四
橋のたもとに建つ春駒屋は、屋台ではなく店内で天婦羅を揚げる珍しい店だ。
そこで天婦羅とうどんを食べた後、蓮丞はシロとアオに付き合う事になった。シロ達贔屓の手妻師が、近くの神社で手妻を見せているのでそこに行った後、ひねもす亭に戻って双六やかくれんぼなどをして遊ぶらしい。
「あら、いいの? 折角だからワシ、お前のこと存分に甘やかしてやろうと思ったんだけど」
「それは夜にしてもらうのでいいです。泊まる予定なので」
「泊まるの」
「泊まります」
蓮丞は力強く頷いた。そんな彼女を、ちび二体がうっきうきで引っ張って行く。
手を振ってそれを見送り、丞幻は隣に視線を向けた。
「矢凪ー、お前この後なんか予定あったりする?」
「別に」
怪異の取材に行く時以外は、矢凪は好きに過ごしている。
主にシロ達の相手をしたり、狂った丞幻を簀巻きにしたり、寝ていたり、散歩に行ったり酒を飲んでいたり、酒に合うつまみを買ってきたり、酒を買ってきたりだ。
「……こうして思い返すと、ほんっと酒ばっかねえ、お前」
ひねもす亭地下の酒蔵にある大量の酒は、矢凪が来てからというもの消費が激しい。既に大樽が十ほど空になって、蔵の隅に積み上げられている。どんだけ飲んでいるのだ本当に。
「まーいいわ、暇ってことね。んじゃちょっと付き合って」
「なんだ、怪異の取材か?」
「違うわよー」
向かった先は水路の脇にある狭い通りの、小さな店だった。店といっても、なんの店かと看板が出ていないので、一見すれば分からない。
申し訳程度に掲げられている暖簾も、日に焼けてくすみ、元の色が判別不可能になっていた。文字らしきものが書いてあるが、それも褪せて判読できない。
「ごめんくださいなー。吾郎の旦那はいるかしらぁ」
「……」
声をかけて開け放たれた戸をくぐる。むっつりと押し黙った、壮年の男が奥から出てきた。
丞幻はへらりと笑って、片手を上げた。
「久しぶりねー、旦那。二人、いい?」
「……」
頷いて、吾郎は席に着くよう無言で促した。狭い店内に小上がりは無く、卓が三つあるばかりだ。
丞幻に続いて店内に入った矢凪が、すんと鼻を動かした。
「漬物か?」
「そ。吾郎の旦那は漬物作りの名人でねえ、漬物をつまみにして、酒を出してくれんの。天婦羅は美味しいけど、ちょーっとくどかったじゃない? ここの漬物で口さっぱりさせましょ」
席に着いてすぐ、吾郎が皿に盛った漬物と徳利を出してきた。
漬物は茗荷に胡瓜に茄子。胡瓜には胡麻が散っている。箸は無く小楊枝が数本、皿の脇に乗せられていた。
く、と猪口をかたむけて、矢凪が眉間に皺を寄せる。
「随分薄いな」
「そういうもんだから、しょーがないでしょ」
丞幻も、縁が少し欠けた猪口を口に運ぶ。
お上より酒造業者に課された税は基本、酒量に応じて決まる。故に少しでも税を安くする為、濃度の高い酒を作る事で量を抑えて出荷し、酒屋で水を加えるようにしているのだ。
吾郎が出している酒も、そういうものであるから味は薄い。
ちなみに、ひねもす亭に置かれた酒は薄めていないので味も酒精も非常に濃い。
「あーあ、また眉間に皺寄せて。お前ねえ、それ戻らなくなったらどーすんの」
「うるせえ。……なんか話があるんじゃねえのか」
「んー、まあねえ」
生返事をしながら酒で唇を湿らせる。矢凪が膝の上に頬杖をついた。
「なんだ、俺があの連中とぐるだとでも疑ってやがんのか?」
「疑ってないわよ、なんでそーいう話になんの」
「自分で言うのもなんだが、怪しいだろうがよお。荒れ寺に埋まってた男なんざ」
丞幻は軽く肩を揺らした。
「そうそう、そうだったわー。お前、為成殿に埋められてたんだっけ……んふふふ」
あの時は夏の暑い盛りで、曾根崎屋の監禁執筆から帰る途中だった。それがもう、随分昔に思える。
「お前、腹芸できる質じゃないでしょ。ハナから疑ってないわよ。ほんとーに、ただ色々話したいだけよ」
ゆらり、と猪口を揺らす。
「かれこれ一月以上は一緒にいるわけだし。たまにはゆっくり、お互いの事について聞いたり、話したりしたいなーって思っただけ」
「ふん……」
「一方が酒を注ぎながら、質問を一つ。そしたらもう一方が飲みながら答える。酔いが回ったら終わりにしましょ。どーお?」
徳利を取り上げて、矢凪は丞幻の猪口に酒を注いだ。
「ずうっと気になってたんだがよお、なんだそのなよなよした話し方ぁ」
「あ、お前から始めるの。いいけど。知らない? 三代目小山田翁太の『男民草一丁目』って。翁太演じる中田某が、こんな話し方なのよ。――『このワシがちょおっと動いてみなさいな、各々方の首なんぞ、凧よりも軽く飛んでしまうわよ』ってね。ちーちゃい頃にその芝居見て、気に入ってねえ。真似してるってわけ」
「ふうん」
「次ワシね。聞こう聞こうと思ってたんだけど、矢凪はどこの生まれなの。貴墨?」
「や、曽葱見国。貴墨に来たなぁ、五十年くれえ前だ」
「曽葱見国って言ったら、だいぶ北の方じゃない。へえ、そっちの出身だったの」
「ん。山ん中の村だったから、雪がひでえもんだった」
「冬は雪が首まで積もるし、かいた雪は道の脇に固めて壁のようにするんでしょ? 見てみたいわあ」
「ちび共とはいつ会ったんだ?」
空皿が下げられて、蓮根と長芋の漬物が運ばれてきた。
「十年前よ。ワシが家を出たばっかの時に、異界に迷い込んじゃってね。そしたら真白ちゃんと蒼一郎ちゃんが先客でいたの」
「へえ」
「お前、なんでそんなに戦い好きなの。そんなに戦いって楽しいもん?」
「おう。戦う楽しさってなぁ、いつの世でも変わらねえからな」
「天下統一前の大戦時代って、お前にとっちゃあ楽園みたいなもんよねえ」
「……なんで俺ぁ五百年くれえ前に生まれなかったんだろうな……」
「やめて。『まあ今は戦も無えし、しょうがねえ、こいつで我慢してやるか。おやつくらいにはなんだろ』みたいな目でワシを見ないで。今は拳の語り合いをする時間じゃないわよ」
「ちっ。……そういや、てめえが当主じゃあねえんだな」
「そ。あの子はワシより才能あるからねー。父上がそう決めたのよ」
矢凪の猪口に、酒を注ぐ。徳利が空になった。すぐに吾郎が新しいものを運んでくる。
「あ、そうだ。てめえに見合いの話が来てたぞ」
丞幻は思わず酒を噴き出した。
「んごっ!?」
「近くの農家の婆が、『お宅の先生、後添えを貰わんのけ? おらん家の孫が良い年じゃけ、どうじゃ?』っつってた」
「あんっの、お節介婆さん……」
「結婚してたのか、てめえ」
「しとらんわよ。ワシねえ、結婚できないの」
「なんで」
次は自分が質問する番だった筈だが、まあいいか。
「鉦白家に生まれたなら、例え当主にならなくても色々と役目はあんのよ。異怪奉行所で働いたり、天帝にお仕えしたりね。ワシ、ぜーんぶそういうの放棄してきたの」
「へえ」
「でもね、『嫌ですやりたくないから家出ます』って言って出られる家じゃないのね、ウチは」
祓家の頂点たる家に生まれたからには、生まれながらに課された責任というものがある。
それを放棄する事を許された代わり、丞幻は跡継ぎ問題を起こさないよう婚姻を結び、子孫を残す事を許されていない。。
天帝の住まう雲涼殿への立ち入り、天帝への目通り、一族総出で行う儀式への参加、鉦白家の名を名乗る事も禁じられている。
「まあ要するに、勘当みたいなもんよ。ただ、家族として会う事だけは許されてるけどね」
「この守り紐頼んでるじゃねえか」
矢凪が、襟足で結んだ紐を指す。
「それはね、ちゃんとお金払って作ってもらったのよ。家族のよしみじゃなくて、あくまで鉦白家に依頼して作ってもらった、っていう形にしたの」
「へえ」
お猪口を口に運んで、矢凪が何の気なしに呟く。
「てめえが家を出た時に泣いたんじゃねえの?」
「蓮丞? まあねえ……ワシが家出た時、あの子まだ八歳だったからねえ」
「ふん……ひでえ兄貴だな」
「そんなん分かってるわよ。そういうお前はどうなの、兄弟いるの?」
「母さんはいたが、父も兄弟もいねえよ」
「へえー、そうなの。妹とか弟とかいたら、お前ぜーったい猫可愛がりしそうよねえ」
シロとアオへの態度からして、余裕で想像できる。構いすぎて鬱陶しがられ、一人静かに落ち込んでいそうだ。
「んっふふふふふ……」
「あ?」
笑う丞幻の脛に、不愉快そうに片眉を上げた矢凪が蹴りを一つ。
「おあぁ……!」
「なに笑ってんだよ、てめぇ」
「す、脛は、脛は止めてよ矢凪……死ぬほど痛いんだから……あ、旦那。漬物のお代わりを」
ちょうだい、と言い終える前に、冷たい手でうなじを撫で上げられたような寒気が襲った。
暖簾の向こうに勢いよく視線を向ける。
「……なにかしらん」
「外だな」
お代わりを持ってきた吾郎に断りを入れ、外に出る。
昼過ぎの日差しが、通りを照らしていた。一跨ぎできる程度の細い水路の上を、秋茜がついついと飛ぶ。
ごぼごぼと、どこからか濁った音が聞こえた。
腐った魚のような、どろりとした悪臭が通りに漂う。丞幻は咄嗟に、鼻を手拭で覆った。酷い臭いだ。厠の方がまだマシと思えるくらいである。
背後で、「ぐぅっ」と呻く声がした。見れば吾郎が顔をしかめ、鼻をつまんでいる。見鬼持ちの丞幻や矢凪以外でも、この臭いは感じ取れるらしい。
「……ぅえ……ふえ…………ぅえぇえ…………」
ごぼごぼ、ごぼごぼ。
粘度のあるものを吐きだすような音と共に、通りの向こうから、よろめくようにこちらに歩んでくる人影が目に入った。
袖口で鼻を覆った矢凪が、剣呑に目を細めた。
「……なんだ、あいつぁ」
男だ。
草履は片方脱げ、尻端折りをした着物の襟元はだらしなく緩んで、肩からずり落ちてしまっている。背はやや低いが筋肉質であり、身体を動かす職の者だろうというのは予想がついた。
「ぅえぇ……ふぇっ、ぅええ……」
びちゃちゃ、と音を立て、男の口から黒いものが吐き出された。粘度のある墨のようなものだ。
呂律の回らぬ舌を動かして喋る度に吐き出されるそれは、胸を伝って地面に落ち、てらてらと光る。
「怪異か?」
「いや。怪異本体っていうより、それに襲われて、取り込まれた人間じゃないかしらん。かわいそうだけど、ありゃ助からんわね」
怪異、と聞いた吾郎が顔を引きつらせ、戸をぴしゃりと閉めた。
前のめりになり、右に左によろめく千鳥足で通りを歩む男。両の目は当に正気を失ってぐるぐると前後左右に激しく動き、目尻からは涙ではなく黒い粘液を零していた。
丞幻は眉をひそめた。悪臭の元は、あの粘液だ。
あれは穢れの塊だ。あれに触るだけでも、人体に害を及ぼす。少しでも見鬼の才がある者なら触る事を避けるが、なにも視えない徒人は知らずに地面に落ちた穢れに触れてしまい、体調を崩すだろう。ひどい場合には寝ついてしまうかもしれない。
「ふぇ……ぅえ、え……うえ、うえ、ふえ……」
「なんか言ってっぞ」
「あんま聞かないの。聞いただけで呪われたりする事もあんだから」
耳をすませる矢凪の頭に手刀を落とす。
なにをすると言わんばかりに睨む視線を無視して、丞幻は言葉を続けた。
「放っといたら、あれ面倒なことになりそうねー。貴墨中うろついて、あのくっさいのぶちまけ続けられたら、たまったもんじゃないわ」
帰りがけに、異怪奉行所に知らせておこう。
吾郎の店から少し離れた所で、足音がふと止まった。店に戻ろうとしていた丞幻達は、思わずそちらに目を向けてしまった。
通りの真ん中に、男は立ち尽くしていた。上体を老爺のようにぐうっと曲げ、両腕をだらりと垂らし、顔を前に突き出すような奇妙な体勢で。
ぐるぐると動いていた目玉は止まり、ぼんやりと中空を見つめている。
「ふぇ……うええ…………ぅえ……え……ふね……ふね……ふね……ふね……」
ごぼごぼ、ごぼごぼ。
黒い粘液を吐き出し呟くその頭が、ぷうぅ……っと泡玉(しゃぼん玉)のように大きく、大きく膨らんだ。
嫌な予感を覚えて吾郎の店に駆け込むより早く。
ぽぉん。
人の頭とは思えぬほど軽い音を立てて、男の頭が破裂した。




