影が差した。見上げれば、療養部屋で寝ている筈の、ありまが立っている。
幼い身体に似合わぬ、膨れた腹が薄気味悪い。
――ありま、お前、なにしてるんだい。具合が良くないのだから、療養部屋に戻りな。
みどりの声かけを無視して、ありまは茫洋とした表情を浮かべている。目はうっとりとしたように緩み、どこを見ているのか分からない。
――ちょいと、ありま! 聞いてるのかい、しゃきしゃき答えな!
気の長くないみどりが、甲高い声を上げた時だった。
蜃気楼のように、ありまの姿がゆらりと揺らいだ。そうして空気に溶けるように、すぅっと消えてしまったのだ。
みどりはぎょっと目を見開いたが、今は泡雪だ。そろそろ張見世の時刻になる。
ありまの事は後で考えるとして、みどりはえいこらと階段を上がって花魁の部屋を許可無く開ける。
そうして目にしたのは、窓際で倒れ伏している泡雪花魁であった。
「あんまり、ありまの事を考えていたから幻を見たのかと思ってたけど! あれは絶対、ありまだよ! あの子がきっと、泡雪を襲ったに違いないよ!!」
「でもねえ、みどり。その時は、ずっと医者がありまについていたんだよ。お医者の宋角殿は、ありまはずっと寝ていたと言っていたじゃないか」
「だから! ありまに怪異が憑いているんなら、そいつの仕業ってこともあるだろ!!」
口角から泡を飛ばして怒鳴るみどりに、丞幻は愛想笑いを浮かべた。
「まあまあ、奥方。そう怒ると、花の顔が台無しよ。当の泡雪花魁は、なんと言っていたのです?」
「嫌だよセンセイ! そりゃあ、アタシも昔は馬走の翠蓮と謳われたモンですけどねえ! 今じゃただのするめ婆ですよう!」
「これ、これ、みどり。そうじゃないだろう。……あいすみません、先生。これはどうしても、話が粉みたいに取っ散らかるもので……」
いつの間にか、呼称が「先生」で定着している。
生娘のように頬を染め、身悶えるみどりを放置して、庄十郎が額を拭き拭き頭を下げた。
「泡雪は、とにかく衰弱が激しく……今日、ようやく身体を起こす事ができるようになったところで」
「あら……ウチのが会いに行ったようだけど、もしかしてご迷惑でしたか?」
それほど衰弱していたならば、まだ療養が必要だろうに。もしや矢凪が無理を通したのだろうか。
庄十郎は曖昧な笑みを浮かべた。
「本来であれば、休ませる方がいいのですが……矢凪様も、泡雪の顔を見ればすぐに退室すると仰っておりましたし……」
その割には、ちっとも戻ってこない。話し込んでいるのか、玄関で待っているのか。……まさか、凍らされていないだろうな。
ちょっと心配になってきた。
こほん、と丞幻は咳ばらいを一つした。
「……矢凪を迎えに行きがてら、ワシが花魁に事情を聞いてみましょうか? 勿論、体調が良さそうであればの話ですが」
「そりゃ助かるよセンセイ! アタシ達に言えないような事でも、もしかしたらセンセイになら言えるかもしれないからねえ! 頼むよセンセイ、ありまがいたかどうか、泡雪に確かめとくれ!!」
みどりの中では、既に泡雪花魁の不調はありまのせいになっているらしい。
庄十郎の方に視線を向けると、お願いしますと言いたげに頭を下げた。
若い喜助に先導されて、花魁部屋へ向かう。
羽二重楼でただ一人の花魁というだけあり、彼女の部屋は遊郭の一等奥にあった。
「こちらです」
「はい、ありがとー」
襖に描かれた白い雪原を、無数の鷺が飛んでいる。襖の引手には、細かな氷の結晶が彫り込まれていた。流石に、細部にまで贅が凝らされている。
「花魁、泡雪花魁」
喜助の呼びかけに、返事は無い。何度か襖を叩いて呼びかけた後で、彼は困ったようにこちらを見上げた。
「すみません。その……もしかしたら、奥の部屋にいるのかも、です」
「あら、そうなの。ちょっと入ってみてもいい?」
「え、と……あっと……」
奉公してまだ日が浅いのだろう。自分で判断が付けられない様子で、わたわたと視線を彷徨わせている。
うーん、と丞幻は首をかたむけた。
「じゃあ、ちょっと奥の部屋に行って、声をかけてきてもらえる? 楼主に頼まれて、倒れた時の事を聞きに来た者です、って」
「は、はい! 分かりました!」
ほっとしたように頷いて、喜助が中へ入る。
襖に飛ぶ鷺を数えながら少し待っていると、襖が開いて喜助が顔を出した。
「花魁が、お会いになると。奥の部屋までどうぞ」
「はいな、ありがとう」
喜助に銀板を一枚渡して、部屋へと足を踏み入れる。
豪華な内装だ。部屋の中心には三つ重ねられた布団。傍らの枕屏風には竹林と虎が描かれ、枕元の煙草盆を彩るのは星粒が散りばめられた波模様の蒔絵。壁際に並べられたいくつもの衣桁は漆塗りで、着物がかけられている。着物の柄は美しく繊細で、あれ一枚売るだけで十日は食べていけそうだ。
部屋の右隅には砂利が敷き詰められ、そこに小さな松と水盆が鎮座している。興味を覚えて中を覗けば金魚が二匹、腹を見せて浮いていた。水も濁っている。
「あらま、かわいそうに」
広い部屋を突っ切って、丞幻は奥の襖へ向かった。そこにも同じように雪原が描かれている。こちらには鷺ではなく、雪原で遊ぶ子猿達が描かれていた。
着物にも兎や鶴が入れられていたから、泡雪花魁は動物が好きなのかもしれない。
そんな事を考えながら、襖を軽く叩く。
「おう」
「あら、凍ってはいなかったわね。お前がうっかりちゃっかりしっかり氷漬けになってるんじゃないかって、ひやひやしたわ。氷だけに」
「上手くねえよ」
中から襖を開けた矢凪は、仏頂面で鼻を鳴らした。背後を振り返って、「泡雪」と呼びかける。
「さっき言ったなぁ、こいつだ」
矢凪が横にずれて、もう一つの部屋の様子が丞幻の目に映った。
こちらは随分と、殺風景な部屋である。
窓辺に文机と本が数冊あり、部屋の中心には素朴な野原の描かれた衝立。部屋にあるのはそれだけで、後は何にも無い。
衝立の脇に布団が敷かれ、そこに件の花魁が上体を起こしていた。
細い肩を流れる髪は白に近い薄水色で、日に照らされた薄氷を思わせた。切れ長だがぱっちりとした瞳は、髪よりもやや濃い水色をしている。体調不良のせいか、元々なのか、肌は雪のように白く、左の目元にあるほくろが一際濃く浮かび上がっていた。
息を呑む程の美人というわけではないが、どうしてか視線が吸い付いて離れない。そんな魅力のある女性だった。
「初めまして、泡雪花魁。さっき伝えられたと思うけど――」
こちらをじっ、と凝視する花魁に丞幻が名乗ろうとしたところで。
「へえ、そう……そうかい……あんたが……ふぅん……」
ぶつぶつと口中で呟きながら、ゆらりと泡雪が立ち上がった。単衣の上から羽織っていた無地の着物が落ちて、足元にわだかまる。
「おい、泡雪」
矢凪に名を呼ばれるも反応せず、泡雪が真っすぐに丞幻を睨みつける。色素の薄い瞳に敵意が轟々と燃えていて、丞幻はぎょっと目を見開いた。
なんだ、なんでそんな目で見るんだ。
「え、なに、ちょっと姐さん?」
「あんたに姐さんと呼ばれる筋合いは無いよ!」
叩きつけるような怒声と共に、泡雪の身体から凍てつくような冷気が噴き出した。
「よくもあたしの旦那様を誘惑してくれやがったね、この間夫があああぁぁぁああ!!」
「間夫!? え、今、間夫って言われたワシ!?」
真冬の吹雪もかくやの冷気に襲われ、丞幻は咄嗟に飛びすさった。揺れる羽織や三つ編みにたちまち霜がまとわりついて、慌てて手で払い落す。
「あたしの! 旦那様を! あんたが! 取ったんだろ! この間夫!!」
頭上に掲げた泡雪の両手に、拳ほどの氷塊が三つ、四つと生み出された。
怒号諸共、両手が振り下ろされる。矢のような速度で飛んできた氷塊を、横に転がって躱す。鈍い音が背後で響き、振り向けば畳に氷塊が半ばまでめり込んでいた。
丞幻の頬を、冷や汗が伝った。
「……わあお」
当たれば普通に死ぬ威力である。
「おのれええぇ…………!」
ぎりぎりぎりぎり、花魁が歯ぎしりをする。刺すような冷気が畳を凍らせ、氷色の長髪を生き物のようにうねらせた。
どう見ても、長年の怨敵を仕留め損ねて悔しがる猛者の顔である。一夜の花と謳われるような女の顔ではない。
「ねえ! ちょっと矢凪! こちらの姐さん一体なんなの! お前どーいう紹介したの! ワシを!」
もう一度両手を掲げようとしている泡雪を押さえ、布団に座らせつつ矢凪は珍しく弱り果てた様子で眉を八の字に下げた。
「いや、普通に、俺が世話になってる作家だ、としか……」
「ん? 普通よね……?」
「旦那様に聞いたよ。あんた、旦那様と一つ屋根の下で暮らしてるんだろ」
「え、まあそうね……?」
背後から肩を押さえている矢凪の両手を握り、泡雪は丞幻をぎっ、と睨んだ。
「こんの間夫! 同じ屋敷で二人過ごしてあたしの旦那を奪おうとしやがって! 人間の屑! 肥溜めの桶に生まれ変わってもう一度死ね!」
「そこまで!?」




