終
〇 ● 〇
――兄様と符丁を作りたいです。
――符丁?
あれは家を出て二、三年ほどした時だったか。年明けに家に帰った際、宴の最中に蓮丞が部屋の隅に丞幻を引っ張っていき、ぽそぽそと囁いた。
――はい。わたしと兄様だけに通じる、二人だけの特別な符丁を作りたいです。作りましょう。
両手を胸の前でぎゅっと握り、ふんすと鼻息を荒くする蓮丞に苦笑する。
胸を焦がさんばかりに渦巻いていた嫉妬の念は完全に、とはいかないまでもある程度は鎮まっていた。妹と話をしていても苛々する事もないし、胸の奥がざわつくこともない。
わくわくしながらこちらの返事を待っている蓮丞を、素直に可愛いと思う事ができる。やはり、一度距離を置いた事は正解だった。
盃を嘗めて、ころころと丞幻は笑う。
――符丁ねえ。いいわよ、面白そうだしねー。
――わたしと兄様にだけ通じて、他には絶対通じない奴がいいです。
――まあ、それは当たり前よねえ。誰かにばれちゃったら、元も子も無いからねー。
――そうです。それでいて、普段の会話に出てきても、なんの違和感も無い奴です。
――はいはい、分かったわよ。じゃあそうねえ……。
ぱちっ、と丞幻は目を開けた。
視界は真っ暗。先の異界にも似た闇の中である。寝転がったまま両手を目の前に持ってくると、少しかさついた手のひらがはっきりと見えた。
辺り一面が闇に塗りこめられているものの、そこまで圧迫感や不快感は無い。
「よっ……と」
自分の姿が見えるからだろうか、と思いながら軽い声を上げて、上体を起こす。結っていない萌黄色の髪が肩を滑って前に落ちた。
己の身体を見下ろせば、白い単衣が闇の中に浮き上がっている。どうやら、寝た時と同じ格好のままらしい。
ここは、夢の中だ。
「あーにーさーまー……」
へろへろとした声が横から聞こえて、首を巡らせる。ぐったりした様子の蓮丞が、いつの間にやらうつ伏せで倒れていた。
小さな頭をわしゃわしゃと撫でて、丞幻はねぎらいの言葉をかけた。
「蓮丞、お疲れ様ー。浄化作業は終わったのかしらん。偉い偉い。本当にお疲れ様ー」
「あー……兄様の言葉が染み渡ります……つかれた……つかれたです…………」
「貴墨に影響出ないようにしながら、異界消すの大変だったわねえー。しかも水路も浄化したんでしょ? 流石のお前もしんどかったでしょー、今どこで寝てるの?」
「異怪奉行所の一室を借りてます……兄様の所に帰りたかったんですけど……疲れすぎて無理でした……」
「よしよし、頑張った頑張った。もう少し休んだらどーお?」
「うぅ……そうもいきません。符丁が黒胡麻餡でしたから」
蝸牛のような動きで起き上がり、蓮丞はその場に胡坐をかいた。顔には疲労の色が濃いが、鋭い光が瞳に宿っている。
「改めて言う事でもありませんが、わたしと兄様の夢を繋げたここなら、誰にも邪魔は入りません。だから、安心してください。兄様」
数年前、宴の席でひそひそと決めた兄妹二人だけの符丁。
助福屋。この名が出る時は『夢の中で会いましょう』という意味となる。もちろん助福屋という単語の他に、続けて告げた餡子の種類にもちゃんと意味がある。
杏餡は、「ただ話をしたいから夢で会いたい」という意味。
白餡は、「手伝ってほしいことがあるから夢で会いたい」という意味。
そして、黒胡麻餡は――
「黒胡麻餡の意味は、『のっぴきならない状況にあるから、助けて欲しい』……」
噛みしめるようにそう呟いて、蓮丞はじっと丞幻を見つめる。
「兄様。……一体、なにがあったんですか?」
「符丁の通りよ。ちょーっと今、ワシってば色々面倒厄介最低最悪な出来事の渦中にいてねえ。蓮丞、助けてくれる?」
十六夜達にかけられた三つの制約。その中に、『直接誰かに「助けて」と言ってはいけない』というものは無かった。
丞幻が、誰かを巻き込むことを厭って助けを求める事はないと思ったのか。呪詛の事を話すな、と制約があるからそれで十分だと思ったのか。あるいはこちらの逆心をはかる罠か。
だが向こうとて、まさか丞幻が夢の中で助けを求めているとは思わないだろう。流石にここまで監視の目は届くまい。
ずずいっと蓮丞が身を乗り出す。
「兄様が大変な目に合っているというなら助けるのは当然です! それで、一体なにがあったんですか、分家連中が暗殺でも仕掛けてきましたか、それとも屋敷の井戸の封が解けましたか、前みたいに作家殺しの怪異に憑りつかれましたか?」
矢継ぎ早に問うてくる妹を、丞幻は片手を挙げて制した。
「どんな目に合っているかってのはね、言えないのよー。面倒な事にねえ」
苦虫をゆっくりと噛み潰したような表情を浮かべ、首を横に振る。目の前の妹は、明らかに怒った様子で眦を吊り上げた。
「それはつまり、言うなと脅されているということですよね」
それから不意に、なにか思い出したように目を見開いた。
「兄様、そののっぴきならない事情というのは、女と炎に関係がありますか」
女と炎。その言葉にぴく、と思わず眉が動いた。蓮丞は立て続けに言葉を並べながら、ずいずいと身を乗り出してくる。
「その頬の火傷痕は焚火ではありませんよね、兄様。兄様を脅したのは女ですか。炎を身体に押し当てられたりしましたか。見れば足にも火傷痕があるようですね。よもや拷問でも受けましたか」
「んー、拷問は受けてないのよねえー。まあ火傷に関しては、お前がそこまで心配することじゃないわよー」
のらくらと言葉を返していると、蓮丞はすっと真顔になった。
「分かりました今すぐ戦神百足之尊をこの身に降ろして兄様の敵を殲滅します」
「おやめ馬鹿妹! 百足之尊なんて降ろしたらあっという間に自我奪われて、敵味方構わず殺戮の嵐になるでしょ!」
「だいじょぶです兄様。わたしなら、かの神を半時|(一時間)近く制御できます。そして半時あれば十分です」
凄いでしょう? とでも言いたげな妹の頭をぺしんと叩く。そういう問題ではない。
「なんでワシの周囲には力こそ全てが信条の奴しかいないの、もうっ」
闇を仰いで嘆いた後、気を取り直してぴっと指を一本立てた。
「蓮丞にはね、調べてもらいたい事があるの」
「なんですか?」
「鉦白家に残ってる、呪詛の記録。それから、陽之戸全土に伝わる呪詛返しの神具呪具や呪文。それを全部教えてほしいの。ワシじゃあ、もうそこら辺は触れないからねえ」
記録ですか、と呟く妹に頷く。
鉦白家に伝わる記録というのは、他の祓い屋のみならず怪異にとっても垂涎の的だ。
陽之戸のあちこちに存在する忌地の場所、神具が奉じられている場所やその使い方、逆に封じられている呪具や怪異の場所や性質などなどなど。悪用しようと思えばいくらでも悪用できる。
鉦白家の記録を悪用する輩に目を付けられないように、そして丞幻自身が悪用しないように。家を出る時に忘却の術を父にかけられ、そこら辺の記憶はもう頭の中に残っていない。
丞幻自身が実家に戻れば、当然十六夜達に怪しまれるだろう。だからこそ蓮丞の協力が必要なのだ。
「それさえなければねえー……ワシだけでどーにかできたかもしれないんだけど」
椛温泉から帰ってすぐ、丞幻は土産を渡すという名目で孝右衛門に会いに行った。
歓待してくれた彼をつぶさに観察したが、そこに呪詛がかかっている様子は見受けられない。あの女がはったりをかましたのではないか、と思わず疑いを抱くほどだった。
だが、よくよく集中してみれば微か、本当に微かな気配が巣食っているのが分かった。それは蜘蛛の糸のように、孝右衛門の魂と心の臓に細く細く絡みついている。
視る力の強い丞幻が、目を凝らして集中しないと分からない程なのだから、徒人や多少の見鬼持ちでは分かるまい。
「まあとにかく、色々と呪詛に関する情報が欲しいの。ね、蓮丞。頼めるかしらん?」
「分かりました兄様、この蓮丞にお任せください。半月ほどで全記録をさらってみせようじゃありませんか」
どん、と胸を張る蓮丞に、丞幻はほっとして唇に笑みを乗せた。
「悪いわねえ、蓮丞。……本当にありがとうね」
万感の思いを込めて頭を撫でると、蓮丞は問題無いと言いたげに首を横に振る。
「わたしは鉦白家当主で、兄様の愛するたった一人の妹なので。もっとばんばん頼ってくれていいんですよ。なんなら、わたしが呪詛返しをしましょうか。呪詛に関しての記録が欲しいということは、そちら関係ですよね?」
「それも考えたんだけどねえ……」
唇に乗せた微笑を苦笑に変える。
こちらの動きが筒抜けになっていると仮定して、蓮丞が呪詛返しを行おうとすればどうなるか。下手を打てば、向こうに先制されかねない。
そもそも自分達が見張られているのなら、人質扱いになっている孝右衛門やその妻である夕吉にも見張りがついていると考えていいだろう。あまり蓮丞が表立って動くのは得策ではない。向こうに警戒され、夕吉達を攫われてはたまらない。
「……」
知らず知らず、険しい顔をしていたのだろう。蓮丞が、慌てた様子でわたわたと両手を動かした。
「兄様? あの、兄様、わたし何か、悪いこと言いましたか? 兄様、兄様? 顔が物凄いことになってますよ、兄様?」
「え? ああごめんねー、蓮丞。ちょっとねえ、こう、むかっ腹が立ってねえ……」
「ええと、わたしは直接行かない方がいいってことですよね? 分かりました。わたしが根掘り葉掘り聞くことで、兄様に迷惑がかかるのであれば詳しくは聞きません」
ですが、と蓮丞は丞幻の右手を両手でぎゅうっと握る。
「兄様の敵はわたしの敵です。兄様が助けてほしいと言うなら、わたしはいつでも飛んで来ますからね」
自慢気な蓮丞の笑顔に、本当に頼りになる妹ねと丞幻も笑った。
〇 ● 〇
澄んだ秋風が身体に染みる。
書き上げた草稿を脇に挟み、丞幻は冷えた指先同士を擦り合わせた。
「あーあ、だいぶ寒くなってきたわー。あったかい大福餅とか、汁粉が食べたいわねー」
今日のおやつは、汁粉でも食べに茶屋に行こうか。帰ったら矢凪達に提案しよう。
そんな事を考えながら、妹の顔を思い浮かべる。
結局あの後、蓮丞はひねもす亭に顔を出さないまま千方国へ帰って行った。本人が言った通り、遊びに来た以外の日はぎっちり予定を入れていたのが仇となり、こちらに顔を出す暇が無かったらしい。
一応毎晩、夢の中では会っていたのだが「疲れたです」「偉ぶってる人とご飯食べてもおいしくないです」「兄様達と食べ歩きしたいです」と半泣きで愚痴るのをひたすら慰めるだけだった。
今ごろは墨川山脈を越えている辺りだろうか。
――ま、蓮丞の方に見張りがついてたとしても、家の中までは着いて行かないでしょーよ。
せいぜい、千方国に入る所を見届けるくらいだろう。実家には怪異の侵入を防ぐ結界を始めとして、様々な術が施されている。そこに生身で侵入する馬鹿はいるまい。
孝右衛門にかけられた呪詛の気配は、今まで感じた事の無い異質なものだった。実家の記録から、なんとか光明を見いだせればいいのだが。
蟲を使うもの、獣を使うもの、人を使うもの、怪異を使うもの、呪詛の種類は様々だ。どんな種類かさえ分かれば、返す手段もおのずと判明する。
歯の擦り減った下駄をかこかこ鳴らし、橋を渡る。
背後で水音がした。
「身投げだあっ」
つんざくような叫びに背後を振り返れば、欄干に数人が駆け寄って橋下を見下ろしている。「小舟回せ!」と怒声が響いて、たちまち悲鳴が橋に木霊した。
「身投げねえ……この寒いのに、よくやるわあ」
わざわざ野次馬に混ざる気も無いし、水死体を見る気も無い。
三つ編みを揺らして、丞幻は曾根崎屋への道を歩き去って行った。
ややおいて冷たい水の中から引き上げられたのは、女だった。
「ああ……もう駄目だなぁ、こりゃ」「おうい。誰か、この女を知ってる奴ぁいるか」「さあ……」「ああ、知ってるよ。確か、西雪三丁目の方に住んでる人だ」「娘が水の底にいる、娘が水の底で待ってる、って飛び込んだんだよ。なんでそんな事……」「旦那も死んで、娘も行方不明って話だからねえ……」
被せられた筵の端から、だらりと伸びた黒髪が地面で渦を巻いている。そこに引っかかった銀簪が、秋の日差しを弾いて鈍く光っていた。
怪異名:ぶらぶら小舟(退治済)
危険度:甲
概要:
二十年に一度、長月の初めころに貴墨の水路に出現する怪異。百年ほど前から出現が確認されている。
小舟に乗った者を異界に引きずり込む。引きずり込まれた者はほとんど戻って来ないが、時折戻ってくる者も確認されている。戻って来た者は心が壊れており、詳しい情報を聞き出す事は不可能。
(追記)長月の初めころ、生臭い穢れと共に倒れている者がいる事がある。ぶらぶら小舟の出現の予兆か?←要調査
(更に追記)鉦白家当代当主、鉦白蓮丞により異界ごと消滅が確認。
怪異の正体は堅須国より這い出た亡者。詳しく調査した所、藤南を走る水路内に堅須国へ繋がっていた極々小さな穴を発見。そこから這い出てきたと思われる。
亡者が上がって来た衝撃で繋がりは切れたらしく、現在はただの穴となっていたが、念の為封印処置を施した。
『貴墨怪異覚書』より抜粋。




