三
「ずい……っぶんとお見限りでござんしたねえ、旦那様」
「……」
季節の花の形に加工された玻璃竹行灯が、いくつも天井から吊るされている。
床の間の掛け軸は流星の写し染めで、星が瞬きながらすーっと滑っていく。部屋の一角には砂利が敷き詰められ小さい松が植わり、金色の尾をひらめかせた金魚が水盆の中で二匹泳いでいた。
開けられた窓から入る夜風が、部屋の中央に仁王立ちする花魁の簪を揺らして、鈴のような音を立てた。
「誤解しちゃあいけんせんよ、旦那様。わっちは、別に怒っちゃいんせん。ええ、いんせんとも。旦那様が、ふらりふらりとやってくるのはいつものことでありんすえ。それに目くじら立てるほど、わっちの気は短くありんせん」
だったらなぜ正座をさせているのだ、とその場にいた誰もが思った。
しかしそれを口に出すと、花魁の怒りを更に買いそうで誰も口を開けない。まだ幼い禿達も、芸を見せていた男芸者も、襖に張り付くようにして震えていた。
夏だと言うのに、身体ががたがた震えるほどの冷たい怒気が部屋中に渦巻いている。
その中心は、初春に花魁になったばかりの泡雪。両腕を胸の前で組んで仁王立ち。氷色の瞳が怒りを孕んで燃えている。
「旦那様は、弥生の頃にわっちに初めて手紙を出してくれんした。覚えていんすか? 花魁になった祝いの品を持って会いにいくと。わっちはそれを、楽しみにしていたんでありんす。だのに半年近くのお見限り。手紙を出しても返事は来ず。もしやわっちに飽きたのか、余所に好いた女ができたのかと袖を噛む日々。ようやく店に顔を出したと思えば、まさかの空手でござんすか」
どこぞから聞こえてくる宴会の音が、別の世界の事であるように遠い。こちらは全くの無音である。
「……」
花魁の真ん前に正座させられているのは、矢凪であった。
睨み下ろしてくる泡雪から顔を反らし、視線を畳に向けている。頬には冷や汗が一筋。
「旦那様、なにか言い訳はありんすか」
静かな、それはそれは静かな一言が畳に落ちる。
「……悪い」
「それだけでありんすか」
「…………い」
「あい?」
顔を反らしたまま、矢凪はぼそぼそと呟いた。
「良い、祝いの品が見つからなかったんだよ」
簪も着物もたんと持ってるだろうから、鏡台みてえなのが良いかと思ったが、てめえに似合いそうなもんがそもそも売ってねえし。作らせてみたらまた違う気がするし、じゃあ何がいいんだと考えたら分かんなくなるしで……。
恥ずかしくなったのか、段々と語尾が消えていく。
「……手紙の一つも出さねえのは、さすがに悪かった」
最後にそう結んで、矢凪は口を噤んだ。目は気まずげに逸らされたままだ。
「……」
腕組みをしていた泡雪は、腹の底まで息を吸い込む。ゆう……っくりと息を吐き出し、そして。
厳かに宣言した。
「――すき」
襖際で震えていた禿達と男芸者がずっこけた。
「ああ、もうっ! 旦那様、旦那様、そんな事を心配していたんでありんすか? 大丈夫でありんすよう、わっちは旦那様から頂いたものなら、なんだって嬉しいんでありんすから! まな板だろうと鼻紙だろうと文句は言いんせん! わっちに送る品が見つけられなくて、顔を合わせられなかったんでありんすか!? ああーもう、旦那様は可愛いでありんすねえ!!」
なんでこう、一々泡雪に突き刺さるんだろう、この人。
先ほどまでの真冬の空気はどこへやら。泡雪は、花魁としての面を投げ捨て矢凪に抱き着いた。猫の子のように頬を胸元に擦り寄せると、背中に手が回って軽く叩かれる。
「本当に悪かった。もっと早くに来りゃあ良かった」
「もういいんでありんすよう。わっちも旦那様の都合があるのに、自分勝手な事ばかり申しんした。申し訳ありんせん」
矢凪から身体を離して、にひり、と泡雪は悪戯っぽく笑った。
「でも、わっちを悲しませた罰は受けてもらうでありんすよ」
お前達、と手を叩くと、弾かれたように禿達が顔を上げた。慌てて部屋を出て行き、えっちらおっちらと衝立を運んでくる。両面とも無地の、真白い衝立だ。それと筆と岩絵具。
それを矢凪の前に置くと、禿達は一仕事終えた顔をした。その手に花代を握らせてやりながら、矢凪が泡雪へと首を巡らす。
「で、何しろってんだ、俺に。こん中から雪でも出してみせろってか」
「いーえ。旦那様、これに絵を付けてくんなまし。旦那様がわっちの為だけに描いてくれた、陽之戸でただ一つの衝立が欲しいんでありんす。それが祝いの品と言う事で手を打ちたいと思いんす」
「……俺ぁ文字はともかく、絵なんざ描いたこともねえんだが」
「だから面白いんでありんす」
「……」
文句言うなよ、と矢凪は諦めた顔で筆を取った。ぶつぶつ呟きながら、衝立に筆を走らせていく。
「……ん」
「わあ、野原でありんすね」
半時ほど衝立と格闘した矢凪が描き上げたのは、野原だった。
緑の岩絵具で衝立の下半分を塗り潰し、その上に薄紫色の花がちょん、ちょん、ちょん、と散っている。素朴と言えば聞こえはいいが、上手かと言われると首を捻ってしまう。有体に言ってしまえば子どもが描いたような絵だ。
それでも泡雪は、満面の笑みで衝立を見つめた。
上手だろうが下手だろうが、彼が自分の為だけに描いてくれた、という所に特別感があった。あと真剣に悩みながら描く顔が可愛かったので、全て許した。
緑の上に散った紫の花に、泡雪は顔を近づける。
「これ、もしかして菫でありんすか?」
「ん、おう」
「……紫色の菫なんて、久しぶりに見んした。また、見たいでありんすねえ」
ほう、と息を吐く。
この辺に咲く菫は、空の色を映したような花びらばかり。紫色の菫はほとんど生えていない。
「ねえ、だんな様。どうしてすみれが、むらさき色なんでありんす?」
衝立をしげしげと眺めていた禿が、矢凪に向かって無邪気な声を上げた。
「俺の故郷じゃあ、菫は紫だったからな。どうにも水色は見慣れねえんだよ」
「あれ、もしや旦那様の故郷は北の方でありんすか?」
「ん、曽葱見国だ」
泡雪は氷色の目を大きく見開いた。
「わっちの故郷は、その隣の白岑国でありんす。凄い偶然でありんすねえ」
驚いたように矢凪も目をまん丸にする。
衝立を眺めながら、ぽつぽつと故郷の思い出を口にする。空気を読んだ男芸人と禿達が、そっと座敷を退室した。
曽葱見国も白岑国も雪国で、話は自然と雪に関する事になる。貴墨では雪が積もっても、せいぜい脛が埋まるくらい。屋根近くまで雪が降る大変さをこの辺の人は知らないから、冬や雪の話をしても話が微妙に噛みあわなくて正直つまらなかったのだ。
雪国あるあるで、その日は大層盛り上がった。
わりと矢凪は自分の事を好いているのでは、と思ったのはその時だ。
そうでなければ、何を贈るか悩みに悩んで半年過ぎる、なんてことは無い筈だ。勿論ただ単に、足が遠のいた言い訳の可能性もある。
だが、矢凪はそういう嘘を吐く質ではない。数年も付き合っていれば、性格もある程度分かってくる。そんな適当な言い訳でお茶を濁す男ではない。
自分は勿論、矢凪の事は好きだ。大好きで、大好きで、大好きで、大好きで、愛しくて、愛しくて、愛しくて愛しくて愛しくて愛しくて仕方が無い。
逢瀬を重ねる度に、肌を合わせる度に、泡雪の心には愛しさが降り積もっていく。普通の男女の関係であれば、すぐにでもそれを言葉に乗せて伝え、夫婦になれたろう。
しかし現実、泡雪は遊女で、矢凪は一介の客。一夜の夫婦にはなれても、永劫共にいることはできない。
あふれる気持ちに蓋をして、いつも通りに笑みを刷く。
――泡雪の感情が爆発したのは、葉月の終わりであった。
「ん」
「え?」
一月ぶりに登楼してきた矢凪が、酒を飲むのもそこそこに泡雪に手を突き出す。
差し出されたのは、菫だった。
この辺で咲いている、水色の菫ではない。中心から花びらの先端に向かって淡く色づく、紫。
北の方にしか咲かない、紫菫。泡雪の故郷でしか見ない、菫。
「え、旦那様、これ」
「前に、紫色の菫が見たいっつったろうが。珍しくその辺に咲いてたから、取ってきた。やる」
「言いんしたけど……でも」
一年ほど前、衝立に絵を描いてもらった時。あの時にぽろりと零した一言だった。当の泡雪自身も忘れていたのに、覚えていたのか。
菫と、矢凪に視線を交互に向ける。
登楼してこの方、彼の仏頂面以外の表情を見た事が無い。その顔で菫を差し出しているのがおかしくて、泡雪は必死に笑みを噛み殺した。
雑に引き千切ってきた為か、薄紫の花は少しくたびれていた。
菫一輪。しかも野に咲いていただけのもの。遊郭一の地位にある彼女への貢物にしては、笑える位お粗末だ。
しかし泡雪の目には、どんな美しい着物より、細工を凝らした煙管より、この菫がひどく綺麗に映った。
「ありがとうござんす、旦那様」
「別に」
飾り物ではない、心底からの笑みが口元に浮かぶ。
矢凪はぶっきらぼうに呟いて盃を膳から取り上げた。そっぽを向いて、かり、と盃の縁に歯を立てる。……それは、泡雪が数年かけて見つけた、彼が照れている時の仕草だった。
「……すき」
それを見た泡雪の中で、何かが弾けた。堰き止め続けたものが轟々と、音立ててあふれだす。
――やっぱり、あたしはこの人が大好き。誰にも渡したくない。誰にも見せたくない。この人は、あたしだけの、愛しい人だ。
ぱき、と手の中の菫が音を立てた。
「好き。旦那様、大好き」
ぱき、ぱき。音が大きくなる。空気にゆっくりと冷気が宿り、畳を這う。
矢凪が不審げに、ゆらりと立ち上がった泡雪を見上げた。
「……泡雪?」
「――ねえ旦那様、わっちはね、一目見た時からずっとずっと、ずぅー……っと、旦那様を好いているんでありんす」
泡雪はゆっくりと、包んだ両手を開いて見せた。
先ほど、矢凪から渡された紫色の菫。それを閉じ込める、小さな氷柱。
泡雪の手に生まれた氷柱を視界に捉えて、矢凪が大きく目を見開いた。は、と吐かれた息が白い。
「てめえ、それ……」
「前に、言いんしたよね、旦那様。わっちの故郷は、乞食ですら憐れんで銭を恵んでくれるような、ひどく貧しい村だった、って」
一歩、前に。矢凪は逃げない。呆然として見上げるばかりだ。
「わっちは毎日、お腹を空かせていんした。くうくう、くうくう、腹を鳴らしていたらね、旦那様。――菫が一輪、咲いていたんでありんす。氷で作ったような、透明で、綺麗な菫がね」
一歩、前に。大事な菫を右手に抱えて、泡雪は左手を伸ばした。矢凪の肩に触れて、軽く力をかける。
「お腹を空かせていたわっちは、それを食べてしまいんした。冷たくて、喉を刺すように痛くて、飲み込んだらお腹の中も冷たく痛くなって、わけが分からなくなって……」
力を込めて押し倒せば、さしたる抵抗もせず矢凪は畳に仰向けに倒れた。その上に覆いかぶさるようにして馬乗りになり、泡雪は微笑む。
「気づいたら、こんな事ができるようになっていんした。他のみんなには内緒にしておいてくんなまし、旦那様」
泡雪の肢体から、冴え冴えとした冷気があふれて矢凪に絡みつく。ぱきり、と硬い音を立てて足首から下が氷に包まれた。
ぱき、ぱき、と音を立てて矢凪の身体を氷が這い上っていく。少しずつ、氷に包まれていく。
「貴墨で一等……ううん、陽之戸国で一等、わっちは旦那様を好いているんでありんす。……だから、あんたを凍らせてあげるね。ずーっとずーっと、一生一緒にいようねっ」
氷に閉じ込めてしまえば、どこにも行かない。心変わりがあるのではと、気を揉む事も無い。自分といない間、なにをしているのだろうと思いを馳せる事もない。
ずっとずっと、隣にいてくれる。ずっとずっと、泡雪と共に過ごしてくれる。
目を見開いた矢凪が、唇を動かす。そのまろい頬を、泡雪は撫でた。冷気に晒され、氷のように冷たい。
この柔らかい肌とも、あと少しでお別れだ。
「あわ、ゆき」
寒さで色を失った唇から、微かな声が漏れる。名を呼ばれて、泡雪はことりと首をかたむけた。
「なんだい、旦那様?」
「――――」
はく、と矢凪の唇が動いて、凍り付いた喉から言の葉が滑り出た。
かそけき声が、耳に届く。
そのたった一言が耳に届いて、それを咀嚼して意味を理解して。
泡雪の指が、ぴくりと跳ねた。部屋中に渦を巻いていた冷気が一瞬、弱まる。
刹那、視界が真っ黒に染まった。
〇 ● 〇
がくっ、と頬杖から顎が滑り落ちて、泡雪は目を覚ました。
窓の外から夕陽が差し込んで、卓上の氷柱に反射してきらりきらりと光っている。
「ありゃ、かなり寝ちゃったねえ」
軽く欠伸をして、滲んだ涙を拭う。随分と、長い夢を見ていた。
あの時以降、矢凪は羽二重楼に足を運んでいない。目が覚めれば泡雪は布団に丁寧に寝かされていた。その足で奉行所に駆け込んでもいないようで、華奢なこの身に縄がかかる事も無かった。
今、彼はどうしているのだろう。ほとぼりが冷めたらまた、何でもない顔でひょっこり登楼してくるのか、それとも。
「ねえ、旦那様。あれはどういう意味だったんだい?」
――さびしい。
夢の中、矢凪が最後に呟いた言葉が泡のように弾けて消える。
命乞いをするでなく、罵声を浴びせるでなく、たった一言。
寂しい、とだけ。
「ずっと一緒にいれるのに、どうして寂しい、なんて言ったんだい、旦那様?」
思案に沈んでいた泡雪は、ふと目の前に影が差した事に気が付いた。
顔を上げる。
「あれ、ありま。……どうしたんだい?」
素の口調のままで、泡雪は問いかけた。
白い単衣の上から膨れた腹を撫で、ありまはぽそりと口を開いた。
「――……が、必要だと、言うのです」
「え?」
爛、と幼子の瞳が怪しく光った。
「滋養が、欲しいと言うのです。この子が、神と成るこの子が、滋養が欲しいと言うのです」
ぽちりとした口が開かれる。唾液に濡れた歯が、夕日を反射してぬらりと光った。




