九
誤字脱字報告、いつも助かっています。ありがとうございます。
膝の上に頬杖をついて、丞幻は息を吐いた。
「ま、蓮丞かシロちゃん達が気づいてくれるでしょ」
そうすれば、真白の瓢箪で帰ることができる。
「他力本願」
「うっさいわね」
事実なのでそれ以上言い返せない。
ぎぃ、と櫓を繰りながら、「そういえば」と矢凪が呟いた。
「てめえの妹から貰った紐付けてても、異界に迷い込むもんなんだな」
「まあ、その守り紐はあくまでお前の生餌としての気配とか匂いを抑えるためのものだからね。それさえつけてりゃ、目々屋敷とか椛御前の時みたいに怪異に惹かれる事はもう無いわよ。主軸がそっちだから怪異避けの効果はおまけみたいなもんだけど、それでも弱い怪異相手なら近づけんから安心しなさいって。それに異界に迷い込むってのは敷居を跨ぐとか今回みたいにどこかに落ちるとか、いわゆる『境』を超えた時に起こりやすいの。例えどんなお守りを持ってたとしてもね」
ふう、と息を吐いて続ける。
「今回は多分、あの粘液まき散らし男と接触しちゃったことでこの異界と縁ができてたのよ。ここに漂ってる臭いと、あいつが吐いてた臭いは同じだったでしょ。その上、水路なんかに落ちて『境』を超えちゃったから、この異界に迷い込んじゃったのねー」
立て板に水の如く喋る丞幻をまじまじと見ていた矢凪は、ふ、と唇を片方吊り上げた。
「妹馬鹿」
「はあ?」
「別にてめえの妹の力ぁ疑ったわけじゃねえよ。ただの感想だ」
「むっ」
「俺ぁ異界に入りゃあ、お守りがあっても、わりと頭がぼーっとすんだがよお。これ付けてるからかそんなこたぁねえし。前にてめえに渡されてた守り石よりずっと効果は強ぇんじゃねえか?」
「むむっ」
「てめえの妹を馬鹿にしてるわけじゃねえよ。分かったか妹馬鹿」
二回も言われて、丞幻は押し黙った。
言われてみれば確かに、蓮丞の力やお守りの効果に疑念を抱いているというより、ただふと湧いた疑問を口にしただけだった。ような気もする。
「……悪かったわよう」
「別に怒っちゃいねえよ」
うっかりむきになった己が恥ずかしくなって、顔を両手で覆う。
実家にいた時、幼い妹の才能に嫉妬を覚えた丞幻は、ずっと素っ気無い態度を取っていた。それでも蓮丞は、「兄様、兄様」と後をちょこちょこ着いてきていた。その愛らしい姿にすら苛ついて、嫉妬して、頭がぐちゃぐちゃになりそうだった。
そんな感情が爆発する前に実家を出て、距離を置いた事が良かったのだろう。
家を出てから激しい嫉妬は鳴りを潜め、落ち着いて自分の気持ちとも向き合えた事で、妹と普通に接する事ができるようになった。嫌な思いをさせた分、全力で構って甘やかしていたらまあ、甘えっ子に磨きがかかってしまったが。
ともあれ今では、蓮丞に嫉妬の感情など抱いていない。むしろ何も知らぬ癖に見かけだけで侮る奴は、全員鉄拳制裁をしてもいいと思っているくらいだ。
互いに対して思考が過激になる辺り、似ている兄妹であった。
「おい、なんか見えたぞ」
「ええ?」
矢凪の声に顔を上げた。
闇の向こうに、ぼんやりと光る鬼灯色。
船が近づく。粗末な板で組まれた足場に、細い柱にぶら下がる鬼灯色の提灯。提灯に描かれた、読めない文字。提灯の向こうに見える、闇の奥に続く道。先ほどと同じような船着き場だった。
私は不機嫌ですと主張しているような声音を、矢凪が上げる。
「あぁ? 戻ってきたのか?」
「いや、多分違う場所だわ。提灯の下がってる場所が違うし、ほらあそこ」
船着き場の柵。縦格子のそこに結びつけられた手拭を指す。先ほどの船着き場には無かったものだ。
「降りてみっか?」
「そうねー。もう少し先に行って、また船着き場があったら考えてみましょ……」
ふと、丞幻は耳をそばだてた。
「……なんか聞こえない?」
「ん?」
矢凪が軽く首を傾け、耳をすます。沈黙がしばしその場を満たし、ややおいてどちらともなく呟いた。
「太鼓……?」
どん、と答えるように音が返ってくる。
どん、どん、どん、どん、と一定の間隔で音が響く。腹を揺らすような振動と重低音は、まさしく太鼓の音だ。
だが、どこから。
丞幻は眉をひそめて、提灯の先に目を凝らす。音はどうも、鬼灯色の向こうから聞こえてくるようだった。
祭りの時のように節がついたものというより、単純に音を鳴らしているだけに聞こえる。新しい太鼓の音がどんな感じなのか、試しに叩いているかのように音に抑揚が無い。
異界の中で突如響いた、太鼓の音。怪しい事この上無い。
目を細めて耳を澄ませていた矢凪が、ふいと目を見開いた。
「……おい」
緊張を孕んだ声に、丞幻は「分かってるわあ」と返す。口元がひくりと引きつったのが、己でも分かった。
どん、どん、と鳴り響く音が、段々と大きくなってくる。――近づいてきている。
提灯の奥に広がる暗がりを、じっと凝視した。
明かり一つ無い深々とした闇。その向こうで、漆黒の塊がごそり、ごそりと動くのが見えた。どん、と太鼓が響くごとに、闇より濃い何かがこちらに近づいてくる。
どん、ごそり。大きい塊だ。どん、ごそり。一歩一歩こちらに。どん、ごそり。音と共に激しく動いている。どん、ごそり。刺すような瘴気が迫ってくる。
丞幻の背を氷塊が滑り落ちた。心臓が早鐘を打つ。
あれは良くない。駄目だ。近づいてくるあれを見てしまえば、まずい事になるという予感めいたものがあった。
「駄目だわ、矢凪。出して、離れるわよ」
「おう」
矢凪が櫓を動かし、小舟がついと離れた。明るい鬼灯色が背後に遠ざかり、また船上の明かりしか頼れるものがなくなる。
――どん、どん、どん。
ぎぃ、ぎぃ、と舟の揺れる音をかき消すような太鼓の音が、鼓膜を打った。
「おい、着いてきてんぞ……!」
「はぁ!?」
思わず振り返る。どん、どん、と太鼓の音が、背後にぴったり着けて来ている。
目を凝らすまでもなく、あの蠢く影も共に着いてきているのだろう。背後の闇が圧迫感を増し、どろりとした生臭さが一層強くなる。
「そんな糞みたいな音でおひねり貰おうなんて甘いのよ! 腕ぇ磨いて出直してきなさい!!」
追いかけてくる音に向かい、罵声を上げる。そんなことを言っている場合ではないのだが、ここで弱気になったら負けだ。
「ちっ……」
舌打ちをした矢凪が、櫓を漕ぐ速度を上げた。手を動かすごとに着物越しで分かるほど筋肉の線が浮き上がり、額にたちまち汗が浮く。せめて櫓がもう一つあれば、丞幻も共に漕げるから速度が上がるし、矢凪の負担も減るのに。
狭い小舟内に、櫓の代理になりそうなものは見当たらない。こんなことなら、提灯の下がっていたあの柱を折り取ってくれば良かった。
ここのものをいくら壊しても、貴墨になんの影響も無いだろうしねえ。
ぼそりと呟き、丞幻は火皿から白煙を吐き出し続ける煙管を口にくわえた。すうぅ……っと胸いっぱいに息を吸い、口をすぼめて吐き出した。
勢いよく吐き出された白煙が、音の主へ向かっていく。小舟の背後に、ぶわりと白い幕が広がった。
「目くらまししたから、今のうちよ矢凪! 離れちゃって!」
無言で頷いた矢凪が、櫓を握り直した。
波立つ事のない水面を、小舟が奔る。太鼓の音は追いかけてくることなく、その場でどん、どん、と苛立ったように鳴り響いていた。
流れる汗を拭わず、黙々と櫓を漕いでいた矢凪が口を開いたのは、背後に広がる白煙の壁が闇に呑まれてしばらくした後だった。
「……なあ」
「なあに」
お葉は、まだ目を固く閉じている。顔色が紙のように白い。手に護身の札を握らせてやっていた丞幻は、船尾を振り返った。
玻璃竹行灯に照らされた矢凪は、ようやく顔の汗を袖で拭く。背後の闇から視線を外さず、唸るような声を上げた。
「さっきのあれが、ここに棲みついたってぇ怪異か?」
「多分、そうだわねー。しかもあれ多分、姿を見たら駄目な奴だわ」
姿を視たら狂うか、死ぬか。もしかしたら吾郎の店の前で弾けたあれは、音の主を見た事でああなってしまったのかもしれない。
「だろうな。音ぉ聞こえたら逃げるでいいよな」
おや、と丞幻は瞬きを一つ。
敵と見るや滅殺一直線てめえが俺を殺すより早く俺がてめえを殺してやるな矢凪が、逃走を選んだ。
「槍でも降るのかしら……」
闇の帳に覆われた空を見上げると、手拭が投げつけられた。
「うるせえ。俺とてめぇだけならともかく、そこの姐さんが見ちまったら面倒だろうが」
それに船上じゃあロクに動けねぇ、と零す。
戦闘第一なのは相変わらずだが、他人を慮って逃走を選ぶ、という選択肢が矢凪の中にあるのを知って、丞幻はほっとした。これで「いや、その女が死んでもいいから戦いたい」と言ったら流石に怒るしこの場で性根を叩き直していた。
「あら、また船着き場だわね」
太鼓の主に対して目くらましの白煙を吹きかけたので、煙管に刻まれた文字は更に減っている。
また奴が出てきたら、次はたまたま持っていた対不審者用激臭玉でもぶん投げてやろうかしら、と考えていた丞幻は、前方に見えた鬼灯色に苦い顔をした。
「矢凪、ちょーっと止まってちょーだい」
「あ?」
不審げに声を上げながら、矢凪は言われた通りに櫓を止める。
人の顔くらいの大きさに見える提灯の明かりに目を凝らし、丞幻はくしゃりと顔をしかめた。
「……誰かいるわあ」
提灯の横に、人影のようなものが見える。姿かたちは闇に隠れて判然としないが、背は低いように見えた。
「ん? …………ああ、いんなぁ」
身を乗り出すようにして提灯の方向を注視した矢凪も、人影を認めたようで頷く。
「人か? あいつぁ」
「さあ……ちょーっと分かんないから、視てみるわね」
告げて、丞幻は萌黄色の瞳を細めた。
怪異の多い貴墨では、力の無いものから視たら死ぬものまで多種多様。見鬼持ちの者達からすれば、怪異のばく物屋のような有様だ。
丞幻は鉦白家の中でも、特に見鬼の力が強い。視え過ぎるのだ。制御しなければ、どれが怪異でどれが人間で、どれが建物でどれが犬猫なのか、さっぱり分からなくなる。
暗夜では、焦点を合わせようとしてもすぐに闇に紛れてしまう。普段は意識して視ないようにしている瞳に力を入れて、丞幻は人影を見つめた。
瞬き二つほどの間を置いて、
「駄目、駄目だわ、あれ」
三つ編みを揺らして首を横に振った。
「人の形をしてるけど、もう魂が食われてるわあ。多分、さっきの船頭と似た奴よ」
提灯の横に佇む人影。その中は、空っぽだった。
生者ならある筈の魂が無く、代わりにどろどろとした穢れの塊が詰め込まれている。あれはもう助からない。
「どうする、戻るか」
矢凪の提案に首を振る。
「戻ったら奴と鉢合わせだわよ。なるたけ気づかれないように、とおーくを回って行ってみましょ」
幸い、水路は広い。小舟の行灯に布を被せ、船着き場から離れるように動かしていけば、何とかなるかもしれない。音で気づかれる可能性はあるが、船着き場からこちらに来ると分かっていれば、落ち着いて迎撃ができる。
鬼灯色の提灯に照らされている女は、俯けた顔を両手で覆っている。今の所、こちらに気づいた様子は――待て。
丞幻の心臓が跳ね上がった。
船が、動いている。
「矢凪!」
「動かしてねえよ!」
水から引き揚げた櫓を掲げて矢凪が怒鳴る。ならどうしてだ、なぜ船が勝手に動くのだと、丞幻は船べりに手をかけ、船横に素早く視線を走らせた。
手だ。幾十、幾百もの手だ。
老若男女様々な手が、船体にへばりつき、爪を立て、小舟を遅々と進ませていた。うっかり小舟を揺らして丞幻達が気づいてしまわないよう、ゆっくり、ゆっくりと、音を立てずに。
まずい、このままでは船着き場に接岸する。
「――ちぃっ」
顔を歪めた矢凪が、片足を大きく振り上げた。舟板に勢いよく振り下ろす。
霊力が爆発し、矢凪を中心に波紋が広がった。弾かれたように、船体に取りついていた無数の手が水底へ沈んでいく。
――どん、どん、どん、どん。
丞幻は歯噛みした。
「――こんな時に……っ!」
今、一番聞きたくない太鼓の音。その音が、ひどく近い。いや、近いというより真横から聞こえる。
丞幻は咄嗟に振り向いた。振り向いてしまった。
いつの間にか船着き場がそこにある。提灯の横に女がいた。足元に丸めた筵を転がした、夜鷹のような風体の女。
女は両手で顔を覆っていた。まるで幼子をあやすかのように、ぴっちりと指を閉じた手で顔を隠している。
どん、どん、どん、どん。太鼓の音は、その両手の奥から聞こえていた。
ばく物=見切り品、安物、げてもの
ばく物屋=ばく物を売る店




