二
〇 ● 〇
旦那と初めて会ったのは四年前。
当時泡雪は十八歳。その器量と人気ぶりから末は花魁かと目されてはいたが、まだ一介の遊女でしかなかった。
「泡雪、泡雪。ネ、ちょいと」
「あい?」
二人目の旦那の相手を終えて諸々の処理を厠で済ませた後、泡雪は楼主に呼び止められて振り返った。
「どうしんした、楼主様」
しゃらりと音立てた簪を落ちないよう手で押さえ、首をかたむける。庄十郎は辺りをはばかるように周囲を見渡し、口元に手を当てる。泡雪はそこに耳を近づけた。
「ちょいと今から、観月の間に行っちゃくれないかい?」
二階にある観月の間は、上客が来た時に開ける広間だ。
「そりゃあ、かまいんせんが。どうしんした、どこぞの御大尽さんでもおいでになりんしたか?」
「うん……まあ、御大尽という訳でもないのだけど、ちょいと紹介状を持っていてねえ」
「紹介状。どちらさんの?」
ますます庄十郎は、声を潜めた。
吐息に溶けるような声が告げた名に、流石の泡雪も驚いて目を瞠った。
「楼主様、それは本当でありんすか? 大将の紹介状? 偽物なんかじゃあなく?」
「まあ、一応本物ではあったよ。虎の大将の印が入っていたからねえ……」
肉付きの良い顎を揺らして、庄十郎は頷いた。
羽二重楼は当時、馬走に店を構えていた。
馬走は貴墨で唯一、賭場を開く事を許された場所だ。勝負に勝った男連中が、景気良くあぶく銭をばらまいてくれるので、馬走にも芸者を抱えた料亭や、遊郭は多く存在している。羽二重楼もその一軒であった。
賭場に遊郭と揃えば、勝った負けた、惚れた腫れたの世界である。小さな喧嘩は日常茶飯事、場合によっては刃傷沙汰。時にはそれを収める筈の同心連中までが勝負と一夜の恋に狂う。
そんな場所で頼りになるのが、“虎の大将”と呼び慕われる男であった。
庄十郎の口から出たのは、まさしくその大将の名である。
ただそれにしては、庄十郎の反応が気にかかった。
大将の紹介状を持って登楼したなら、上客も上客だ。諸手を挙げて歓迎すべき所なのに、どうにもその態度が煮え切らない。
「楼主様、どうしたんでありんす?」
「うん……まあ、紹介状はねえ、本物だったんだよ。ただ、うん……持ってきたお人が、ねえ……」
「ああ……」
そういうことか。
「紹介状を貰ったようにはとても見えない? もしかしたらどこぞの誰かから、紹介状を奪った不埒者かもしれないって事でありんすね」
「こ、こらっ。そんな事を大声で言うものじゃないよっ」
泡雪を慌ててたしなめ、庄十郎はひそひそと囁いた。
今、若いのを大将の元に走らせて、本当に紹介状を出したのか確かめている所だから。それまで泡雪、ちょいと場を繋いでおいてもらえないかい。
「真砂花魁には今ほら、門崎屋の若旦那がいてね、席を外せないんだよ。それでお前に行ってほしくてねえ」
門崎屋は墨渡でも大手の呉服屋で、登楼の度に大枚をはたいてくれる。その上客から花魁を引き剥がすわけにはいかないのだろう。
「構わないでありんすよ」
「ほ、本当かい。良かった……じゃあ、早い所向かっておくれ」
「あい」
あからさまにほっとした様子の庄十郎に会釈して、泡雪は身を翻した。
「若いのを襖の前に置いといてるから、何かあったら大声を出すんだよ」
背中にかかった楼主の言葉がありがたい。もう一度それに会釈をして、観月の間へ向かう。着物の裾を両手で持ち上げ、階段を上がりながらふと首をかしげた。
「あれ。じゃあそのお客は、わっちらを指名しなかったんでありんす?」
普通遊郭で遊ぶ際は、まず張見世で遊女を選ぶ。店ごとに多少の差異はあれど、まず敵娼を選ばなければいけないのは、どこも同じだ。
わざわざ楼主が自分に声をかけ、座敷に行けと言ったということは、誰も指名せず上がり込んだのか。果たしてそんな事ができるのだろうか。
「紹介状をちらつかせでもしんしたかねえ……」
ありえない話ではない。
馬走で店を構える者は、大なり小なり大将の世話になっている。そんな彼の紹介状ともなれば、将軍家の家紋並の効力がある。大抵は従ってしまうだろう。
二階に上がり、真っすぐ奥を目指す。左右の座敷からは宴に興じる楽しげな声が漏れていた。
満月が描かれた襖に辿り着けば、楼主が言った通り若い喜助が二人、物陰に隠れるようにして待っていた。
二人の目くばせに頷いて、泡雪は廊下に端座する。
「失礼いたします。泡雪でござんす」
声をかけ、襖を開ける。
ふわりと酒の香りが鼻に届いた。
「お待たせをして、申し訳」
伏せた顔を上げ、ありんせん、と泡雪は続けようとした。できなかった。
「ん」
喉奥で唸るように、彼の客が答えた。
開け放った窓べりに左肘を乗せ、その手で盃を口に運んでいる。
夜風が短い薄茶色の癖毛を叩いて、あちこちに散らしている。すがめられた瞳は満月を閉じ込めたような金色で、毛先が目に入りそうになっては指先が鬱陶しげにそれを払っていた。表情は険しいが顔立ちは意外に幼い。頬がやや丸みを帯びて、柔らかそうだ。
着ているものは粗末な筒袖の着物と袴で、あちこちにつぎが当ててある。確かに大将に紹介状を貰えるような者の身なりではない。楼主が怪しむのも道理だ。
だが酒を飲む態度は堂々としていて、貧乏人がと嘲笑えないような威圧感が全身を覆っていた。
じろ、と視線が滑って、こちらを見た。満月の瞳に、泡雪が映る。
「別に、女はいらねえっつったんだが。俺ぁ酒さえ飲めりゃいいんだよ」
眉間に皺を刻んだ男が、手酌で盃に酒を注ぐ。
ならなぜ遊郭に来た。
ついそう言いたくなったが、泡雪の口から出たのは、
「え、すき」
という三音だった。
隠れていた喜助二人が思わず視線を向け、客が虚を突かれたように瞬きをする。
どこかの座敷でいくつもの笑声が弾けて、三味の音が一層激しくかき鳴らされる。
それを背景に、泡雪はもう一度呟いた。
「すき。むり。かっこいい」
びょおう、と夜風が室内に吹き込んで互いの髪を揺らす。
それが泡雪とその客――矢凪との出会いだった。
――結局、紹介状は本物で、確かに彼に書いたと大将が頷いた事で泡を食った楼主が、米つき飛蝗のようにぺこぺこと頭を下げた。
「別に。酒さえ飲めりゃあいい」
と、当の本人は飄々としていたが。
「いえ、本当に申し訳ありません。とんだ御無礼を……」
必死に畳に額を擦りつける楼主の後ろで、泡雪はぼーっと矢凪を眺めながら「すき」「むり」「かっこいい」という言葉を延々垂れ流すだけの生き物と化していた。
矢凪が胡乱気な視線を向ける。
「……ところで、よぉ。てめえんとこの遊女はなんなんだあ?」
「もっ、申し訳ありません! いつもは、いつもはこんなんじゃあないんです!」
「すき。むり。かっこいい」
「泡雪、これっ、泡雪! 旦那様にご挨拶をなさい!」
「すき」
「泡雪いぃ!?」
……あの時は、とんだ無様を晒したものだ。思い出す度に頬が熱くなる。
普通なら機嫌を損ねて店を変えてもおかしくないのに、矢凪はその後もちょくちょく羽二重楼に飲みに来た。
「ねえ旦那様」
「んー」
「たまにはわっちにかまってくんなまし。いつなるときもわっちではなく、盃と逢瀬を交わされちゃあ、寂しいでありんすよ」
胡坐にしなだれかかるようにして、泡雪はつれない旦那に拗ねてみせた。
実際、寂しい。
最初に「酒さえ飲めればいい」と言っただけあって、矢凪は登楼する度に浴びるように酒を飲んでいく。泡雪と肌を合わせる事もあったが、それよりもただ酒を飲んで寝て帰る方が多いくらいだ。
何のために自分がいると思っているのだ、この酒大好き人間。せめて酌の一つもさせろ。
むぅ、と子どものように頬を膨らませて、指につままれている憎い盃をつつく。弾き飛ばしてやろうか、と強めにつついていると、手の届かない所に遠ざけられた。
おのれ恋敵。
「しょうがねえだろ、ここの酒が美味ぇんだから」
にべもない答えに、泡雪は身を起こした。着物を整えて立ち上がる。
「ここは居酒屋じゃありんせんよう、旦那様。そうもつれない態度を取るなら、わっちにだって考えがありんす」
「あ? 別の男んとこにでも行くか?」
「いーえ、わっちにかまってくりんせんなら、これから肴はずっと饅頭と羊羹にしんす。旦那様が魚が食べたい肉が食べたいと言おうが、饅頭と羊羹を出し続けるでありんす」
この旦那が、甘い物が好きではないのは承知の上だ。
「む……」
矢凪が渋面を作った。
膳に盃を置いて、ちょいちょいと泡雪を指で招く。
今更、機嫌を取ろうとしても無駄だ。こっちは怒っているのだ。
ぷいと顔を背け続けていると、壁際で立ち上がる気配がした。
こちらに近づいてきた矢凪が、じっと泡雪を見下ろす。いかにも怒っています、と言いたげに腕を組んでそれを見上げれば、軽く頭を下げられた。
「……悪かった」
「……なにも、ずっとわっちにかまえと、そう言っとるんじゃありんせん。でもせめて、酌だけはさせてくんなまし」
案外素直に謝られ、泡雪は内心驚いた。驚愕を表に出さないようにしながら折衷案を提示すると、こくりと首が縦に振られる。
思わず心の声が漏れた。
「すき。すなお。かわいい」
「てめえの時々出るそれぁ一体なんなんだ」
それからは、酒をしこたま飲むのは変わらないが、泡雪が酌をするのが通例になった。
時に他の馴染み客と被る事があり、席を外しても矢凪は文句一つ言わずに酒を飲んで待っていた。そうして戻って来た泡雪に、布団を叩いてみせる。
早く自分とも寝ろ、と言いたいのかと思ったが、泡雪一人だけを布団に寝かせて自分は壁にもたれ、酒を飲むばかり。
「ねえ旦那様、わっちの帯をほどかないんでありんすか?」
「あ? 疲れきった女ぁ抱く気は無えよ。俺ぁ酒飲んでるから、てめえは寝ろ」
ふん、と鼻を鳴らして盃を口に運ぶ。
遊女は外見こそ優美であるが、一晩で何人もの客の相手をしなければならない体力勝負の仕事だ。だから、こちらを気遣ってくれる事は純粋に嬉しかった。
ただ、矢凪が自分の事をどう思っているのか、泡雪には分からない。どの遊女にも同じ事をするのか、それとも泡雪にだけ特別なのか。
言葉少なな男だし、あまり自分の事も語りたがらない。だから泡雪も、四年近く付き合いがあれど彼の事は詳しく知らなかった。
好物は酒と煎餅。特に煎餅は硬いものが好きで、食べる時はちょっとだけ目が輝く。嫌いなものはミツユビトビグモ。一度遊郭に幼虫が出た時に凄い騒ぎになった。それから寝ている時は意外と無防備で、頬をつついたり引っ張ったりしても起きない。口は悪いがわりと優しいし、遊女達や裏方の男連中に渡す花代も惜しまない。最初こそ嫌な顔をしていた楼主も、今では笑顔で矢凪を迎えている。
知っているのはその程度。
所詮、遊女と客は一夜限りの夫婦ごっこ。言ってしまえばお遊びの関係。入れ込むなどもってのほか。なのだが。
「むーりー……すーきー……」
朝方、帰って行く客を見送ってからようやく、遊女達は眠りにつく。そこから起き出して髪を結うのもそこそこに、朝餉を食べながら泡雪は箸を噛んだ。
「すき……むり……かわいい……だってさあ、お煎餅あげたら目がきらきらするんだよ……今日だってさ、今日だってさ、わざわざ取り寄せた東雲屋のお高い醤油煎餅食べさせたらさ、目がまん丸になってさ……」
廓言葉も忘れ、ぶつぶつと呟く。
「今なにしてんのかなあ、家族いるのかなあ、嫁いるのかなあ、子どもいるのかなあ……あ――――、いっそあたしの傍から離れないように縛り付けてやろうかあの旦那……」
花魁でもない限り、食事は一階の大広間で取る。起き出してきた他の遊女達が、渡された己の膳を畳に置いて首をかしげた。
視線の先には当然、広間の隅でどす黒い気配をまといつつ、朝餉をかっ込む泡雪がいる。
「荒れてるねえ、泡雪。どうしたんだえ?」
「泡雪は最近、新しい旦那にお熱なんでありんすよ。ほらあの、例の大将の紹介状の」
「ああー、あの。わっちもちらりと見たけれど、随分な仏頂面だったねえ。ほら、鴨太一座のあの猿面! あんな感じでさあ」
「あんな仏頂面の、どこがいいんでありんしょうねえ。――ねえ泡雪」
矢凪が次に訪ねて来た時の捕獲方法を頭の中で計算していた泡雪は、顔を上げた。
「なんでありんす」
「あの旦那の、どこがいいんでありんすかー?」
「全部」
食い気味に答えた泡雪に、二人の遊女が顔を見合わせた。
「重傷でありんす……」
「本当に。これ以上突っ込むと、馬に蹴られてあの世行きだぁね」




