六
丞幻達が奉行所を辞した後、青音は奉行所内にいる与力同心を一室に集めた。何事だろうかとざわめく彼らを視線で制し、滅多に見せない険しい顔で口を開く。
「――ぶらぶら小舟が出たよ」
途端、ざわめきが一層大きくなった。
だがそれは、驚愕と戸惑いの二種類に分かれている。青音の言葉に驚愕しているのは年嵩連中、戸惑っている様子で視線を交わしているのが若い連中であった。
「あの、お頭……」
やがて、一人の若い同心がそろりと手を上げた。
「ぶらぶら小舟、ってのはどんな怪異なんで……?」
「ああ、分からないのも多いだろうね。なんせ、滅多に現れるもんじゃないから」
腕に抱いた猫型の湯たんぽを一撫でし、青音は他言無用だよと前置きしてから口を開いた。
「ぶらぶら小舟ってのは、二十年に一度、貴墨の水路に現れる怪異だよ」
異怪奉行所では、陽之戸に現れる怪異の危険度を甲乙丙丁で分けている。すぐにでも何らかの手立てを打たねば、貴墨や陽之戸全土に害を為す怪異を甲。なにがあっても人に害を為す事の無い怪異は丁。
ぶらぶら小舟の危険度は、甲。一等危険な怪異である。
危険度が高いわりに知る者が少ないのは、二十年に一度しか現れないという性質によるものだろう。
記録に残る中では百年ほど前から貴墨に現れ、長月に現れては人を無差別に攫っていく。ほとんどの犠牲者が帰って来ない中、たまさか戻ってくる者もいるのだという。
しかし皆正気を失っており、なにがあったかを聞き出す事は困難であった。
戻ってきた者達のあやふやな発言を繋ぎ合わせた所によれば、彼らは貴墨内を巡る小舟に乗り、気づいた時には異界に連れ込まれていたのだそうだ。そして小舟には気味の悪い船頭が一人乗っており、淡々と櫓を動かしている。
「代々の奉行が調べて、そこまでは分かったらしいんだけどね。さて、どうやって戻ってこれたのかと言えばそこが分からない」
話がそこに及ぶと、誰も彼もが奇声を上げて暴れ出し、話にならなくなってしまうのである。他者の記憶を読み取る術を使ってみてもあやふやであり、詳しい事は分からず仕舞いなのだ。
長きに渡って人を攫ってきた怪異であるが、全貌はほとんど明らかになっていないのが現状なのだ。
「ちなみに、今年がその二十年目だよ」
「しかし、三件の怪事件はどれも道端で倒れていましたよね。今日倒れていた彼らも、道端に」
と、言いかけた若手を年配の同心が遮った。
「ぶらぶら小舟が現れてる時はな、ひでえ臭いのする瘴気と一緒に倒れてる奴がちらほら出てくんだ。大抵は死んじまってんだが、あの二人みてえに怪異に対して耐性のある奴の中には、生き残った奴もいる」
「ははあ……」
「そいつらは口を揃えて、『黒い粘液をぼたぼた垂らした奴の頭が膨らんで、破裂した』って言いやがるんだ。それで六十年くらい前のお頭が、その怪死事件が長月にしか起こらず、二十年ごとに起こる事を確かめて、『こいつぁぶらぶら小舟と関係あるんじゃねえか』となったのさ」
他の年嵩の同心も口を挟む。
「それで、年をかけて調べた結果よう、確かに二十年ごとの長月に、行方不明者が多くなるころに怪死事件が頻発してたんで、こりゃあ確かにってなってな。証言を集めてみた結果、船に乗って戻れなくなった奴がぶらぶら小舟の手先となったかなんかして、穢れをぶちまけてんじゃねえか、ってことになったのさ」
「成程」
初めて聞く話に、若手達は何度も頷いている。
丞幻達が運ばれてきた時も、まとっていた穢れからぶらぶら小舟に関連するものだろうとは、見当がついていた。
青音がぶらぶら小舟を詳しく丞幻達に説明しなかったのは、これをみだりに触れ回る事を禁じているからだ。交通の要である水路に潜む怪異がいるとあっては、貴墨中が恐怖と混乱の渦に叩き落とされてしまう。
と、ここで眩しい銀髪の若手同心が片手を上げた。東丸村より戻ってきていた笹山為成である。
「それでお頭、俺達はなにをすればいいんだ?」
「ぶらぶら小舟を封印、あるいは滅するよ」
青音が簡潔に宣言すると、どよめきが部下達の間に走った。
愛猫・しらたまを模した湯たんぽを撫でながら、青音は憤懣やるかたないと言った様子で声を上げる。
「代々の異怪奉行は二十年に一度、この時期になれば小舟に守り札を貼るばかり。誰も根本からちょん切ってやろうという気概が無いとは、どういうわけかね」
その言葉に、古参の与力や同心達が気まずげに視線を反らす。
青音の言う事はもっともだ。だが、ぶらぶら小舟という怪異に対して、そこまで深く取り組めない、というのが代々の奉行の考えであった。
毎日、貴墨のあちこちで怪異事件は起こっている。中には、対応を間違えばたった一刻で人を数十人攫って殺す怪異とている。それを考えれば、ぶらぶら小舟は十数人もの人を攫っていくが、現れるのは二十年に一度、それも長月の十日ばかりだ。
それ以外の年には影も形も見せないのだから、熱の入った取り組みを見せる者が少ないのも頷ける話であった。
「お頭、お言葉ですが……大祓祭も近く準備に忙しい中、ぶらぶら小舟に人手を多く割くのはどうかと……」
青音はその同心をきっと見据えた。
「そうかい。ならあんたの娘がぶらぶら小舟に連れ去られたら、あんた、今と同じ言葉を言えるかい」
「い、いいえ……。ですがそれは、もしもの話であって」
「そうだね、もしもの話だ。じゃあおととい駆け込んできた母親に、同じ事を言えるかい。お宅の娘を攫ったのはぶらぶら小舟の可能性が高いが、人手を割けないから諦めてくれと」
――娘が、お勝がいなくなったのです。ちゃんと手を繋いで船に乗ったのに。ああ、ああ、どこに行ってしまったの。お願いです、お願いです。探してください、探してください。
身も世も無く泣き崩れた女の叫びが、青音の耳にはこびりついている。
船に乗った瞬間、いなくなったという女の娘。青音に憑く神のお告げによれば、その娘もまた、ぶらぶら小舟に誘われた犠牲者だという。
「……」
押し黙ってしまった同心、それから他の面々をぐるりと見渡した。
ただの小さな老婆だと、侮りを寄せ付けないような凛とした声を上げる。
「力無き民を怪異から守るのが、あたいら異怪奉行所だ。何年かに一度しか現れないからと、日和見決め込む理由になるものかね。さあ、分かったらとっとと準備をおし!」
〇 ● 〇
絹のような薄雲が空にかかっている。夕焼けが雲を染め上げている様子が、まるで橙色の布のようだ。
吾郎の所に飲み食いした分の代金と詫び代を置き、丞幻達は船着き場で船を待っていた。提灯に灯る青い光の下、他に二十人ほどが船を待っている。
「意外と長いこと寝てたのねえ、ワシら」
店で飲んでいた時は昼過ぎだったから、大体二刻か二刻半くらい気絶していたようだ。
「道理で腹ぁ減ってるわけだ」
腹の辺りを撫でながら、矢凪がきょろりと周囲を見渡す。船着き場の近くには、屋台や掛茶屋がいくつかある。どこからも良い匂いが漂ってきて、丞幻の腹の虫が小さく鳴った。
昼に食べた春駒屋は美味いが量が少ないし、その後食べたのも漬物だけだ。
船着き場に入ってきた小舟から三人下りて、同じ人数が乗っていく。この調子だと、自分達の番まではしばらくかかりそうだ。
「そうねー。ちょっとワシも小腹減ってるわあ」
「おい、その炙り餅一つくれ」
「あ、ワシにもちょーだい。お前一人だけなに美味しそうなの食べようとしてんのよ」
餅をひっくり返している店主の年増女に銭を渡して、炙り餅を受け取る。
細い竹串に平たく成形した丸餅を二つ突き刺して炙り、表面に味噌を塗りつけたものだ。湯気の立つそれを一口齧れば、焼き味噌の香りがふわりと鼻を抜ける。
丞幻は萌黄色の瞳を緩ませた。
美味しい。餅の中にくるみが練り込まれているようで、齧る度にこりこりとした歯ごたえを感じた。時々、大きいくるみに当たるとなんだか得をしたような気がする。
「この味噌美味しいじゃないの。くるみ餅が甘いから、ちょっとしょっぱめなのがいいわー」
少し塩気の強い味噌が、くるみ餅の甘さを一際引き立てている。これは美味い。餅も柔らかく、きめ細かい。この炙り餅だけの為に、またここに来てもいいくらいだ。
「なあ姐さん、そこに並べてんの全部寄こせ」
餅をかじりなつつ、網に乗せられた十本ほどの串を強奪しようとしている矢凪の頭をしばく。他にも食べたい人がいるだろう。
ちっ、と舌打ちし、「じゃあ三つ」と銭を渡して串を三つ貰う矢凪。一つ頂戴と指を立ててみたが無視された。
「ったく、ケチねえ。姐さん、ワシももう一つ……」
と、丞幻は指を一本立てる。
その時、ざわり、と背後で戸惑ったような、緊張感に満ちたざわめきが上がった。
「なんだなんだ」「あれは……」「確か西雪三丁目の……」「あっ、ちょっとお葉さん!」
ざわめきが波のように押し寄せてくる。なんだ、と背後を振り向こうとする前に、背中で揺れる三つ編みが思い切り引っ張られた。
「お前かああぁぁ!!」
叫喚。同時に衿を掴まれ、力任せに揺さぶられる。
「お前があぁ!! お前が娘を攫ったんだ! お前が、返せえ! お勝を返せええ!!」
「ちょっ、待って、なに!? いたっ、痛いって!」
突然の暴挙に、丞幻は思わず叫んだ。甲高い女の絶叫と共にぶちぶちと髪が引きちぎられ、胸元や腹を殴られ、叩かれる。痛みに顔をしかめながら犯人を引き剥がそうとするが、半狂乱で叫ぶ相手の力が異様に強い。
周囲は女の剣幕に驚いているのか、遠巻きに見ているだけだ。
「お勝を、返せ! お勝がなにをした、あんたになにをした!! 返せ、私の娘を返せええぇ!!」
「っ!」
平手が顔面を襲って、思わず目を閉じる。鼻面をしたたか打たれた。絶叫と共に頬や鼻に掌が叩きつけられる。
「おい、落ち着け姐さん!」
矢凪の声がして、髪から手の感触が消えた。衿も解放され、丞幻は大きく息を吐いた。髪を下に引っ張られたせいで痛む首を擦りながら、矢凪に羽交い絞めされた女を見る。
凄惨な姿の女だ。
元はきちんと結われていただろう髪はがっくりと崩れ、垢じみた着物は濡れそぼって肌に張り付いていた。草履の無い右足を覆う足袋は、泥と草に塗れている。
ぐしゃぐしゃに絡まった紐のような毛先に、銀簪がかろうじて引っかかりぶらりと揺れていた。
気狂いのように、矢凪の腕の中で女が暴れている。喉から迸る絶叫はもはや、人のものとは思えない。
「兄さん、大丈夫かえ?」
「ああ……ありがと姐さん、大丈夫よー」
餅を売ってくれた年増女が差し出してくれた手拭をありがたく受け取り、丞幻は顔を拭く。滅茶苦茶に叩かれたせいで、鼻血が流れて髭を濡らしていた。
「お勝、お勝うううぅぅ……」
野次馬達が、そろそろとこちらに近寄ってくる。
「兄さん、男前に磨きがかかったんじゃあねえかい?」
「あら本当? そら嬉しいわ。鼻血出した甲斐があったってもんよ」
飛んだ野次に肩をすくめて笑い、丞幻は「お勝」と名を繰り返し暴れる女に視線を向けた。
「……ところで、あの姐さん」
途端に、周りの女衆が口を開いた。
「ああ……ここからちょっと行った先の長屋に住んでる、お葉さんってんだけどね」「良い人なんだよ、いつも足の悪いあたしに代わって、買い物に行ってくれたりさあ」「ただ二日前に、娘さんがいなくなったらしいんだよ。旦那に先立たれてから、お勝ちゃんをそりゃもう可愛がってたからねえ」「小舟に乗ろうと手を引いて、目を離したらいなくなってたらしいよ」「そうそう。もうかわいそうなくらい泣いててねえ」「それから、まあちょっと……誰彼構わないで、『お勝を返せ!』って掴みかかるようになっちゃってね……」
掌中の珠と育てていた娘が突然いなくなったのでは、心が千々に乱れても仕方が無い。
急に襲われたこっちはたまったものではないし、顔は痛いし髪も引きちぎられたが、そういう事情ならばと丞幻はこめかみをかりかりかく。
周囲も、お葉に同情的な視線を向けた。
「お勝……お勝を返せえええぇぇぇ! お前っ、お前がああぁ!!」
叫ぶお葉が、蛇のように激しく身をくねらせた。髪を振り乱して暴れ、矢凪の拘束を無理やりに振りほどく。
「ちょっと、姐さん落ち着いて! ね、ね!」
掴みかかってくるお葉の身体を押さえ、丞幻は声をかける。
だがお葉には既に、その声が聞こえていないようだった。血走った目が零れんばかりに見開かれ、涙の枯れ果てた眦は裂けて血を流していた。
「お葉さん、おやめよ! その人はお勝ちゃんを攫った人じゃないって!」「ねえ、お葉さんってば!」「落ち着きなよ!」
金切り声が夕闇に木霊した。
女とは思えない力で押され、丞幻は思わず二、三歩後ろに下がった。踵が空を切る。
「げっ」
背後には何も無い。水路に張り出した船着き場の先に、丞幻はいつの間にか辿り着いていた。このままでは、二人まとめて水路に落ちる。
「おいっ、馬鹿!」
泡を食ったような声を上げて、矢凪が地を蹴った。
伸びた手が丞幻の衿を掴むが、半ば落ちかけていた丞幻とお葉を引き戻せず、己も均衡を崩す。
糸が絡まり合うように、諸共に水路に転落する。三人を飲み込んだ水面が、夕日色の飛沫を撒き散らした。




