十
悪いことは立て続けに起こる。
「う……」
お葉の眉がぴくりと動いたかと思えば、瞼がゆっくりと押し上げられる。霞がかった瞳が覗いた。
丞幻は舌打ちしたい気持ちになった。最悪だ。なぜ今、この瞬間に目を覚ました。
「ここ、は……お勝……? お勝!?」
どん、どん、どん、どん。
悲鳴のようなお葉の声にかぶさるように、太鼓の音が響く。
船着き場に佇む女が、音に合わせるように顔を覆っていた手を、ゆぅ……っくりと八の字に開いた。目元を指先で覆ったまま、女の口元だけがあらわになる。
女の口は、ぽっかりと開いていた。鬼灯色の明かりに照らされて、赤い口腔がてらてらと艶めく。
「お勝、お勝、どこ!? お前か、お前がお勝をやっぱりさらったんだ!」
この状況よりも、お葉の中では丞幻が優先されたらしい。血走った目が丞幻を捉えて、勢いよく掴みかかってくる。
だが、狭い小舟上だ。急に立ち上がったことで舟が大きく右舷に傾き、お葉の身体が均衡を崩した。
「ああっ!?」
その片手を掴んで引き寄せ、落ちる前に抱き留める。ついでに動けないように背中から羽交い絞めにしてしまい、丞幻は船尾を振り返った。
「矢凪、出して!」
「出してんだよ!」
「はぁ!?」
眉を吊り上げて怒鳴る矢凪。その腕は確かに忙しなく動き、櫓を漕いでいる。
女が口元だけを見せたまま、小舟と併走していた。横滑りに動いている筈なのに、額に落ちた髪一筋すら揺れていない。
まるで紙に書かれた姿のようなそれに、ぞっ、と丞幻の産毛が総毛立った。
お葉はしばらく絶叫しながらもがいていたが、ようやく周囲の異様さに気付いたのだろう。今度は身体を怯えたように縮こませ、目を忙しなく動かしている。かわいそうだが、そうして動かないでいてくれる方がありがたい。
――どん、どん、どん、どん。
白煙の向こうから太鼓の音が響く。女の開かれた唇の両端から、白い蛆のようなものが見え隠れしていた。
内側から外側に向かって、うぞ……うぞ……と、いくつもいくつも。好き勝手に動いている。丸く開かれていた女の口腔が、それに引っ張られて歪んだ。
う、と誰かの喉から呻き声が漏れた。
指。丸々と太った蛆のように見えていたのは、白くむっちりとした指だった。いくつもいくつもの指先が、女の口を内側からこじ開けようと蠕動を繰り返している。
その度に、どん、どん、という音が大きくなってくる。音の主が、女の口から這い出てこようとしている。
「ざっけんな、気持ち悪ぃんだよ!」
怒声を上げるが早いか、顔を引きつらせた矢凪が、櫓を薙刀のように横薙ぎに振るった。唸りを上げて振るわれた櫓が、胴体に吸い込まれる。小舟が大きく揺れて、丞幻は均衡を崩さないようお葉の身体を押さえながら船べりを掴んだ。
ぶち、みち、と音を立て、いとも簡単に女の胴体が両断された。下半身が水没する音が聞こえる。いびつな切断面の下からは、臓腑や血の代わりに異臭のする黒い粘液がびちゃびちゃぼちゃぼちゃ、滝のように流れ落ちた。お葉が絶叫する。
丞幻は叫ぶお葉の視界を袂で覆ってやりながら、煙管を噛んだ。
なりふり構っている場合ではない。このままでは助けが来る前に全滅だ。
「しゃーない、やりましょ」
がり、と舌先を歯で裂く。唇をすぼめ、口内にあふれた血諸共に煙を吹き出した。赤く染まった煙が矢のように飛んで、女の口腔に突き刺さる。
太鼓の音が一瞬途絶え、うぞめいていた指の動きが止まった。
櫓を大上段に振りかぶった矢凪が、裂帛の気合と共に振り下ろす。
「おっかぁ……おっかぁあ……」
女の赤い口内から、か細い子どもの声が聞こえた。お葉が目を剝く。
「お勝、お勝!? ああお前、そこにいたのかいお勝!?」
「駄目よ姐さん、近づいたら駄目!」
押さえ込まれて暴れるお葉が手を伸ばした先で、櫓が女の脳天を割った。
身の詰まった水瓜を割ったような音がして、女の鼻筋まで櫓がめり込む。矢凪の顔がしかめられた。そのまま櫓を引き下げようとしているようだが、ぴくりとも動かない。
「……っ」
盛り上がった肩の筋肉が震えて、ぎし、と握りしめられた櫓が軋みを上げる。
突如女の身体から、瘴気が爆発した。凄まじい力の奔流に、白煙の結界が耐え切れずかき消される。あおられた水が大きくうねり、枯葉のように小舟が宙を舞った。
当然、それに乗っていた丞幻達は中空に投げ出される。耳の傍でお葉が愛娘の名を叫んで暴れる。それをしっかと押さえて、水に落ちる一瞬の間。丞幻は見た。
鼻筋の半ばまで櫓がめり込んだ、夜鷹風の女はいまだ手で目元を覆っている。その口から何十本もの指が這い出して、女の顔を這い上がる。
そこまで視界に入れたのを最後に、丞幻は水中に飲み込まれた。
生き物のように水流が手足に絡みつく。腕に抱えたお葉の身体が、激しい水流にもぎ取られた。あっという間に、銀簪が暗い水中に飲み込まれて消える。
ごぼりと口から空気の泡が漏れる。
口元を押さえて、丞幻は辺りを見渡した。お葉も矢凪も姿が見えない。どちらが水面かも分からない。水を吸った着物は石のように重たく、水底に丞幻を引きずりこんでいく。
ごぼり、ごぼり、と吐いた泡が上がっていくのが見えた。あちらが水面か。とにかく上へ。
さすがに、異界で死ぬのはごめんだわあ。
水を蹴った丞幻の足が不意に強く引っ張られた。ぎり、と足首に爪が立てられる。
――どん、どん、どん、どん。
いる。
冷たいものが、いくつもいくつも足首に絡みついている。激しい水流の中、ようよう見開いた萌黄色の瞳の中に、それが映り込んだ。
水中では視界が歪む。
だというのに、それはやけにはっきりと視えた。丞幻の瞳が凍り付く。
それがどんな姿なのか。
どういう動きをしているのか。
どんな肌色で手足は何本で顔はあって目鼻はいくつなのか。
どんな言葉を話しているのか。なんと言っているのか。
それら全てを理解する前に、襟首が力いっぱい引っ張られた。そのまま物凄い勢いで、水面へと身体が引っ張られる。多量の空気の泡が視界を覆った。
「――っは!」
水揚げされた魚のように、丞幻は水中から引っ張り上げられた。酸欠で頭がぐらつく。喘ぐようにして肺腑に空気を取り込み、丞幻は何度も咳込んだ。
状況にそぐわぬ、のんびりとした声が耳鳴りの間を縫って響いた。
「だいじょーぶかぁ、丞幻」
「あら……蒼一郎ちゃんじゃないの。まあまあ大丈夫じゃないわあー。死ぬかと思ったわ……本当」
うねる水面の上に、青い狼の巨体がちょこりとお座りをしている。夜闇の中であれど、青い毛並みはそれ自体が燐光を放っているかのように明るく輝いていた。
狼の横には船底を見せて小舟が浮かんでおり、丞幻はそこに上半身を預ける形で乗せられていた。
「あれ、視たかぁ?」
蒼一郎の言う「あれ」がなにを指しているか察して、丞幻は首を横に振った。
「一瞬だけね。完全には視てないわあ」
「おう、そっか。んじゃあいいんだ」
蒼一郎が安心したように長い尻尾を激しく振る。
もしもあれが何なのか、完全に理解するまで視続けていたら狂うか死んでしまっていただろう。
張り付いた前髪をかき上げて、丞幻は蒼一郎を見上げる。
「蒼一郎ちゃん、矢凪がまだ沈んでるはずなのよ。引き上げてちょうだいな」
「ああ、それなら心配すんな。真白が今やってっからさぁ」
その言葉が終わるより早く、隣の水面が大きく盛り上がった。水柱が上がって、飛沫が雨のように丞幻に降りかかる。
「ほら矢凪、これにちゃんと掴まれ。落ちるぞ」
水柱が霧散し、中から着物に水滴一つ付いていない真白が現れた。片手に矢凪の襟首を掴んでおり、船体にぺいっとその身体を投げ出す。
「……いってえ」
咳き込んで水を吐き出しながら、矢凪は眉間に皺を寄せて首元をさする。
裸足の足裏を水面につけ、佇んでいる真白に視線を向けた。丞幻の視線に気づいた真白が、夜明け色の瞳を向けてくる。
「真白ちゃん、悪いんだけどもう一人助けてほしいのよ」
「もう死んでいるかもしれないぞ、丞幻」
「それでもここで眠るよりはいいでしょ。真白ちゃん、お願い」
「あーあ、分かった分かった。やれやれ、おれ達に重労働ばかりさせて、お前は左団扇か。ただ働きは辛いんだぞ、丞幻?」
あとで絶対に、埋め合わせはしてもらうからな。
そう唇を皮肉気に吊り上げた真白が、暗い水中へ足から沈んでいく。
隣で船体に掴まっている矢凪が、低い声で呟いた。
「……生きてんのか?」
「さあ……それは分からんわ」
「そうか……」
小舟の隣で、わしゃわしゃと耳の後ろをかいた蒼一郎が軽やかに立ち上がった。丞幻に鼻面を近づけて、すんと鼻を鳴らす。
「丞幻、矢凪。オマエら、オレに乗れー。でねえと、蓮丞の術に巻き込まれちまうぞ」
「蓮丞の?」
ぴしりと鳴った尾が指した方向を見上げる。萌黄色の三つ編みが舞っていた。
人ほどもある大きさの折り鶴が、闇の中にふわりふわり浮いている。その上に直立した蓮丞が目を閉じ、胸の前で印を組み合わせて呪言を唱えていた。
「神の御息は我が息、神の御手は我が手、これにて穢れ在らじ、残らじ……」
呪言が唇から紡がれるごとに、闇を圧するような清浄な霊力が蓮丞を中心に渦を巻く。
「じゃあ蒼一郎ちゃん、引き上げてちょーだい。ワシも矢凪も、着物が水吸って重たいのよ」
「あ、そうか。分かったー」
頷いた蒼一郎が、襟首をがっきと噛んで首を振った。まるで芋でも抜くように、丞幻の身体が水中からすっぽ抜ける。ぼすっ、と温かい毛並みの上に身体が投げ出された。
続けて矢凪の襟首も噛んで放り投げ、己の背中に乗せると蒼一郎は水面を蹴った。ふわりとその身体が浮き上がる。
矢凪が丸い目を更に丸くした。
「お前、空飛べんのか」
「普通の蒼狼はできねえけどなー。オレはちぃっと長生きだからよ、このくらいの芸当はできんだ」
ふふん、と蒼一郎が自慢気に胸を張る。その首を叩くように撫でていると、足元で派手な水音が響いた。
「運の良い女だな、生きていたぞ。気絶したから、水をほとんど飲んでいなかったらしい」
水中から上がった真白が、蒼一郎の隣にふわりと浮き上がってきた。小脇には、手足をだらりと垂らしたお葉が抱えられている。
ぱたりぱたりと水滴が落ちる指先はぴくりとも動いていないが、生きているなら良い。流石に、目の前で死なれるのは寝覚めが悪い。
「真白ちゃん、ありがと」
「なに、気にするな。後で銀てふ屋の簪を買ってくれるんだろう?」
「あらワシそんな事言ったかしら」
丞幻の言葉にそっぽを向いた真白の白髪が、霊力を受けて翻った。乱雑に結われた髪が頬を叩いて、鬱陶しそうに夜明けの瞳が細められる。
丞幻は妹の浮いている方向に首を向けた。
目を開いて、蓮丞は大きく柏手を二度打った。右手で天を、左手で水面を指し示す。
「聞こし召せ聞こし召せ、葉筆雷神、聞こし召さばこの地に雷落とし給え。遍く穢れ打ち祓い給え、砕破し給え、禍事罪事穢事其悉く清め給え!!」
ぴんと張るような声に導かれるように、天から一条の雷が落ちる。
耳を聾するような轟音が異界全体に響き渡り、視界が真っ白に焼かれた。




