一
みこじゅたい
種を撒こう、生まれる為に。
肉の殻で微睡もう、成る為に。
〇 ● 〇
日の当たらない板張りの廊下は、冷気がわだかまっている。素足で歩けば足裏から熱が逃げて行き、指先が痛いくらいに冷え切っていく。
夏なら涼しくて気持ちがいいが、長月ももう終わりに近い。基本的に素足が推奨される遊女達の間では、楼主の住む間へ続く廊下を歩くことは拷問にも等しいと、敬遠されていた。
「わっちは別に、そこまで冷たいとは思んせんけどねえ」
ついついと足を動かしながら、羽二重楼の氷玉と謳われる花魁――泡雪はその細い首をことりとかたむけた。
むしろ、廊下に足裏を付ける度にじわりと熱が減っていく感覚が気持ち良いくらいだ。
童心に帰ったような心持ちで、わざとぺたり、ぺたり、と足音を立てる。静まり返った廊下に自分の足音が反響するのが面白くて、薄い唇からくすくすと笑声が漏れた。
限りなく白に近い薄水色の長髪が、動きに合わせてゆらゆら揺れる。客の前では丁寧に結い上げ簪と櫛で飾られる髪も、今は首の後ろで一つにくくって背中に流しているだけだ。
着物も、自分の持っているもので一番地味で動きやすいものを着ている。いつも肩が凝るほど何枚も着物を重ね着しているのだから、休みの日くらい気楽な恰好をしていたいと思う泡雪である。
今日は月に一度、遊郭を閉めて遊女達の髪を洗う髪洗いの日だ。身の丈近くある長髪を洗って乾かすには時間がかかるため、一日かけて行う必要がある。
髪も洗えるし、一日ゆっくりできるしで、泡雪達は毎月この日が楽しみで仕方ない。遊郭内には朝から浮ついた空気が流れていた。
「それにしても、用事ってなんでありんしょう。わっちは別に、怒られることはしていないんでありんすけど」
泡雪は羽二重楼の中で、たった一人の花魁。三十人ほどいる遊女達の中では、最も位が上になる。髪洗いも常に一番にさせてもらえるのだが、今日に限っては用事があるから来てくれと楼主に呼ばれた為に、順番を下の者に譲って廊下を歩いているのであった。
細い腕を組んで首をかしげながらも、泡雪は楼主の間に辿り着いた。
廊下前に端座し、襖をほとほと叩く。すぐに応えがあったので、泡雪は襖を開けた。
「楼主様、なんのご用事でありんすか?」
下げた頭を上げて、泡雪はぱちりと目を瞬かせた。そこには楼主以外に、もう一人いた。
「泡雪、まずはそこにお座り」
「あい」
静かに端座している娘をちらちら見つつ、泡雪は言われた通りに楼主の目の前に座る。
初老の楼主は、皺の多い顔を歪めてため息を吐いた。
牢主とも呼ばれる横暴な主の多い中、羽二重楼の楼主・庄十郎は良くも悪くも普通の男である。遊女へ気まぐれに折檻する事も、無意味に食事を抜く事も無い。病気になればきちんと医者を呼んでくれる。その分の金は遊女が持つ事になるものの、人間扱いしてくれるだけでも大分まともな楼主と言えた。
その庄十郎が困っているような、怖がっているような、奇妙な表情を浮かべている。
原因は明らかで、泡雪は隣に座っている娘に視線を向けた。
「ありま、その腹はどうしたんだえ?」
「ややこがいるんでありんすよ、泡雪姐さん」
ありま――泡雪が世話している禿――は、慈愛に満ちた笑みを浮かべて己の膨れた腹を撫でる。
手足は棒のように細っこく、胸だってまだ大きくなっていない、女童。その腹が、満月でも飲んだように大きく、丸く膨らんでいた。
楼主に顔を戻すと、庄十郎は困った表情を崩さず首を横に振った。
「今朝からこの調子でねえ。泡雪、お前、何か知らないかい?」
「さあ……一昨日までは、この子の腹はまな板みたいにぺたんこでありんしたよ」
泡雪は首をかたむけた。
禿は基本、一階の大部屋で寝起きしている。だがありまは花魁付きである為、花魁部屋の次の間で過ごしていた。
「この子、昨日は朝から腹を下して療養部屋で寝ていんしたので。わっちは昨日一日、この子を見ていないんでありんす」
「そうかい……」
泡雪はありまを見つめた。膨れた腹の中にいるものが愛おしくてたまらない、と言いたげに小さな手で腹を擦っている。
「その……ねえ。この子に、こう……客が手を触れたり、ということは……」
庄十郎が、奥歯に物が挟まったような言い方をした。言わんとする事を悟って、泡雪は「それはありんせんよ」と首をかたむける。
「ありまは、まだ八歳でありんすよ。例えわっちの目を盗んで悪戯する客がいたとしても、血の道すら来ておらぬ幼子が、ややこを孕めるとは思いんせん」
それに、と続ける。
「子が産まれるには十月十日かかろうに、この子の腹は一夜で膨れておりんすよ。一夜で子を孕ませるなぞ、普通の男にできんすかい」
庄十郎自身、そう思っていたのだろう。それ以上追及してくる事もなく、あっさり引き下がって首を捻った。
「そうだねえ……じゃあ、やはり何かの病かねえ……」
「そうでありんすねえ。多分、そうかと思いんすよ」
腹に棲みつく虫の種類によっては、妊婦のように腹が膨らむと聞いたことがある。もしかしたらそれかもしれないし、何か泡雪の知らない別の病かもしれない。
あるいは、怪異の仕業か。
「姐さん」
「ん?」
ありまが、不意に声をかけてきた。
楼主から視線を外してそちらを見れば、ありまが膨れた腹に手のひらを当てている。唇に浮いた慈愛の微笑はまるで母親のように柔らかいが、まろい幼い頬がそれに似合わず違和感が拭えない。
「姐さん、こん子は神の子です」
急に何を言い出すんだろう、この子は。
泡雪はぱちぱちっ、と目を激しく瞬かせた。庄十郎も、訳が分からないと言った様子で困惑の色を瞳に乗せている。
「わっちは、神の子を身籠ったのです、姐さん」
緩んだ着物の合わせ目から、膨れた腹が見えていた。そこを両手で撫でさすり、ありまは繰り返す。
「この腹の中には、神の子がいます。わっちは神の子を孕み、セイボとなるのです」
唇に微笑をたたえるありまに、泡雪と庄十郎は困った様子で顔を見合わせた。
ありまはひとまず、楼主預かりになった。
医師に診てもらった後、一日、二日様子を見て、容体が変わらないようであれば異怪への連絡も考えるとのことだった。
「大丈夫だといいんでありんすが……」
「あや、泡雪花魁」
「ん?」
ひとまず髪を洗いに中庭に行こう、とぺたぺた歩いていた泡雪の横合いから、声がかかった。見れば、濡れた髪をひとまとめにした妙齢の女が、襖の向こうから顔を出している。
「千鳥。どうしんした?」
千鳥は艶然と頬に手を当てた。
「楼主殿に呼ばれていたようでありんすが……」
「ああ。ありまの調子が悪いようで、お医者に診てもらう話をしていたんでありんすえ」
「へえ」
赤い唇がきゅうっと吊り上がる。目に意地の悪い光が宿っていて、泡雪は小首をかしげた。
「わっちはてっきり、花魁がわっちの旦那を横取りした事を、叱られたんではないかと思っていんしたよ」
「ふうん。それは予想が外れて残念でありんしたえ。でもあの旦那様は、わっちが少々お灸をすえて、ぬしの元に戻ったはずでありんすが?」
同じ遊郭内で、最初に指名した遊女以外の遊女を指名するのはご法度である。にも拘わらず千鳥の客が、泡雪を指名したのは半月前。
淡泊な千鳥にしては珍しく惚れこんでいた相手だった。
「わっちが何も言わずとも、飛び寄って来たなぁ向こうの方。季節外れの渡り烏なんざ、わっちは相手しんせんよ」
「……」
ぐしゃり、と千鳥の顔が歪む。
「千鳥、おしゃべりならまた後で。わっちはまだ髪を洗っておりんせん。湯が冷めるのは嫌でありんすえ」
「ふん……」
不満そうに鼻を鳴らして、女は泡雪をじろりと睨み下ろした。
「花魁の気に入りの旦那も、最近お見限りじゃあありんせんか。触れれば冷たい雪よりも、可憐な花の方に寄っていったんじゃありんせんかえ?」
捨て台詞を吐いた千鳥が、音高く襖を閉める。
廊下に響く高い音に、泡雪は首をすくめた。
「随分かりかりしてるんでありんすねえ、千鳥は。煮干しでも食べたらいいんではありんすか」
髪洗いの日は、中庭に大きな釜を用意し、湯を沸かして髪を洗う。遅れて向かった泡雪は、他の遊女達が慌てて場を譲ろうとするのを制して、最後に髪を洗った。男衆が釜に薪を追加してくれたので、最後でも湯は温かった。
さっぱりと軽くなった髪を揺らして、部屋に戻る。
羽二重楼唯一の花魁である泡雪には、特別に部屋が二つ与えられていた。客と寝る為に使う部屋と、自分の為だけの部屋だ。更に隣には狭いながらも花魁付きの禿が寝起きする部屋があるので、他の遊女と比べても破格の待遇である。
「ふう……」
窓べりに肘をついてしどけなく足を投げ出し、泡雪は息を吐いた。
客と寝る方の部屋は、元々部屋にあったものに加えて、客から貰った贅沢な品が数多置かれた豪奢なものだが、己の部屋に物は少ない。
窓の隣には文机があり、押入れの近くには衝立が置かれている。文机の上には、貸本屋から借りた本が数冊。それだけの殺風景な部屋だった。
当たり前だ。ここは、客も誰も入ってこない、泡雪だけの部屋。泡雪の好きなものだけが、ここでの存在を許される。
素朴な花がいくつか咲いた野原が描かれた衝立と、もう一つ。文机の上で日差しを受けて煌く氷柱、その中で咲き誇っている一輪の菫だけが、泡雪が許した全てだった。
「なんだか妙な事になっちまってるよう、旦那様」
口調を素のものに戻して、ちょん、と氷柱を指先でつついて泡雪は肩をすくめた。
日差しの中にあっても、氷は溶ける様子は無い。冷たい表面を指先でなぞる。
氷の中にいる菫は、淡い色合いの花びらが少しくたびれていた。茎の方は雑に引き千切ったようになっていて、少し土が付いている。
「ふふ。こういう所が雑だよねえ、あん人」
千鳥の台詞が脳内をよぎるが、泡雪はあまり気にしていなかった。
あの旦那が二月、三月続けて来ないことなどよくある。彼とは四年ほどの付き合いであるが、長い時には半年近くお見限りの時もあった。手紙を出してもなしのつぶて。それでいて、何事も無いような顔で登楼してくるのだから、全く女泣かせである。
「あーあ、次に来るのはいつかねえ。ねえ旦那様、あんまり会いに来ないなら、あたしも渡り烏になっちまうよ」
心にも無い事をうそぶいて、一人唇を尖らせる。
この間、旦那とは大層ひどい別れ方をしてしまった。だから向こうも、気まずくて会いに来られないのだろう。泡雪自身、あの行動は少し焦り過ぎたような気がすると反省していた。もう少し、ゆっくりと準備をかけるべきだった。
ちなみにその別れ方が原因で、かの旦那が二度と登楼して来ない、という可能性は泡雪の中には全く無い。もしずっと待っても来ないようなら、こちらから迎えに行けばいいだけだ。許可さえもぎ取れば、一日か半日程度、外に出る事ができる。もちろん見張りは付くが。
「あたしが世話してる禿の子がね、腹が膨れちまったんだよ。神の子を孕んだ、とか言ってねえ。腹が膨れるだけなら虫かもしれないけど、一日で膨れるなんてどう考えたっておかしいだろう? セイボとか言ってるんだよ。なんだろうねえ、セイボって」
氷柱の菫から返答は無い。それでも泡雪は幸せそうに目尻を緩めて、それにつらつらと話しかけ続けた。




