前
数日続いた雨も上がり、今日の貴墨はすっきりとした秋晴れの様相を呈している。
まだ朝靄のかかる早朝の畦道を、シロとアオは手を繋いでうきうきと歩いていた。
「玻璃竹、金持ち、高利貸し、煮ても焼いても食えはせぬー」
「ぬー!」
きゃっきゃ、と戯れ歌を口ずさみながら、繋いだ手を大きく振る。
夜明け色の瞳を輝かせて、シロは弾んだ声音で話しかけた。
「楽しみだな、アオ!」
「ちゃのしみー!」
「丞幻達は残念だったなあ。せっかくの、猿若一座の劇なのに」
「ねー。かわいちょーね」
今日は何ヵ月も前から楽しみにしていた、猿若一座の劇を見に行くのだ。
お上から許され、自分達だけの大劇場を持つ猿若一座の見物料は、高い。とにかく高い。なんと一席二千文。節約すれば、十日くらいは楽に食っていけるくらいのお値段だ。
それに加えて昼餉の弁当や菓子、当日売り出される土産なども買うとなればかなりの散財だ。さすがの丞幻もぽんと払えるわけもなく、ちまちまと見物料を貯めていた。
シロ達もおやつや絵草子を買ってもらうのを、涙を呑んで我慢したりした。一回くらい。
とにもかくにも必要経費は貯まり、いざ朝から見物に行かんとしていたのに。
「先生、ちょいと来ちゃあいただけませんか。ウチの家に、怪異が入って来ちまったようで、先生に見ていただきたくって……」
と、弱り果てた様子で、近所の農家の親父が訪ねてきたのだ。袂に取りすがる勢いで頼んできた相手をすげなく振り払えず、丞幻は矢凪を連れて泣く泣くそちらの方へ出かけていった。
「しょーがないわねー、シロちゃん達だけで行っといで。ワシらも行けたら行くから」
という言葉と共にシロの首にかけられた紐付きの財布は、いつもよりずしりと重たい。シロはきりりと眉を上げた。
これを失くしてしまえば、前から楽しみにしていた劇を見られなくなってしまう。責任重大だ。絶対落とさないようにしないと。
冴川橋を渡り、まっすぐ行けば町中に着くが今日の目的地はそこではない。
橋を渡ってすぐに右の道を行き、右手に林を見ながらしばらく歩く。早朝にも関わらず、親子連れや老人一人、連れ立って歩く女衆なども、同じ道を歩いていた。
子どもの足で四半時|(三十分)もかからない内に、門と塀に囲われた町が見えた。響いてくる太鼓や笛の音に、シロとアオの目がきらきらと輝く。
すすき野原の真ん中にでんと鎮座するこの場所こそが、貴墨に来たら必ず行けと旅行手引書にも書かれる、猿若町である。
目を引くのは、塀の上に等間隔で立てられ、秋風にはためく色とりどりの幟だ。赤一色、青一色というのもあれば、上下や左右で二色に分かれているものもある。上は濃緑だが、下に行くにつれて段々と色が薄くなっているものもあった。
シロ達と同じく芝居を見に来た人々に混じり、門を抜ける。
門を抜けた先は広い通りが奥へ続いており、道の左右に芝居小屋が立ち並んでいる。それぞれの小屋の入口にも幟が立ち、本日そこで芝居を行う一座の名前が太い文字で書かれていた。
「あっ! シロ、あしょこ! あしょこのひと、おもちろそーよ! ほらほら、ちょーちょ! ちょーちょちゅけてる!」
「こらっ、アオ! おれ達は今日、猿若一座を見に来たんだぞ! 他の所を見てるひまなんて、ないんだ、ばか!」
蝶の形をした目鬘を付けている呼び込みの元へ、突撃しようとするアオの襟首を掴んでシロは必死に声を張り上げる。
今日はそっちじゃないだろう、どこに行こうとしているんだ全く。
「うぶー……」
「こっちだ、こっち……! 自分の、足で、歩け、ばか!」
手を振る呼び込みに、未練たらたらな様子で立ち止まるアオ。その襟首を両手で掴み、一生懸命引っ張るシロに、周囲が微笑ましそうな視線を向ける。
年増め、こんな時くらい変わってくれればいいのに、なんでどうでもいい所で変わりたがるんだ。今変われ、今。
己の中で「頑張れ頑張れ」と笑いながら応援する真白に文句を言いながら、シロはふぅと汗を拭った。
「ほら、着いたぞ、ばか」
「う! おっきいねー、しゅごいねー!」
左右から響く呼び込みの誘惑を断ち切って辿り着いた通りの突き当たりに、大劇場はあった。横にも縦にも大きい木戸口が、巨大な生き物の口のように人々を中へと飲み込んでいく。
緑の瓦も眩しい二階建ての大劇場。木戸口の上には役割看板と、看板絵が掲げられていた。
日差しに照らされる色鮮やかな看板を見上げ、アオがぴょんぴょんとその場で跳ねる。
「しゃめ! しゃめよ、シロ! おっきいしゃめ!! おいちそーね、おいちそー!」
看板には、互いを食らい合おうとしている二体の鮫が描かれていた。
片や、小さな鮫が無数集まって山のように積み重なり鋭い鱗を光らせる鮫の群れ。
片や、蛇のように長い長い身体をくねらせ大きく口を開ける巨大鮫。
二体の鮫が相まみえる中央に、『対決! 焼飯鮫対うどん鮫』と濃紺の文字が大きく書かれていた。
「サァサ、一座名物鮫物のぉー、本日演じたる鮫はぁー。伝説の二大鮫が一、米のような鱗と鋭い牙の焼飯鮫ぇ、形はこまいが数多くぅ、集いて獲物を食い尽くすぅー。片や白き身体のうどん鮫ぇ。長い身体をひらめかせぇ、獲物を締め上げ食い千切るぅー」
鮫の被り物をした一座の役者が、軽快な口調で客を呼び込んでいる。
袖を濡らすような悲恋物から、おどろおどろしい怪異物まで、幅広く演じる猿若一座であるが、一等有名なのは鮫物だ。
荒唐無稽な姿の鮫達が人々を襲うだけの劇なのだが、それがまた面白く人気なのである。
シロは首から下げた財布をぎゅっと握った。わくわく、うきうきと興奮で高鳴る胸を押さえて、アオの手を引く。
「おいアオ、早く入るぞ……」
と、入口に向かいかけたシロの手から、重たい財布がもぎ取られた。
あっと叫んで背後を見ると、わき目もふらず駆け去っていく男が見える。
その手に財布が握られているのを見てとって、シロは夜明け色の瞳を吊り上げた。
「引ったくり! アオ、あいつ捕まえろ、泥棒だ!」
「う!」
大きく頷いたアオが地を蹴る前に、男の身体が宙を舞った。
羽のように浮いた身体が背中から地面に叩きつけられ、鈍い音と悲鳴が響く。「うわっ」「なんだなんだ」と声が交差する中、呻いて起き上がろうとした引ったくりの真横に影が差した。
秋の日差しを受けて輝く銀髪に、シロは思わず鼻に皺を寄せる。アオがぱちくりと青い目を瞬かせた。
「良い大人が、子ども相手に引ったくりするとはなあー。そういうみっともない事する指は、わさびみたいに摩り下ろしてやろうか?」
実は丁度、良いおろし金を買ったんだ。お前の指で試させてくれ。
そう笑った男――異怪奉行所同心・笹山為成が、男の腕を掴んで引っ張り起こした。懐から本当におろし金を取り出し、財布を握った指に当てる。
野太い絶叫を上げた男が財布を放した。重たい音がして、地面に財布が叩きつけられる。為成がそれを見て、手首を掴む指を離した。
尾を引くような絶叫と共に逃げて行く男を一顧だにせず、為成が財布を拾い上げる。軽く砂埃を払うと野次馬の視線を気にせず、こちらに近づいてきた。
「ほら、財布。大丈夫だったか? 怪我はしてないか?」
すいと膝を折って、こちらに財布を差し出してくる。
「……」
「あっがとごじゃますー!」
ぷい、とそっぽを向いたシロに代わって、満面の笑みを浮かべたアオが財布を受け取った。
「アオと、シロだったな。丞幻殿と矢凪はどうしたんだ、はぐれたのか?」
「んーん、オレとシロとできちゃの! しゃめね、みにきちゃの! 丞幻と矢凪はねー、おりゅ、りゅー……おしゅしゅばん!」
「へえ、二人だけで来たのか。よく子ども二人で来れたな、偉いぞ」
「んふー」
えっへん、と胸を張るアオの頭に、為成が手を伸ばす。
シロは、その手を力いっぱい叩いた。
「う? どちたの、シロ」
「うるさい。早く行くぞ、アオ」
こいつは、アオのことを怪我させたから嫌いだ。
手をはたき落とされ、めっそりと眉を下げる為成を無視し、アオの腕を掴んで木戸口の方へぐいと引っ張る。が、アオはその場に足を踏ん張って抵抗した。
む、と眉を寄せてシロはアオに視線を向ける。
「シロ、めっしょ。めーっ。めっ、よー」
「は? なにがだ」
アオはぴっ、と小さな指を一本立てて、ほっぺたを膨らませる。なんだか怒っているようだ。なんだろう、別にこいつを怒らせる事なんてしていない。
白いおかっぱを揺らして首をかしげると、アオは手にした財布を鼻先に突き出してきた。
「どぼろー、ちゅかまえてもらたしょ。あいがとしなきゃでしょ。丞幻と矢凪もいっちゃしょ、たちゅけてもらたら、あいがとしなきゃめーよって」
「むっ」
確かに、為成は財布を引ったくりから取り返してくれた。お礼を言わなければいけない。だけど、アオに怪我をさせた奴に素直にお礼を言うのもなんだか嫌だ。そして怪我をさせられたアオ本怪が、にこにこしながら普通にお喋りしているのも、シロのもやもや気分に拍車をかけていた。
為成が苦笑し、片膝を地面についた姿勢のまま片手を軽く振った。
「いい、いい。気にするな。じゃあな、俺はもう行くから、芝居を楽しめよ」
そうして立ち上がろうとする男の着物を、咄嗟にシロは掴んだ。
「ん?」
「シロ、どったの?」
不思議そうな為成とアオに見つめられ、シロは視線を反らして口をもごもごさせた。
「えと、あー、うー……」
――なにかもらったりー、助けてもらったりしたら、ちゃんと「ありがとうって」言うのよー。
――なにかしてもらったら「ありがとう」、悪いことしたら「ごめんなさい」だ。そんくれぇ言えんだろ。
日頃から言われている事を守らなければという思いと、でもこいつはアオを傷つけた奴という敵愾心がシロの頭をぐるぐるかき回す。
なにか言わないと。「ありがとう」でも「助かった」でも「礼は言わないからな」でも、なんでもいい。一言だけ礼を言えば終わる話だ。「ありがとう」と、一言だけ。言え、言うんだおれ、頑張れおれ、おれなら言える。一言お礼を言って、後はアオと劇場に逃げてしまえばいい。
一生懸命己を奮い立たせて、シロは為成をぎっと睨むように見上げた。
「あ……」
「あ?」
すうっ、と息を吸う。
「あいがとうございましゅっ!」
噛んだ。
思い切り噛んだ。
奇妙な沈黙が周囲を満たす。
「……」
視線が突き刺さった。顔にみるみる血がのぼって、熱くなる。変な汗が身体中からぶわっと出て、たちまち背中が濡れた。
いたたまれない気持ちになって、シロはアオの手を掴んで踵を返した。木戸口に向かって駆け出し、
「あっ、危ないぞ!」
「ふぎゃっ!?」
見事に小石に足を取られてこけた。
顔面から固い地面に叩きつけられ、目の奥で火花が散る。ちなみに手を掴んでいたので、アオも一緒にこけた。
「あーあ、危ないって言っただろ。ほら立てるか、大丈夫か?」
「っ、うー……!」
公衆の面前で思い切り噛んで恥ずかしいのと、打ち付けた顔が痛いのとで、シロの大きな目が潤んだ。後から後から、涙が勝手に出てきて地面を濡らす。
「シロ、シロ、だっじょぶ? たちぇる?」
「よしよし、大丈夫か? ほら、ちょっと抱っこするぞ」
地面に突っ伏したまま、ぐず、と鼻を鳴らすと両脇に手を入れて抱き上げられた。胸元や裾に付いた砂埃を払われ、ぼろぼろ零れ落ちる大粒の涙を手拭で拭われる。
涙でゆやゆや揺れる視界に、為成の顔が映り込んだ。右額から鼻筋にかけて斜めに入った傷痕は厳ついが、ほっとしたように緩んだ目尻のおかげで強面な印象がやや薄れている。
「お、血は出てないようだな。着物も破けてないし、良かったな。折角、良いべべで芝居を見に来たのに、破けたら嫌だもんなあ」
そう笑って、シロを地面に降ろす。こけた拍子に脱げた片方の下駄を、アオが「う!」と差し出してきたので履くと、為成はにこりと笑って立ち上がった。
「じゃ、芝居を楽しんでくるんだぞ」
「あ……」
思わず手を伸ばした。為成の裾をくい、と引っぱる。
「ん?」
見下ろしてくる為成から逃げるように目を反らしつつ、
「……一緒に来い。助けてくれた礼に、芝居を奢ってやる」
とシロはぼそぼそ呟いた。
目鬘=目元のみを覆う紙製の面。




