五
〇 ● 〇
ひっ、ひっ、とお勝はしゃくりあげた。
「おっかあ……おっかああ……」
母を呼びながら、泣き濡れた瞳を手の甲で擦る。まだ小さいお勝は、一人で小船に乗れない。母に手を引かれて小舟に乗ったのだ。なのに、小舟にいるのはお勝一人で、他には誰もいない。自分の手は、母の手を握った形のまま空気を掴んでいた。
まだ昼だったのに、周囲は真っ暗だ。押し入れの中に入って、戸を閉めた時よりも暗い。舳先と船尾に小さな明かりがあって、船頭が船尾で舟を漕いでいるのが見える。
この船頭がまた怖くて、お勝はぐずぐずと鼻を鳴らす。
こちらを一度も振り返らないし、周囲が暗くなっても何にも気にしない様子で、ぎいぎいと舟を漕いでいる。それがなんとも言えず不気味で恐ろしくて、お勝は船頭から一番遠い所に座り込んで泣いていた。
「おっかあ……おっかねえよお……おっかぁ……」
ぐず、と袖で鼻水を拭いた時、「おぉーい」と前の方から声が聞こえた。
それがまるで、父のように低く温かみのある声だったので、お勝は思わず伏せていた顔を上げる。
漆黒の向こうに、ぽっ、と蛍のように光るものが見えた。それはどんどん大きくなり、たちまちその正体を明らかにする。
「そっちの舟は危ないよ。こっちの舟にお乗りよ」
今、お勝が乗っているのと同じような小舟だった。ただ、向こうの方が明かりが大きくて眩しい。こちらの無口な船頭が、櫓を動かす手を止めた。前方から来た舟が、ぴたりと隣で止まった。
「お嬢ちゃん。そっちの舟は危ないよ。こっちの舟にお乗りよ」
闇に慣れてしまった目を、一生懸命ぱちぱちとさせてお勝は声の方向に視線を向ける。
明かりに照らされて、編み笠を被った男が笑顔を見せているのがお勝の目に映った。優しそうな顔立ちの、若い男の船頭だ。父に似た声でこちらにそう声をかけ、手を差し伸べてくる。
「おっかあの所まで、送って行ってあげるよ。こっちの舟にお乗りよ」
「おっかあの……?」
おずおずと聞くと、男は笑顔で「そうだよ」と頷いた。
おっかあの所に連れて行ってくれるのか。今お勝が乗っている舟の船頭より、男の方が笑顔だし優しそうだし、怖くないように思える。加えて父に似た声というのが、幼いお勝の警戒心を緩める一助となっていた。
さあ、と船べりを超えて差し出された手に、お勝は小さな指を伸ばした。
〇
ざっざっざっ、と足早に夜鷹の千代子は道を進んでいた。
「ああ、くそっ! なんなんだよう、一体」
顔をしかめて、足元にあるだろう石ころを蹴り飛ばす。豆粒くらいの小さなそれは、ぽんと飛んで闇の中に消えて行った。
筵を抱え直し、千代子は舌打ちをする。
いつもの場所で立っていたが、今日はあまり客が捕まらない。これでは酒代にもなりゃしない、と千代子は別の場所に足を伸ばしてみる事にした。それで小舟を使い、適当な船着き場で降りたはいいが、いつまで歩いても人気が無い。
「こんな道、貴墨にあったかねえ……」
いい加減、歩き疲れたので立ち止まり、千代子は額を軽く拭った。
多分、畦道なんじゃないか、と思う。歩く度に足首に草が触るし、どこからか水の流れる音がするからだ。ただ、周囲は闇に包まれて全く様子が伺えない。空を仰げば分厚い雲がかかっているようで、月はどこにも見当たらない。
「こんなに暗いんじゃ、玻璃竹でも持ってくれば良かったよう」
月が明るいから大丈夫と思ったのに。千代子はつきつきと痛む目頭を押さえ、ため息を吐いた。
数年前、目の病を患ってしまったせいで事あるごとに目が痛む。最近はそれに加えて視界が霞み、ぼやぼやとすることが多い。先ほど、船を降りる時も視界が霞んで、船着き場にかかる提灯の文字が見えないくらいだった。
……そういえばよく見えなかったが、あの提灯は青色だったろうか。なんだか普段と色が違ったような気がするが、気が急いていた千代子は気にせず通り過ぎたのだ。
いつまで経っても明かり一つ見えない畦道を歩き続けるのにも疲れ、背後をちらりと振り返った。
「……戻ろうかねえ」
だがもう一度船代を払えば今夜の稼ぎが無くなってしまう。がっくりと崩れた結い髪を苛立ち紛れに爪で引っ掻いた時、前方から太鼓の音が響いてくるのに千代子は気が付いた。
どん、どん、と腹に響く太鼓の音だ。こんな夜更けに太鼓を鳴らすなんて、ありえない。人でなければ、怪異の仕業か。
千代子は、ぶわっと二の腕に浮いた鳥肌を無視して、闇の奥を睨み据えた。
「ふん……怪異が怖くておまんまが食えるかってんだ」
強がるような台詞を呟いて、千代子は髪にさした笄を引き抜ぎ、武器代わりにぎゅうと握りしめる。
目の前に、ふぅ……っと人が現れた。
中肉中背の、どこにでもいそうな白髪の老人だ。思わず「わっ」と声を上げ、千代子は二、三歩後ろによろめいて尻餅をついてしまった。
「なっ、なんだよ爺さん! いきなり出て来るんじゃないよ! 驚くじゃないか、馬鹿野郎!」
打った尻を擦りながら、千代子は笄を振り上げ荒い口調で怒鳴る。
老人は人の良さそうな顔を心配そうに歪めると、千代子に向かって首を横に振ってみせた。
どん、どん、と太鼓の音は絶えず響いてくる。
「いけないよ、いけない。畦道を歩いちゃいけないよ」
「はあ!?」
ひらりと、老人の左袖が揺れる。老人の左腕は肩から先が無かった。
いけないよ、いけない。畦道を歩いちゃいけないよ。
老人は、またそう口にする。そうして、ふぅ……っと現れた時と同じように、その姿は闇に溶けるように消えてしまった。
一拍遅れ、千代子の悲鳴が漆黒に消える。
どん、どん、と太鼓の音が先ほどより、近づいてきていた。
〇 ● 〇
額に濡れた感触を感じて、ふ、と丞幻は目を開けた。額に手をやると、濡れた手拭が乗せられている。
「あらぁ……?」
天井の木目が見えて、どうやら自分は横たわっているらしいと分かった。軽く声を上げて身を起こすと、身体の上から掛け布団が滑り落ちる。
周囲を見渡そうと頭を振った途端、眩暈に襲われた。
「っとと……」
布団に手を付いて倒れるのをこらえ、丞幻は揺れる視界が治まるのを待ってから視線を巡らせた。
ひねもす亭ではない。知らない部屋だ。十畳はあろうか。閉め切られた障子の向こうには人の気配がざわめいており、時折人影が横ぎっていく。
その部屋の中心に敷かれた布団に、丞幻は寝かされていた。拳一つ分の隙間と開けて敷かれた布団の上には、矢凪がこちらに背を向けて深い呼吸を繰り返している。
「あー……そうそう、気絶しちゃったんだわ」
先の事を思い出して、丞幻は苦虫をじっくり味わったような顔をした。
大きく、大きく膨らんだ男の頭が破裂した後。
そこから飛び散ったのは血でも骨でも脳味噌でもなく、悪臭のする黒い穢れだった。
それが四方八方あちらこちら……近くにいた丞幻達にも雨のように降りかかり、まともに浴びたせいで気を失ってしまったのだ。
「あーもう、最悪ー。臭い移ってないでしょーね」
着物の袖を鼻に寄せて嗅いでみるが、いつも通り墨の匂いがするだけだ。
良かった。これでもしあの、魚が腐ったようなえげつない臭いが残っていたら、シロとアオに家出されてしまう。
胸を撫で下ろしていると、ほとほと、と障子が叩かれた。
「どうかね、起きたかい?」
障子の外から、穏やかな老婆の声がする。小柄な影が障子紙に映っていた。
「はあい、起きてるわよー」
「ん……?」
「もう一人も今起きたわあ」
矢凪がのそりと起き上がり、眉をしかめて己の袖を嗅ぐ。全く丞幻と同じ事をしている姿に、思わず肩を震わせて笑っていると障子が開いた。
「そりゃあ良かった。運び込まれたときゃあ、お前さん達二人とも真っ白な顔でねえ、おまけにもう臭いったら。まあ、まとわりついてたものは祓ったから、もう体調も良いし身体も臭わないだろう?」
にこにこと歯抜けた口で笑いながら入ってきたのは、柔和な色を青い瞳に宿した老婆だった。白髪を後頭部でくるりとひっつめ、両手で香箱座りをした猫を象った湯たんぽを抱いている。
「あら」
丞幻一つ瞬いて、布団から出て畳の上に正座をした。矢凪に隣に来るよう促して、畳に手を付き頭を下げる。
「お久しぶりでございます、異怪奉行様。この度は私と助手の穢れを清めていただき、感謝の念に堪えません」
「ああ、ああ、止めとくれ。奉行と言っても、元はただの婆だよ。へりくだられちゃあ、尻から頭の天辺までむず痒いってもんさ。いつもみたいに青ばあちゃんと呼んでおくれ」
同じように頭を下げた矢凪が、ひそりと小声で尋ねてきた。
「……青ばあちゃん?」
「そ。こちら為成殿のお頭、染崎青音様。ワシん家でよく、お茶を飲んで行かれるの」
「あんたは初めましてだね。あたいは染崎青音。気軽に青ばあちゃんと呼んどくれ」
奉行に任じられたばかりの青音がひねもす亭を訪ねてきたのは、ちょうど昨年の今時分。
秋だというのに、早雪がちらつく中に訪ねてきた彼女は、茶を飲んで菓子を食べ「まあ、なんかあったらいつでも言いな」とだけ言い、帰って行った。近所の人が茶を飲みに来た、という感じであったので、なにをしに来たのかと身構えていた丞幻は、思わず気が抜けたものである。
その後も何度か訪ねてきたが、その度にアオとシロに菓子や風車を土産に渡し、茶菓子を飲み食いして帰っていくだけだ。
堅洲國に通じる井戸を封じた屋敷、などという危険な場所で暮らしている丞幻を、心配して訪ねて来てくれるのだというのは三度目くらいで気が付いた。
当初は丞幻も、異怪奉行ということで丁寧に対応していたのだが、先のように「むず痒いから止めとくれ」と言われ、あれやこれやと相談した結果「青ばあちゃん」と呼ぶ事に落ち着いたのである。
閑話休題。
「東丸村では、うちの馬鹿が迷惑をかけたね。あんたを妬んで憎んだ挙句に自滅とは、全く浅沼もろくでもない奴だよ」
部屋に入って来た青音は、懐から小判を二枚取り出すと、丞幻の前に差し出した。
ぎょっと丞幻は目を剝く。
「ええと、これは……」
「馬鹿がかけた迷惑料、それから為成が世話になった礼だよ。とっていておくれ」
迷惑料にはちと多い気がするが。
「はあ……でも、こんなによろしいのですか?」
「婆からの小遣いだとでも思っておくれ。情報料も含まれてるからね」
それと、と皺に埋もれた青い瞳が丞幻を睨んだ。
「へりくだるのは止めとくれと言ったはずだよ」
「我が家に遊びに来られる時ならばともかく、奉行としての務めを果たされている今、そう気安く呼ぶことなどできません。どうかご寛恕を」
「ふん……しょうがないね。とりあえずほら、小遣いは懐に入れちまいな」
「では、ありがたく」
やっぱり高すぎる気がするが、そういう事ならと小判を受け取り、懐に入れる。隣の矢凪が、不思議そうに首をかしげた。
「情報料?」
困ったように青音がため息を吐いた。
「あんた達が出会ったものについての情報さ。同心達が駆けつけた時は、目を回してぶっ倒れてるあんた達と、周囲一帯にぶちまけられた悪臭漂う穢れの塊しかなくてねえ」
それにね、と青音は内緒話をするように声を潜めた。
「あんた達で四件目なのさ。あれに塗れて、倒れてた奴は」
「四件目?」
「年齢も、性別も、日付も、ばらばらさね。ただ全員、ぶっ倒れてるのだけが発見されてるんだよ。現場に残ってた気配からして、恐らく同一怪異の仕業と思うけどねえ」
「だったらよお。俺達にわざわざ聞かなくても、そいつらに聞きゃあいい話じゃねえか」
ぶっきらぼうな矢凪の言葉に、青音は皺くちゃの顔に苦々しい表情を浮かべた。
「息があったのはあんた達だけだよ。他はみんな、あたいらが駆け付けた時点で息が無かったのさ。一人だけ息があったがずっと高熱で寝ついたまんまでね、昨日の夜に神さんの元に逝っちまったよ」
「そうですか……」
破裂した頭から飛び散った穢れの量は、尋常ではなかった。あれを全身くまなく浴びれば、確かに徒人はひとたまりもない。
丞幻は血筋のおかげで、そういった穢れに対する耐性は高い。それで助かったのだ。矢凪は渡した守り紐が身を守ってくれたのだろう。
「怪異を絞り込もうにも、情報が少なくてね。あんた達の話を聞きたいんだよ」
「分かりました。我々の話でよろしければ」
なにこいつ敬語使ってるんだ気持ち悪い、とでも言いたげな矢凪の視線を丸っと無視して、丞幻はかくかくしかじかと経緯を説明した。




