五
〇 ● 〇
種を蒔くには土が重要だ。
穢れを知らない、まだ耕されていない土が良い。
誰にも踏み荒らされていない、手つかずの土壌。
それこそが、我が母となるに相応しい器である。
〇 ● 〇
夕方から降り出した雨は、たちまちのうちに大雨となった。屋根瓦を小石のような雨粒が叩き、鋭い音を響かせている。
ちび二体を寝かせた後でいつも通り矢凪と酒を飲んでいた丞幻は、ついに聞いた。
「ねえ矢凪、お前だいじょーぶ?」
「あ? なにが」
何だ急に殴るぞ、と言いたげに金の瞳を眇める矢凪の手元を、丞幻は指さした。
「お酒、零れてるわよー」
「あ」
指につままれた猪口は大きく傾き、濁り酒が小さな滝となって畳に注がれている。手元と畳を交互に見て、矢凪は派手な舌打ちすると後ろ頭をがりがりかいた。
「……手ぇ滑った」
「なわけないでしょ、お前お昼からおかしいわよ」
鍋と椀を洗っている最中に三回も鍋を落とし。アオとシロに絵草子を読み聞かせていれば同じ個所を五回ほど読み。夕餉を食いに外に出れば小舟を乗り間違えそうになり、道を間違え、背高提灯にぶつかり。道端の喧嘩に混ざりに行くでもなくぼーっと眺め。銭湯では溺れかけた。
集中力が無いというか、心ここにあらずというか。
しまいにはアオとシロが心配のあまり手を引いて、「矢凪、あぶにゃーからね、おててちゅなごね。あんよあぶにゃいからね」「あ、こっちは小石があるからな、ちゃんと足上げて歩くんだぞ」と三歳児を歩かせるが如き対応をしていた。
「なんでもねえよ、いつも通りだろうが」
言っている傍から、徳利の位置がずれて猪口ではなく膝に酒を注いでいる。
「羽二重楼」
胡坐に頬杖をついて、丞幻はぼそりと呟いた。
途端に、矢凪の手が滑った。がしゃ、と音を立てて徳利と猪口が畳に落ちる。酒の香がふわりと漂った。
「お前、この店の名前聞いてから様子おかしいわよねー。なあに、この店知ってるの? ほらほら思い切ってワシに教えなさいよー。ワシとお前の仲じゃないのよ、ほらほらほれほれそれそれそいやそいや」
立ち上がって肩に手を回して引き寄せ、ほろ酔い気分で上がった気分のままにぐいぐいと頬を擦り寄せる。
普段なら、ここで無言の拳が飛んでくる所だが。
「……」
鬱陶し気に眉を歪めているものの、されるがままに身体を揺らしている。
「本当にどうしたの、矢凪」
丞幻は身体を離して、元の位置に戻った。
落ちた猪口を拾い、酒を注いで手渡す。言いたくないのか、と尋ねると、ゆるりと首が振られた。
ばたばたと、激しい雨音が鼓膜を揺らす。それに耳をかたむけながら待っていると、矢凪は猪口を口に運ばず指先で揺らしながらそっぽを向き、ぼそりと零した。
「…………泡雪」
「泡雪?」
「泡雪がいんだよ、その遊郭」
「うん」
「ほら、あー……俺の事を凍らせようとした奴」
「ああ」
丞幻は頷いた。
「つまり、なあに? 馴染みが巻き込まれてるかもーって、ずーっと心配してたの?」
「や……あー……、う……」
眉をぎゅうっとしかめ、視線をうろうろと彷徨わせながら頭をかく様子は、いかにもその通りですと全身で訴えているようなものだった。
ほんっとーに、分かりやすいわねこいつ。
丞幻から視線を反らし、畳の毛羽立った所を指先でぶちぶち千切りながら、矢凪が口を開いた。
「心配っつうか、あー、なんだ。あいつ花魁だから、禿の世話ぁするんだよ。だから、まあ、あー……」
「うんうん。もしかしたら、お前の馴染みの泡雪花魁が世話してる禿の腹が膨れてるかも、って思ったら花魁の事が心配になって、いてもたってもたまらなくなったのね」
「……」
黙り込む。図星だったようだ。
丞幻は思わず噴き出した。じろ、と睨まれるが構わず、けらけら笑う。
怪異だろうと人間だろうと、気に食わない奴は迷わずぶっ飛ばしに行く男が、ひどくうろたえているのが微笑ましいやら、おかしいやら。
「かんっぜんに首っ丈なのねえ、お前」
「うるせえ」
悪いか、とでも言いたげな顔で、矢凪はがるると唸る。
酒を干して、丞幻は口髭を撫でた。
氷漬けにされかけても尚、恨まず怒らず、事件に巻き込まれていないか心配するあまり、気もそぞろになるとは。
さては相当惚れこんでいたな、こいつ。
「お前にも、ちゃんと戦う事と酒以外に好きなものがあったのねえ。ううっ、お父ちゃんは嬉しいわ」
「いつから俺の父さんになったんだてめぇは」
「まあそんな与太話はこっちに置いといて」
「てめえが言い出したんだろうが」
矢凪のつっこみにもめげず、見えない箱を両手でどけるような仕草をする丞幻。
「お前、そんなに花魁に惚れてたのに、よく逃げれたわねー」
惚れた弱みと言う奴で、うっかりそのまま氷柱にでもなりそうなものだ。
「……」
あらぬ方向を向いたまま、矢凪は指先に摘まんだ猪口の縁をがりがりと噛んだ。
「……そしたら、あいつが捕まっちまうだろうが」
「絶体絶命な状況で、よくまあ相手を慮れたわねえ。偉い偉い」
それほど、矢凪が泡雪花魁に向ける思いが深かったのか。
この戦闘馬鹿が、そこまで惚れ抜いた花魁。しかも好いた相手を一生一緒にいたいからと、氷漬けにしようとする女。……ちょっと興味がある。
ぱん、と丞幻は手を叩いた。
「よし。行ってみる? 羽二重楼」
今から、と丞幻は立ち上がった。困惑したような視線がその動きを追う。
「この雨ん中か?」
「だってお前、気になってしょーがないんでしょ。まだ暮れ六つ半|(十九時)だし、時間としちゃあまあまあよ」
秋の小夜時雨は冷たいので身体は冷えるが、遊郭で熱燗の一つでもつけてもらえば温まるだろう。
「ほら矢凪。雨が弱まってるうちに、さくっと行ってみましょー」
ほらほら、と促して立たせ、笠と蓑を渡す。
「……おう」
シロとアオの部屋を覗いてみれば、狼姿のアオと先日買ったうどん鮫の人形を、ぎゅっと抱き締めたシロがくうくう寝息を立てていた。布団も二枚被っている所をみると、寒かったようだ。
「おい、起こすのか?」
「起こさんわよ。折角寝付いたのに、起こして遊びに連れてくのはかわいそうでしょ」
それに、今から行くのは遊郭。幼子を連れていくような場所じゃない。
「起きる前に帰ってくればいいわ。ほら、行きましょ。早く行かないと、また雨が強くなってくるわよー」
〇 ● 〇
布団の上で上体を起こし、脇息にもたれる。それだけの動作がひどく難儀で、大きく肩で息をつく。
なるべく楽な体勢を保ちながら、泡雪は眼前の見舞い客に微笑んでみせた。
「旦那様、こんな見苦しい恰好で失礼しんす」
「いいんだ、無理を言ったのは私だからね」
その通りだ、この無神経馬鹿面男、と泡雪は微笑の下で毒づいた。
こいつさえ来なければ、ゆっくり寝ていられたのに。
あの後、気づけば泡雪は倒れて動けなくなっていた。ありまも部屋からいなくなっていた。
熱は無い。内腑が痛むわけでもない。ただ、ひどい倦怠感と眩暈だけがある。おかげで満足に立てず、客も取れずに休むしかなかった。
しかし泡雪が床についていると、どこから聞き及んだものか。見舞いの品を持って羽二重楼に登楼してきたのがこの阿呆、書物問屋・東野屋の主人である。
本来なら病床に伏している遊女に会う事は認められないのだが、彼は店の上客だ。しかも「泡雪の薬代にあてておくれ」と楼主に切餅をぽんと渡したらしい。
その為、特別に見舞いが許可されたのである。
正直、切餅を返して断ってほしかった。こちとら静かに寝ていたいのだ。この時ばかりは庄十郎を恨んだ泡雪である。
泡雪の手を壊れ物のように取った旦那が、役者のように小綺麗な顔を悲し気に歪めた。
「花魁、随分と手が冷たいじゃないか」
「あい……旦那様の手は、温かいでありんすね。わっちが雪なら、溶けてしまいそうでありんすえ」
「ふふ、可愛い事を言ってくれるね」
なにが可愛いだ、いいから寝かせてくれ。具合が悪いのに、なんでこちらが気を使わないといけないんだ。
怒りか体調不良でか眩暈がして、視界が揺れる。もう、さっさと帰ってもらおう。
紅を塗っていない唇から、泡雪はか細い息を吐いた。わざと大きく身体を揺らして、旦那の胸にもたれかかる。
「あれ、旦那様……申し訳ありんせん。少し、眩暈が……」
「ああ、ああ、可哀想に。さ、ゆっくり横になりなさい。……さ、どうだい。楽になったかい?」
「あい……」
後はあんたが帰れば完璧だよ。
内心であらん限りの罵詈雑言を並べ立てるが、枕元に座った旦那は腰を上げる気配が無い。上客なのは間違いないが、空気が読めない所が問題だ。
「ねえ、泡雪。こんな場で言うのもなんだが、あの話は考えてくれたかい?」
細いまつ毛を揺らして、泡雪は一つ瞬く。旦那は続ける。
「こうして倒れたのは、花魁の仕事が辛いのじゃないのかい? 当たり前だよ、身体を酷使するのだからね。……ね、泡雪。私の所においでな。絶対に苦労はさせないし、こうして倒れる事もないよ」
――ああ、付け込みたいわけか。
成程な、と泡雪は納得した。
泡雪を身請けしたいと、この旦那は常日頃から口にしている。それに対して彼女はいつもつれない返事をしていた。
病で心身ともに弱っている今なら、色よい返事とまではいかなくても、前向きな返事を貰えるかも、と。
そう思ったわけか、本当に嫌な男。
「――旦那様、こんなわっちにはもったいない心遣い、ありがとうございんす。泡雪は幸せ者でありんすえ」
とはいえ、それをそのまま顔に出しては花魁の沽券に関わる。不快感と嫌悪感を微笑で塗り隠し、旦那を見上げる。
目元をほっとしたように緩めて笑ってみせた所で、ほとほと、と襖が叩かれた。
「旦那様、そろそろ花魁の身体も辛うございます故……」
控えめな喜助の声が響く。
一瞬、不快そうに旦那の眉がひそめられた。襖に鋭い視線が向く。だがそれは誠実そうな笑みに飲み込まれ、すぐに消えた。
「ああ、そうだね。つい、甘えて長居をしてしまったね。泡雪、ゆるりと休むんだよ」
「あい。旦那、お見送りを……」
布団から身を起こそうとすると、旦那はいじらしいものを見るような目をした。やんわりと泡雪の肩に手を置いて、布団に寝かせる。
「いいよ、寝ていなさい。見送りの事など気にしないで」
そう言って、旦那は立ちあがり部屋を出て行った。
襖が閉じられ、足音が去っていく。泡雪はよろりと身を起こすと、四つん這いで襖へ近づいた。指一本分の隙間を開け、控えている喜助に声をかける。
「ね、あのおたんちん、行ったかえ?」
少しの間を置いて、声が返ってきた。
「はい、花魁。今、楼主自らお見送りをいたしました」
「よし」
泡雪は四つん這いのまま、のそのそと奥の自室の方へ戻った。
いつもなら十歩で行ける距離が、峠のように険しくて遠く感じる。それでも、絢爛な部屋より静かな自室の方がゆっくり休めるし落ち着く。
その一念で何とか自室へ戻り、敷いていた布団に倒れ込む。
「あー!! 腹立つぅ――――!!」
そして枕を引っ掴むと、壁に向かってぶん投げた。
「なにさなにさ! 本当にあたしを想ってるんだったら、顔を見てすぐに帰ればいいだろうに!! ふんっ、誰があんたみたいな野暮天の表六玉の元に行くかい!!」
溜め込んだ分、次から次へと先の旦那への罵声がまろび出てくる。
込み上げてくる倦怠感を気力で押さえつけて、泡雪は旦那が土産に置いていった着物を握りしめた。
「あんたが欲しいのは、あたしじゃなくて『美しい元花魁の妾』だろうに!! 他の旦那に自慢されて、花魁が手元に欲しくなっただけだろう!」
美しい遊女を囲い物にする事が、大店の主人の間で流行っているのだと小耳に挟んだ。
泡雪は柳眉を吊り上げる。
「ふざっけんじゃないよ、あたしはそこまで安かないよ!!」
泡雪の身体から、ぶわりと冷気が噴き出た。握りしめられた菫模様の着物が一瞬で氷柱に包まれ、次の瞬間無数の氷粒になって砕け散る。
「あ」
途端、激しい眩暈に襲われて泡雪は布団に突っ伏した。
ぐらぐら、ゆらゆら視界が揺れる。喉の奥から込み上げてきた吐き気を、歯を食い縛ってやり過ごしてゆっくり仰向けになる。
目元を腕で覆って、嘆息した。
「……つかれたぁ」
もう来客は無いだろう。あれは上客であるし、いわば袖の下で見舞いを実現させたのだ。
今日は寝よう。
腕の下、瞼を閉じれば疲れた身体は休息を欲し、とろとろと意識が闇に溶けていく。
――会いたいなあ。
闇の中に薄茶色が浮かんだ。なんだか無性に矢凪の顔が見たかった。乾いた唇からため息が漏れる。
ほとほと、とまた襖が叩かれた。
切餅=銀板百枚(二十五両)を紙で四角く包んだもの。




