十二
〇 ● 〇
とっぷりと夜は更け、頭上に半月がかかるころにようやく丞幻達は解放された。
あの後。
異界から戻ってきたと同時に異怪奉行所の同心達に囲まれた丞幻達は、あれよあれよと言う間に奉行所まで送られ、身体どころか褌まで浄化された後に異界でなにがあったかの聴取を受けた。百年近く異怪奉行所の目を掠めて、人を攫っていた怪異に巻き込まれて正気で生還し、しかもそれを鉦白家の当主が滅したという事で、奉行所内は大変な騒ぎになっていた。
ちなみに聴取は為成が行ったので、割と気楽に話せたのは助かった。そうでなければ五、六人のむくつけき同心達による圧迫事情聴取が行われていた事だろう。
あの異界にぶらぶら小舟以外の怪異が潜んでいるかもしれない為、蓮丞は青音や他の与力同心と共にあの場に残った。同じ事が起こらないよう、この機に異界ごと滅するらしい。
「……お腹空いたぁー……しんっど……」
「……」
矢凪と二人、異怪奉行所をよろめくように後にする。見送りに出てきた為成が、門に肩を預けて腕を組み、苦笑した。
「別に、無理に帰らなくてもここに泊まっていいんだぞ。もう夜更けだし、部屋なら腐るほど空いてるんだから」
「寝てる間に目玉に五寸刺されたくねえわ」
「シロちゃんとアオちゃん、先に家に帰しちゃってるからねー。これで泊まるなんて言ったら、ワシ寝てる間に髭ぜーんぶ毟られた挙句に洗ってない褌顔に押し付けられるわ」
「ほーん。頑張れ」
他人事の顔をしている矢凪を横目で睨む。
「お前は多分ミツユビトビグモの幼虫を十匹くらい部屋に投げられるわよ」
「あいつら殺すわ」
ぶふっ、と為成が噴き出した。
「や、すまん」
口を手のひらで覆い、俯いて肩を震わせる為成を、矢凪が食い殺さんばかりの形相で睨む。
「てめぇの鼻と口にこんにゃく突っ込んで窒息死させてやろうか、えぇ?」
「は? 俺がこんにゃくを悪党と同じくらい嫌っていると知っての言い草か? そんなことしてみろ、身長十尺に伸ばす拷問してやるからな。良かったなあ背高提灯と同じだぞ」
「はっ! 口ぃ開きゃあ拷問拷問と同じ事ばかり言いやがって、てめぇは蝉か? 土ん中で七年寝てから出直しやがれ」
「お前は土に埋めても、半時ほどで出てきたもんなあ。道理でみぃみぃ鳴かないはずだ」
ばちばち火花を散らす二人に、丞幻は欠伸を噛み殺しながら声をかけた。
そういう争いは美味しいものをたんと食べて、布団でゆっくり寝てからやってくれ。
「ほら矢凪、お前の身長が十尺になろうが蝉になろうがどーでもいいから、早く帰りましょ。ちびちゃん達がお腹空かしてるから」
「おう」
途端に舌戦を切り上げて、矢凪はふいと目線を反らした。
「お。珍しく素直に引き下がるんだな、矢凪」
「うるせえ。てめえは後で俺に詫び酒を奢れ。五樽くらい奢れ」
三白眼をわざとらしくまん丸にして驚いてみせる為成に、矢凪がちっと舌打ちをして距離を取る。
そこに、闇の向こうから蓮丞が砂埃をまき上げながら凄まじい速度で駆けて来た。誰から引っぺがしたものか、膝丈までの四幅袴を身に着けている。
「兄様――――!!」
「あら、蓮丞。夜更けに騒いだらご近所迷惑でしょ、どしたの」
もしや浄化作業が終わったのだろうか、と思ったが、蓮丞の可愛らしい顔はくしゃくしゃにしかめられたままだった。
呪具が足りなくなったので取りに来たんです、と弱々しい声音が地に落ちる。
「運が良ければ、兄様がまだいるかもと思って、私が行くって言ったんです……お泊まりしたかったです…………兄様の本、読んでもらいたかったです……」
「あー……今日中には終わらなそうなのね」
こっくり、と無言で頷く蓮丞。
しょぼくれたその頭を撫でて、丞幻は慰めるように笑った。
「まあまあ、元気出しなさいって。そうねえ、後で助福屋の大福奢ってあげるわよ。黒胡麻餡の奴。好きでしょ?」
「……黒胡麻は好きじゃないです。杏餡のがいいです」
ぷ、と頬を膨らませてそっぽを向く蓮丞に苦笑し、ひらりと手を振って丞幻と矢凪はその場を後にした。
りぃりぃと虫が鳴いている。
大きな欠伸をしながら、ひねもす亭へ続く畦道を歩く。隣を歩く矢凪が、異怪奉行所から貸してもらった提灯を揺らしながらふと零した。
「そういやあ、聞きてえ事があったんだがよお」
「なーに」
「異界でてめえ、煙吹いてたろ。最後、あの夜鷹に吹いた時だけ煙が赤かったなぁ、どういう訳だ?」
「ああ」
丞幻はひょいと肩をすくめた。
「あれはねー、ワシの血。舌噛んでねえ、血を混ぜた煙を吐いたの。おかげで痛いったらもう」
「なんで」
「鉦白家の血肉はねー、怪異に対しての毒なの。流石に血だけで怪異を祓う事はできないけど、怯ませたり弱らせたりはできんのよ。お前と反対ねー」
初代鉦白家当主が「血の一滴でも奴等の血肉になるのは耐えがたい。なんなら毒になりたい。怪異が一口齧っただけで爆散するような毒茸になりたい」と暴論を並べ立て、いかなる手段を用いたかは定かではないが、己の血肉を怪異に対する毒とする事に成功したらしい。
その結果、子々孫々に至るまでその血肉は怪異に対する毒茸となったのである。
そう説明すると、下から提灯に照らされた矢凪の童顔が面白そうな表情を浮かべた。
「へえ。てめえんとこの初代とは気が合いそうだな」
「そうねー。椛温泉でも言ったけど、お前ぜーったい気に入ると思うわ。後で逸話教えたげるわねー」
生家に伝わっている初代の逸話は、巨大な猿の怪異と素手で死闘を繰り広げただの、怪異をしばき倒して下僕にしただの、異界に連れ込まれたが怪異を瞬殺した後に一ヵ月ほどのんびりして帰って来ただの、やくざ的なものが多い。
世間では、初めて怪異に対抗するための術を編み出した現人神にも等しいお方、などと言われているものの、丞幻達身内の中では「とんでも戦闘狂」という認識である。
「あ?」
不意に、矢凪が提灯をあらぬ方向に向けた。手の動きに従って、丸い光がぐりんと揺れる。
「おい、そこにいるなぁ誰だ」
びり、と響く声に殺気が滲む。
丞幻も矢凪が提灯を向けた方向に顔を向けた。
闇の凝った畦道の脇で、黒い影がごそり、と動いた。提灯の作った光の中に、人影が進み出て来る。
中肉中背、大きな団子鼻が特徴の壮年の男だ。麻の葉模様の着物が、玻璃竹の白い光に照らされる。肉に埋もれた小さな目が、丞幻達を捉えて笑った。
男の団子鼻には見覚えがある。近所の農家の男だ。こんな夜更けにどうしたのだか。丞幻は首をゆるりとかたむけた。
「こんばんはあ。月見にはまだ早いけど、どうなさったのかしらん?」
「――無事で戻って来れたようで何よりだなァ、兄サン方」
見覚えのある顔から、聞き覚えの無い声が流れた。
「って、ちょっと矢凪駄目駄目駄目!! お前なにしてんの駄目よ!!」
声を聞いた瞬間、男に向かって蹴りかかろうとした矢凪の腕をしっかと押さえ、丞幻は声を上げた。
「うるせえ離せ! あいつぶっ飛ばす、まだ決着ついてねえんだよ!!」
振り返った矢凪が丞幻に怒声を浴びせる。
「あの女が使ってる忍だよあいつぁ! 声が同じだ殺させろ!! 決着つけさせやがれ!」
「だったら猶更離せるわけないでしょー! ていうか手ぇ出すの禁止って言ったわよねええ!」
「うるせえ知るかあ!!」
「知ってお願いだから!!」
男二人のすったもんだを眺めていた男は、やがて緩く握った拳を口元に当てると、くつくつと喉の奥で笑声を上げた。
「相変わらずだなァ、兄サン。作家の兄サンも、手綱握るナァ大変だろ?」
「分かってんなら、そこの肥溜めにでも飛び込んで消えてくれるかしらぁ! ワシだってこの馬鹿いつまでも押さえちゃおけんのよ!!」
人気の無い所だったらまだしも、ほんの少し離れた所には農家がある。近隣住民の皆々様の安眠妨害はしたくない。
ひょいと男――農家の男に変装した忍が肩をすくめた。
「マ、安心してくんな。用を済ましゃァ、すぐ帰るから。――作家の兄サン」
暴れるのをようやく止め、獣のように唸って忍を睨む矢凪をどうどうと押さえていた丞幻は、呼ばれて顔をそちらに向けた。
矢凪が放り出した提灯に照らされながら、忍の男が片手を突き出す。
「その煙草入れに入ってるモン、出しちゃァくれねェか? それさえ貰えりゃァ、すぐ退散するから」
「……」
暴れんじゃないわよ、と念を押して、丞幻はそろりと矢凪の腕から手を離す。腰に下げている煙草入れを外すと、忍の方に放り投げた。
太い指が煙草入れを掴んで、蓋を開ける。そこから摘まみ出されたのは、芋虫のように丸々とした人差し指だ。根元から先が無いのに、まるで生きているかのように、ぴく、ぴく、と動いている。
「あの異界から持ってこれたナァ、これだけかィ?」
投げ返された煙草入れを受け取って、丞幻は半眼になった。
「持ってきただけでも感謝してほしいもんだわ。異怪にばれないように気ぃ使ったんだからねー。ありがたく頂戴しなさいよー」
「そいつァご苦労。マ、ありがたく頂いてくぜィ。少しは甲斐性あるようだナァ、作家の兄サン」
「そらどうもー」
じりじりと距離を詰めようとしている矢凪の足を踏んで押さえ、丞幻はふんと鼻を鳴らした。
異界で、蓮丞が術を叩き込んだ時に、風に煽られて飛んできたのがあの指だ。まあ、あの女の機嫌取りくらいにはなるだろうかと、こっそり持ち帰っていたのである。
ちなみに、丞幻の煙草入れは怪異封じの呪文が刻まれている特注品だ。
動く指を手の中で弄んでいる忍に、丞幻は声をかけた。
「それにしたって、よくワシが煙草入れに怪異持ってるって分かったわね」
怪異の放つ瘴気ごと封じるから、傍から見れば小さなそれに怪異が封じられているとは分からない。質の良くないものなら封印が甘く違和感に気づくかもしれないが、これを作ったのは丞幻の父だ。そうそう見破れるはずもない。
「忍なんでナ。隠れたモノを見つけるナァ、得意なのさァ」
何でもない事のように笑った忍の姿が、提灯の光の中から消える。
まさか本当に肥溜めに落ちたのか。
ぎょっとしてそこに近づくが、人がいただろう痕跡は無い。畔横に生い茂る草すら、踏み潰された様子も無くそやそやと秋風にそよいでいた。
りぃりぃ、と虫の声が大きくなる中、どこからか声だけが響いてきた。
「初仕事は上出来だぜィ、兄サン方。これなら安心して、調達を任せられそうだナァ」
「安心するついでに呪詛も解いてくれたら、もーっと張り切って調達するんだけどねえ!」
「ついでにてめえと決着つけれりゃあ、もっと働いてやるんだがなあ!」
矢凪と二人、夜の帳の向こうへ声を張り上げる。
「そいつァできねェ相談だ、兄サン方」
忍び笑いが一つ返ってきて、それきり静かになる。
ばりばりと、矢凪が癖っ毛をかき回して舌打ちした。
「……腹の立つ野郎だ。絶対あいつ潰す。蹴り潰す」
「腹が立つっていうか、面倒そうってのはあるわねー」
丞幻達がどんな異界に連れ込まれ、そこの怪異を回収して無事帰ってきた事を知っていた。どこかで見張られていたのか、術か何かで遠見されていたのか。分からないが、どちらにしろこちらの行動は筒抜けになっていたようだ。
そして恐らく、今後もこちらの動きは見張られることだろう。無理やり引き入れた人物だ、どんな行動を取るか分からない。敵意の有無が分かるまで、監視の目は緩めない。人質を取ってくるような相手だ、そのくらいはやりかねない。
少なくとも、丞幻が同じ立場ならばそうする。
曾根崎屋の使う影とぶつかり合って対消滅してくれないかしらん。
そんな事を考えながら、丞幻は転がる提灯を拾い上げた。




