一
「花舟でぇ~、サッサ行くのが辰湖通い~、あがる貝段サッサノサァ~」
ほろ酔い気分で端唄を口ずさみながら、太助は屋台を出た。
暗夜ではあったが、背高提灯―高さ十尺ほどの棒の先に提灯が取り付けられたもの―が、等間隔に立てられている為に足元はよく見えた。
ここは冴木の高野家二丁目。立ち飲みの屋台が多く立ち並び、酔漢達の声で賑わっている。しかし時刻は既に夜五つ半|(午後九時)を回っており、屋台もぽつぽつと店じまいを始めていた。町木戸も夜四つ|(午後十時)に閉まるとあって、賑やかしく響いていた声も大分落ち着いている。
深々とした夜道を、太助は千鳥足で進む。
懐がずっしりと重い。歩く度にその重さを感じて、にんまりと太助は緩んだ口元に笑みを浮かべた。
太助は大工であった。今日から薬種問屋の蔵を建てるとのことで、親方達と共に取り掛かったのだが、手間賃に主人が少々色を付けてくれた。おかげでいつもより懐が温かい。
「深いなじみのアレハイサノサ~、お楽しみチョイナ~」
嫁のいない長屋暮らしである為、町木戸が閉まるぎりぎりまで飲んでも怒るものは誰もいない。これが独身の気楽さだと、太助は酒精に浸かり切った頭で考えた。
「おぅい、船頭さんよう。船ぇ出しておくんな」
青い提灯が掲げられた船着き場には、小舟が一艘さざなみに揺れている。よろめく足で小舟に乗り込み、船頭に行先を告げる。
青い光の下で、編み笠を深くかぶった船頭は小さく頷くと、櫓を手に取った。
つい……と小舟が進む。闇を溶かしたような水面に、星の光が映っていた。
水上の冷気で、熱燗と湯豆腐で温まった身体がたちまちのうちに冷えていく。ぶるりと太助は身震いした。
「うぅっ、寒ぃ、寒ぃ。船頭さんは寒くねえのかい?」
「……」
こちらに背を向けた船頭は答えず、黙々と櫓を繰る。無口な男だ。
ちぇっ、と舌打ちをして、太助は船べりに背を預けた。船の先端に小さな玻璃竹行灯が置かれ、水面をぼんやりと照らしている。
ぎぃ、ぎぃ、と櫓が水をかく音の他に、なにかが聞こえた。
り……り……り……り……。
「んぁ?」
心地よい揺れに眠気を感じていた太助は、欠伸をしてぼんやりと周囲を見渡した。
り……り……り……り……。
真っ黒な水面は相変わらず静かで、櫓が動く度に波紋が立つ時に響く水音しか聞こえない。そこに、小さな金属音が一定の間隔で響いている。
「船頭さんよ、この音はなんだい」
船頭は、黙々と櫓を漕ぐばかり。
「……んん?」
ぼんやりとしていた太助の脳みそが、ふと違和感を覚えた。
目をこすって、きょろ、きょろと周囲を見渡す。
「おい……おい、船頭さんよ、ここはどこだい?」
一面の深い闇であった。空に月も星も無く、普段であれば遠目にでも見える筈の、船着き場の青提灯もどこにも見当たらない。
ここは、どこだ。一体、今どこを船は進んでいるのだ。
まさか貴墨内の水路を抜けて、海へ出たのか。だが鼻をひくつかせてみても、潮の臭いは……いや。
「うぇ……っ」
太助はえずいた。魚を腐らせた時のような、凄まじい臭いが鼻をつく。あまりの臭いに、思わず咳込む。
先ほどたらふく食ったものが喉から込み上げてきて、黒い水面にげえげえと吐いた。
「せっ、船頭さん、なんだあこの臭いは! とってもじゃねえが、鼻ぁもげちまうよ!」
「……」
り……り……り……り……。
「船頭さん!!」
絡繰り人形のように、櫓を動かし続ける船頭に痺れを切らして、太助は立ち上がった。ゆらりと揺れる中、船頭の肩を掴む。
「おいっ、船頭さんよ! 聞いてんのかい!」
声を荒げて、無理やり振り向かせる。
舳先に置かれた行灯のかそけき光に、船頭の顔が照らされた。
「ひっ、ひいぃ……!?」
太助は引きつった悲鳴を上げて、尻餅をついた。
ぼんやりとした白い光に浮かび上がった、船頭の顔。その右目は出目金のように大きく丸く、飛び出していた。それでいて左目は芥子粒のように小さい。
その歪さだけでも身の毛がよだつというのに、口がいけなかった。
口があるだろう場所には、黒い粘液のようなものが蠢いていた。
「り……り……り……り……」
その粘液の中から、微かな金属音が響いていた。音がする度に、真っ黒な粘液がおゎ、おゎ、おゎ、おゎ、と不気味に上下する。
太助の背を戦慄が駆け下りた。酒に蕩けていた脳みそが凍り付き、全身が勝手に震えだす。
――怪異だ。
腰がすっかり抜けていた。立ち上がろうとしても立ち上がれず、太助は尻と手でいざって小舟の後方へ逃れようとする。
「ひっ、おた、お助け……っ」
「り……り……り……り……」
船頭は太助を追わず、こちらをただ見ていた。
おゎ、おゎ、おゎ、おゎ。粘液がぐっちゃぐちゃと上下し、その度に金属音が耳を震わせる。
どうすれば、どうすれば。一か八かで飛び降りるか。掴みかかって船から落とそうか。どうすれば、どうすれば。
先ほどまで酒に浸かっていた頭はロクな考えが浮かばず、同じ事をぐるぐると考えるばかり。
がちがちと奥歯を鳴らす太助の目に、ぼんやりとした光が映り込んだのはその時だった。
船頭の肩越しに、闇に浮かぶ提灯の明かりが浮かぶ。蛍のような小さな光が、今の太助には太陽のように眩しく見えた。
――あ……あれ、あれは……!
あれは、船着き場の明かりだ。船はゆっくり、ゆっくりとだが、あの明かりに向かって近づいていく。
船が着くのと同時に、船着き場に飛び降りて逃げる。もしも船頭がこちらに襲い掛かってくるようなら、力づくで突き倒す。
こちとら、日頃の大工仕事で腕っぷしは強いのだ。あの程度のひょろっちい怪異、なんとでもなるに違いない、と精いっぱいの楽観的な考えを頭が打ち出す。
「り……り……り……り……」
おゎ、おゎ、おゎ、おゎ。口にあたる部分が、ねちょねちょと上下する。そこから聞こえる金属音は鈴の音なのだと、その時初めて太助は気づいた。
大きさの違う船頭の目玉が、太助をじっとりと見つめている。こちらに何かをしようとする素振りもなく、淡々と櫓を漕いでいるだけだ。
全身をぶるぶると震わせながら、太助は近づいてくる光を凝視した。あれだけが、今は細い細い頼りの糸であった。
浅く速い呼吸をしながら、太助は力の入らない足を必死になって踏ん張った。
好機は一瞬。小舟が船着き場に接岸した、その瞬間。ゆらりと揺れる舟板の上、均衡を崩しそうになるのをこらえて明かりを睨む。
――船着き場の提灯は通常、他の明かりと見まごうことの無いように、青い光が入れられる。
太助が目に映る提灯は、毒々しいまでの鬼灯色をしていた。
〇 ● 〇
貴墨で最も広い道を有する、墨渡。
大店が道の両側にずらりと立ち並び、より他の店より目立つよう工夫された看板が、道行く人々の目を楽しませる。
看板の形を動物や扱っている商品の形にしたものや、細く切った玻璃竹を看板の周囲に取り付けて暗くなっても目立つようにしたものなど、様々だ。中には二階よりも背の高い看板に、店名で爪とぎをしている猫を描いたものもある。もはや店名ではなく猫の方が目立っている。
その派手な看板達を横目に、ゆっくりと一台の牛車が道を進んでいた。
簾は下ろされ、中に誰が乗っているのかは分からない。牛車の前には牛飼い童、後ろには帯刀した武士が二人、護衛するように付き従っていた。
屋形の側面に大きく描かれた、扇をくわえた鳥の家紋が秋の太陽に照らされている。
国生みの神、天大神。彼の神はしばしば、鳥の姿を借りて下界を覗き見るという。故に貴墨、ひいては陽之戸国で鳥とは敬うべきものであり、信仰の対象の一つである。
鳥を取り入れた家紋が許されるのは、天孫・天帝より家紋を賜った陽之戸五大名家のみ。そこに祓家を示す扇もあるとなれば、道を歩む牛車は祓い屋の大家、鉦白家のものに間違いなかった。
それを見た貴墨の民達は、慌てて道を譲り、牛車の通り過ぎるのを見送る。
「ねえ、ねえ、かあちゃん。あの牛車は、だれがのってるの?」
一人の童が、傍らに立つ母の着物の裾を握って首をかしげる。母親はわが子の前にしゃがみ込むと、「これ」と咎める声を上げた。
「滅多な口を利くんじゃないよ。あれはね、大層偉いお方が乗ってらっしゃるんだから」
「大しょうぐん様よりえらいの?」
「そりゃあ、大将軍様が陽之戸で一番偉いけれどもね。あちらの牛車に乗ってたのは、鉦白家のご当主様だよ」
「かねしろ家ってなあに?」
「お前の大嫌いなお化けを退治してくれる、偉いお方だよ」
「へえぇ……!」
母の説明に、童はきらきらとした目で、もう見えない牛車を透かし見るように背伸びをした。
ことことと、時折小石を踏む振動が尻に伝わった。
扇を手慰みに閉じたり開いたりさせながら、牛車の中の人影はふてくされた様子で小さな呟きを漏らす。
「……早く終わらせたいものです」
貴墨城にて神司方と異怪奉行と共に、神無月に行う大祓祭の打ち合わせを行うのだ。とんとん拍子で終わってくれれば良いのだが。
行儀悪く胡坐をかいたまま、傍らの巾着袋の紐を扇の先に引っかけて引き寄せる。巾着袋の中には、色とりどりの金平糖が詰まっている。かりこりとそれをかじりながら、鉦白蓮丞は秀麗な顔を曇らせた。
「兄様に、何事もなければいいのですが」
ちくりとした不安が胸を刺す。
思い浮かぶのは兄の顔だ。
「不吉すぎます」
本家のある千方国を出る前日、蓮丞は一つの夢を見た。
無明の暗闇の中で、兄である丞幻がこちらに背を向けて立ち尽くしていた。
いつも堂々としている背が、どうしてか小さく頼りなく見える。蓮丞は兄に駆け寄ろうとしたのだが、透明な壁に阻まれた。
「兄様!? 兄様!!」
壁を叩いて大声で呼びかけるが、丞幻は振り向かない。
聞こえていないのか。いやそんなはずはない。そこまでの距離ではない。
「兄様、どうしたのですか、兄様! こちらを向いてください、兄様!!」
皮膚が裂けて血が滲むほど壁を叩いていた蓮丞はふと、兄の足元に揺らめくものを見つけて瞠目した。
それは炎だった。闇を圧するような橙色の炎が、丞幻の足から身体までを、あっという間に舐め尽くす。
不意に、炎の中で丞幻が苦し気に身をよじった。髪が、着物が、肌が、ぶすぶすと焼けていく。炎のはぜる音が聞こえないが、凄まじい勢いだというのは丞幻の肌が、あっという間に焦げ爛れていく様で分かった。
蓮丞は悲鳴を上げて、壁を叩いた。
「兄様、兄様! 待っててください、そちらにすぐ行きますから!」
しかし、壁はびくともしない。
そうしているうちに、暗闇からしなやかな女の腕が二本、ぬぅ……と伸びてきた。
腕は炎にまかれ苦しむ丞幻を抱きしめるように首元にするりと巻き付くと、そのまま炎ごと闇の中へ引きずりこんだ――
「まったく、嫌な夢です」
夢を思い返して、蓮丞はぶすくれる。
ただの夢だと一笑に付すことはできなかった。術者の見る夢というのは、大なり小なり意味がある。
あれはもしや、丞幻の身に何か不吉な事が起こる前触れなのでは。いやもしかして、もう起こっているのでは。蓮丞の胸には出立してからずっと、不安がへばりついていた。
「……あれ」
早く打ち合わせを終わらせ、兄の元へ行かねばと決意を固めていた蓮丞は、ふと嫌な気配を感じて眉をひそめた。右側に設えられた物見の窓を開け、窓枠に手をかけて外を伺う。
牛車は既に、貴墨城と墨渡とを繋ぐ短い橋を渡っていた。
蓮丞は橋の下を流れる水に、剣呑な瞳を向ける。
「これは……」
貴墨中を走る水路から、腐り水のような嫌な臭いと瘴気が漂っていた。
冒頭で太助の歌っていたものは、江戸端唄集(岩波文庫)に乗っていた端唄百番の八十九
「深川」の「猪牙でサッサ 行くのが深川通ひ あがる段梯子の アレハイサノサ いそいそと 客の心の上の空 飛で行きたい アレハイサノサ 主のそば チョイナ 籠でサッサ 行くのは吉原通い サテ 下りるは衣紋坂 アレハイサノサ いそいそと 大門口に眺むれば 深い馴染みの アレハイサノサ お楽しみ チョイナ」
を参考にしています。




