十一
闇に慣れた瞳に稲光は眩しすぎる。咄嗟に閉じた瞼の上から、白光が突き刺さって丞幻は呻いた。稲光に驚いたのか、尻下の蒼一郎の身体がびくっと震えた。
大音量の落雷をまともに浴びた耳も、ひどい耳鳴りがして何も聞こえない。
「……うー……」
やや時間を置いた後、丞幻は涙の滲む瞳をこじ開けた。視界にまだ火花が散っていて、ちかちかとしている。
「あー、あー、あー……うん、聞こえるわね」
まだ多少耳鳴りがするが、己の声はきちんと聞こえた。
「くそ……耳に錐突っ込まれた時みてぇだ……」
背後から響いた不穏な呟きもしっかり聞こえた。突っ込まれたことがあるのか。錐を。
「……後で第二回飲み会一問一答開催しましょ。絶対」
「しかし、とんでもない威力だったなあ。流石のあれも参ったろう」
「そだなー。おっ、蓮丞は追撃する気満々だなー」
「いいんじゃないか? 百年の長きに渡って人を食って来たあれも、年貢の納め時だ。でかい顔していたあれが滅びる様を見届けるのも一興だぞ」
「ねえ真白ちゃん、蒼一郎ちゃん、ここの怪異の正体知ってるの?」
目も耳も潰れた様子も無く、のんびりと話す怪異二体に、袂を絞って水を切りながら丞幻は問いかけた。
丞幻からすれば、異界に連れ込まれたかと思えば小舟でひたすら水路を進み、真っ暗な中に響く太鼓の音からひたすら逃げていただけなのだ。怪異の名も、性質も、狙われた条件も、さっぱり分からない。
「知ってるなら教えてちょーだい。なんなのあいつ。ワシら色々と、ほんっと色々大変だったのよー」
そんな事を聞いている場合ではないのだが、助けが来たという安堵もあって丞幻の好奇心が鎌首をもたげていた。
「おい」
「いった!? ……なーに、矢凪」
頭をしばき倒され、振り返る。
「んなこと言ってる場合じゃねえだろ」
ぱたぱたと毛先から雫を垂らした矢凪が、仏頂面で水面を示した。
雷を叩き落とされた水面は、先の比でない程に荒れ狂っていた。生き物のように波濤がうねり、ぶつかり合っている。
どうどうと音を立てる水音にかき消されて、あの太鼓の音は聞こえてこない。
「ああ、大丈夫よ」
まだ怪異が生きてんだろ、と言いたげな矢凪に答え、丞幻は蓮丞に視線を向けた。
こちらのやり取りが耳に入っていないかのように、蓮丞は淡々と新たな呪言を紡ぐ。胸の前で組んだ指が、呪言に合わせて忙しなく動いている。
「祓えない怪異は無い、ってのは言い過ぎだけどー。ここの怪異くらいなら多分、そう苦労せずに祓えるでしょーよ、あの子は」
「……妹馬鹿」
「全くだ。もっと言ってやれ、矢凪」
「オマエ、ほんっと蓮丞のこと買ってるよなあ」
「むむむっ」
立て続けに笑われ、丞幻は口髭を弄りながらそっぽを向いた。
なんだなんだ、皆して。いいじゃないか、自慢の妹なんだから。
柏手が一つ、二つ、闇夜に響き渡った。
「掛けまくも畏き泡咲の風神、この地へ来たれ穢祓の風神、遍く不浄の一切を祓い給え、禍事罪事穢事其悉く清め給え!!」
蓮丞の背後に清冽な風が巻き起こった。風は渦を巻いて竜巻の槍となり、蓮丞の長い三つ編みを跳ね上げて揺らす。
右手を掲げた蓮丞は、無造作にそれを振り下ろした。動きに従った竜巻がうねり狂う水面に叩き込まれ、爆裂。
水面に巨大な穴が開き、水が空近くまで巻き上がった。暴雨のように降り注いでくる水を、真白と蒼一郎が瘴気で障壁を張って防ぐ。
目の上にひさしを作った真白が、のんびりとした声を上げた。
「おお。随分とまあ、ばらばらになったなあ」
「なー。ばらばらだなー」
「なーに、真白ちゃんも蒼一郎ちゃんも、自分達だけ分かったみたいな顔しちゃって。ワシにも教えなさいよ」
「なんてことねーぞ、丞幻。あんなあ、蓮丞の術で、ぶらぶら小舟が木っ端微塵になっただけだぞー」
「ぶらぶら小舟?」
なんだそりゃ、と唸る矢凪に真白が肩をすくめてみせる。
「二十年に一度、人を攫って食らう怪異だ」
「二十年に一度とはまあ、のんびり屋な怪異ねえ」
「元々は確か、堅須国から運良く這い上がれた亡者だったか。それがここに棲みついて、悪さをしていたらしい」
「なんかなー、二十歳で死んだんだってよ。普段は寝てんだけど、自分が死んだ時期になっと、起きちまうんだよなー」
「ああ……あそこの奴なの。道理でいやーな気配がしてたわけだわ」
堅須国、という名称を口にするのも嫌で、丞幻は眉をしかめた。
丞幻達の住まうひねもす亭にも堅須国に続く井戸はあるが、そこ以外にも堅須国へ続く場所があるのだろうか。堅須国の亡者を見たら死ぬか狂う、という話は聞いたことがないから、そういった性質の怪異を取り込んだのかもしれない。
うーん、と考えていると、目の端を何かがよぎった。咄嗟に手を伸ばしてそれを掴む。掴み取ったものを確認して、丞幻は腰に下げた煙草入れにそれを放り込んで蓋を閉じた。
矢凪、真白、蒼一郎、三者の視線がこちらに向く。無言で人差し指を唇に当ててみせるのと同時に、巨大な折り鶴に乗った蓮丞がこちらに突撃してきた。
「兄様! 兄様、ご無事でしたか!! ああ良かった、助手の方も怪我は無いようですね。兄様、心配しましたよ、急にどこに行ったか分からなくなって、異界に迷い込んだと分かった時に、わたしは心の臓が止まりそうになったんですからね!」
普段は垂れている茶色の瞳が、きっと吊り上がっている。折り鶴から身を乗り出して言い募る妹に、丞幻は落ち着かせるように両手を掲げた。
「ごめん、ごめんねえ蓮丞。心配かけて悪かったわよー。助けに来てくれてありがとう、嬉しかったわー。あのままじゃ、本当に危なかったからねえ、ワシら」
「そうです! 兄様、あれに掴まれていたんですよ! もし兄様があれを直視していたら、いくら兄様でも魂を……」
ふと言いさして、蓮丞は引きつるように息を吸った。
「魂を、奪われてたかもしれないんですよ……!」
そう言って俯き、着物の裾をぎゅうと握る。指の節が白くなるほど着物を強く握りしめている妹に、丞幻は手を伸ばした。
頭をかいぐりまわし、ぽすぽすと叩く。
「うん、本当にごめんねえ。ありがとう、お前のおかげで皆助かったわー」
「……もう」
「ん?」
「もう、心配かけないでくださいね、兄様」
震えて滲む声音で吐き出された言葉に、つきりと胸が痛んだ。
口を開いても、いつも流暢に流れる言葉は喉奥につかえて出て来ず。結局、何度か口を開閉させて、蓮丞の髪をかき回すしかできなかった。
「おい。兄妹の触れあいは構わねえが、さっさと俺ぁここを出てえんだが」
なんとも言えない妙な間を打ち破ったのは、襟首に垂れる水を鬱陶し気に拭った矢凪だった。振り返れば、眉間に深い皺を刻んでこちらを見ている。
空気を変えようとあえていつも通りの態度を取ってくれているのか、単純に帰りたいだけなのか。それは分からないが、丞幻はありがたくそれに乗っかる事にした。
「あー、それもそうね。っていうか、一息ついたらお腹空いてきたわ。もう夕餉も過ぎたころでしょ、絶対」
「おう。暮れ六つ|(十八時)くれえかな」
「かわいい俺が拗ねているぞ、丞幻。夕餉は奮発してほしいそうだ」
「奮発ねえ……」
なら一鉄の牛鍋でもつつきに行こうか、それともシロ達の好きなおかずを買って、家で食べようか。
頭の中で店を並べていた丞幻に、蓮丞が思い出したように声をかけた。
「あ、そうだ、兄様」
「なあに?」
「異怪奉行所もこの怪異に目を付けていたようで、橋に集まっていました。戻れば確実に浄化と聴取は受けるでしょうから、そこの」
と、真白と蒼一郎を睨む。
「怪異二体は、先に帰しておいた方がいいですよ。面倒な事になります」
「あら、そうなの」
「はい。まあ奉行所の奴等が大勢で来ても邪魔になるだけなので待機してもらっていますが」
丞幻は思わず、額に手を当てた。
「……お前ね、ここは鉦白家の縄張りじゃないんだから、あんまり好き勝手しないのよ。余所の奴にでかい顔されれば、不愉快に思う奴だって多いんだから」
「二十年に一度しか現れないと高を括り、ここまで怪異を増長させて兄様達を危険に晒した奴等になにを遠慮する必要が?」
「前はそうだったろうけど、今の染崎様がお頭になってからはわりとまともにいったあ!?」
途中で思い切り背中の肉を掴まれつねり上げられ、丞幻は悲鳴を上げた。ぎりぎりと、万力で挟まれたような激痛が走る。
「だから、は、や、く、か、え、り、て、えって言ってんだろうがよ! なにをぐだぐだ話してやがんだ、落とすぞ!」
「分かった、ごめん矢凪、分かったから! ちょっと待って手離して、痛いわっ!」
矢凪の手を引き剥がし、蓮丞の乗る折り鶴の方へ飛び乗った。紙で作られているが、胴体の部分は意外としっかりしている。
同じように飛び乗ってきた矢凪が、目をぱちくりとさせた。
「凄ぇな、なんだこれ。どうなってんだ」
「呪符で鶴を折った後に、大きくするだけです。簡単なので、術さえ覚えれば貴方にもできると思いますよ」
ふふん、と自慢気に胸を張る蓮丞。
先ほどまでの怒りをどこかに放り投げ、興味深そうな顔でふむふむ頷いていた矢凪に、丞幻はひそりと囁いた。
「あの子の『簡単』って言葉は真に受けちゃ駄目よ。あの子がそう言うものは大抵、普通の術者が十年くらい修行しないとできないようなものばっかなんだから」
「へえ」
「おい丞幻、おれ達は先に帰っているからな」
身体を震わせ、水滴を払い飛ばした蒼一郎の背に腰かけた真白が、小脇に抱えたお葉を突き出してくる。その身体を受け取り、丞幻は「分かったわー」と返した。
異怪奉行所が集まっているというのなら、蓮丞の言う通り先に帰ってもらった方がいいだろう。シロとアオに戻ってもらった所で、即行で飽きて駄々をこね始める未来が見える。
「ま、なんかてきとーに夕餉は買っといてやるから、心配すんなー」
「おう、酒に合うの用意しとけよ」
矢凪の言葉に、蒼一郎が返事代わりに長い尾を一振りする。
「じゃあな」
懐から真白が毬を取り出して中空に投げ上げ、瓢箪に変えた。真白達の頭上で、瓢箪の蓋がひとりでに開いて二体を吸い込む。白と蒼の怪異が吸い込まれた後、勝手に蓋が閉じてくるりと回りその場から消えた。
一連の流れが終わったのと同時に、蓮丞の唱えていた呪言が終わる。折り鶴を霊力の波動が包み込み、視界がぐるりと回転した。




