ひねもす亭忌憚
■藤の爪
藤が見事だというので、ちび二体を連れて見物に出かけた。見物客は多く、人いきれで汗ばむようだが、何百、何千という薄紫の花弁が藤棚から垂れ下がる姿は美しく、見上げれば藤色の雲がかかっているかのようだ。
ちび達は藤を見るより、並んだ出店が気になるらしい。幾ばくかの銭を握らせた途端に、団子売りの元に突撃していった。
「藤より団子なのねー、あの子達ってば」
一人藤棚の下で感嘆のため息を漏らしていると、鼻先にひらりと花弁が落ちてきた。
ひょいと摘まみ取ると、花弁の割に妙に硬い。
「あらん?」
しげしげと見てみれば、それは薄紫に塗られた爪だった。
細くて長い。女の爪だろうか。根本に当たる部分には、いかにも無理やり剥がしました、と言わんばかりに血の滲む肉片が引っかかっている。
なんだ、これは。
折角、美しい藤を見ていたのに嫌なものを見た、と爪を指先で弾いて放り投げる。と、頭に固いものが落ちる感触がした。
手探りで取ってみると、またしても藤色に塗られた爪がある。今度は先ほどのものより小さい。小指の爪だろうか。くっついた肉片が、嫌に生々しくて気持ちが悪い。
かすかに瘴気を感じるから怪異なのだろうが、目的が分からないというのはおさまりが悪い。
「あー、やだやだ。なにかしらねえ、これ」
「丞幻、どうした?」
団子をもごもご頬張りながら、シロがやってくる。無言で手のひらに乗せた爪を見せれば、ああ、と納得したように頷いた。
「藤の花より、自分の爪の方がきれいだ、って言ってるみたいだぞ。あっちこっちにふらせて、自慢してる」
「うーわー……」
そやそやと藤の花が揺れる下、幾枚もの花弁が散っている。その中にいくつ、この爪が混ざっているのだろうか。
考えたくなくて、丞幻は爪を放り捨て藤棚からそそくさと離れた。
■床下の客
ちび達がすっかり寝入った後、のんびりと二人、向かい合って酒を干す。
「お前、毛虫とか百足とか嫌いなわりに、よくまああんな所に住んでたわねえ」
「あ?」
「ほら、荒れ寺。あそこ、草がとんでもなかったじゃない。お前のだいっきらいな虫がいっぱいいただろうに、よくまあ住めてたわね」
「ああ、店賃代わりに食ってもらってたんだよな」
「誰によ」
茹でて塩をふった豆と、干した魚を軽く炙ったものを互いにつまみながら話を続ける。
「あそこを寝床にし始めてすぐによお、床下から声が聞こえたんだよ。もうし、って」
――もうし。住んでも良いか。留まっても良いか。
男とも女ともつかない声が床下から響いてきた。
「それで、お前どうしたのよ」
「住んでも良いっつった」
「こぉんの、危機管理能力欠如男! お前それで危ない怪異だったら、一体全体どーするつもりだったのよ」
「潰す」
「あっそ」
皿の上に何も無くなった。細く切られた干しするめが、ざらっと皿に乗せられる。
「そしたら床下の奴はなんて?」
「あー、対価をやろうっつってきた」
――ありがたい。ありがたい。対価をやろう。住まわせてくれる礼に対価をやろう。
――汲めども尽きぬ酒でも、飽くることなく湧く米でも、仰ぎ見てもなお果ての無い金でも、なんでもやろう。
「あら、汲めども尽きぬ酒ってのはいいわねえ」
「断ったけどな」
「ふーん。珍しいじゃないの、飲兵衛の癖に」
「だってよお。汲めども尽きぬ酒ってなぁ確かにいいが、ひとっつの種類だけがこんこんと出てくんだろ。どうせなら色んな酒飲みてえ。それに米炊く竈なんざ荒れ寺にねえし、金も別になあ、欲しいときゃあ、そこらの破落戸ぶっ飛ばして奪えばいいし」
「そんな理由で断られるとは思ってなかったでしょうねー、向こうも。それで?」
――憎い相手がいれば殺してやろう。希う相手がいるなら会わせてやろう。慕う相手がいるなら添わせてやろう。
「って言ってきたんで、そんなん自分の力でやるわ阿呆って言ったら静かんなってよお。じゃあ何を対価として求めるって言うんで、そこいらの虫でも掃除しとけっつった」
「それでお前は快適な荒れ寺暮らしを手に入れたって寸法ね」
「おう」
「まあ、妥当な対価だったと思うわー。その怪異ってねえ、住まわせてくれる代わりに何でも叶えるって言っときながら、いざ大きい願いを言うと『それは対価が釣り合わない』って言って問答した相手を食っちゃうのよ」
「俺ぁ食われてねえが」
「床下に住まわせてやる代わりに虫退治ってのは、怪異的には釣り合う対価だったんじゃなーい? 運が良かったわねー」
「ふうん。ここにゃあいねえのか?」
「いないわよ。どして?」
「昨日、百足が廊下這ってんの見てよお」
「あれま。一応気を付けてるんだけどねえ。んで、その百足どしたの」
「てめえの部屋にシロが放り込んだ」
「シロちゃあああん!?」
■おみよの祖母
おみよは最近、祖母の家に行く事が多い。
一人住んでいるのは寂しかろうと、今日も遊び仲間の誘いを断って祖母の家に遊びに行く。遊び仲間の一人が、真っ白なおかっぱを揺らして首をかしげた。
「おみよ、今日も来ないのか?」
「うん、ごめんねシロちゃん」
祖母は、広い家に一人住んでいる。遊びに来たと戸を開ければ、日の当たらない奥の部屋に、祖母はちょこりと正座していた。ゆっくりと首が、こちらに向かって振り返る。
皺だらけの顔に埋もれた目が、嬉しそうに輝く。
「おお……おきよかい……よう来たねえ……」
「わたし、おみよだよ、おばあちゃん」
祖母は少し呆けているようで、いつもおみよの名前を間違う。それが少し嫌だったが、年を取ったらみんなそうなるのよ、と母に言われたのでしょうがないと思っている。
おみよは持ってきたお手玉を三つ、歌いながら投げて遊ぶ。祖母はそれを微笑しながら見守っていた。そのくしゃくしゃの微笑が、おみよがたまらなく好きだった。
「おきよ……おきよ、おはぎがあるよ。お前、おはぎが好きだったろう……おばあちゃん、たあんとこさえたからねえ」
お手玉遊びを終えた後、祖母は身体の後ろに置いてあった皿をおみよの前に置いた。大きな木の皿の上には、拳大のおはぎが山と盛られている。
「うん……」
おみよは、曖昧に頷いた。
おはぎはあまり、好きではない。だけど祖母は、おみよはおはぎが好物だと思い込んでしまっているらしく、なにを言っても聞いてくれないのだ。
膝の上でもじもじと指を擦り合わせていると、祖母は悲しそうな顔をした。
「どうした……食べんのかい……?」
祖母の顔にぎゅっと胸が締め付けられた。いつもは適当に言い訳をして、食べずに帰るのだが。こんな悲しい顔をさせてしまうなんて。
あまり好きじゃないが、今日は一つだけ、頑張って食べようか。
そろりと指をおはぎに伸ばすと、祖母が嬉しそうに歯の無い口をにんまりと緩ませた。
「食うな、ばか!」
その時、おみよの後ろから鋭い声がした。驚いて振り返ると、そこには息を弾ませた遊び仲間がいた。いつも持っている瓢箪柄の毬が振り上げられ、こちら目掛けて投げつけられる。
思わず、おみよは頭を抱えて目を閉じた。頬の横を風がすり抜けていく。
めちゃり、と鈍い音がした。
目を開いて音の方向を見る。祖母の顔面に、毬がめり込んでいた。
「シ、シロちゃん! おばあちゃんになにするの!」
「おばあちゃんだと? そんなもの、どこにいるんだ」
「えっ」
てん、と毬が畳に転がる。
微笑んでいた祖母の姿はなく、そこには藁を束ねて作った人形が、まるで正座をするように座らされていた。擦り切れた古い小袖がそれに着せられている。
人形の前に置かれた皿に乗っているものが、ぐちゃぐちゃに握り潰されて丸められた無数の蟻の塊だと気づいた瞬間、おみよの意識は暗転した。
〇 ● 〇
「おい、おい、おみよ」
「あれ……シロちゃん? どうしたの?」
揺り起こされて目を覚ますと、遊び仲間のシロが覗き込んでいた。
おみよは目をこすりながら、身を起こす。あれ、と首をかしげる。畳も床も、穴だらけでぼろぼろの廃屋だった。見覚えの無い場所だ。
「かくれんぼしてたのに、お前がいないからさがしてたんだぞ。そしたらこんな所でねてるんだもんな」
そうだったっけ。そう言われれば、そんな気もする。
「ほら行くぞ。全く、丞幻みたいにしょーのないやつだなあ、お前は」
偉そうに言うシロに、ごめんねと謝って立ち上がる。「そういえば」とシロが何気ない調子で首をかしげた。
「お前に、おばあちゃんっていたか?」
「ううん。わたしにおばあちゃんなんていないよ」
母方も父方も、おみよが生まれる前に死んでいる。
その言葉に、シロはどこかほっとしたように「そうかそうか、そうだろうな」と頷いた。
■アオさんぽ
昼餉を食べた後、シロが昼寝をしてしまった。ほっぺを舐めても、肉球で叩いても起きない。
困った。アオはまだ眠くない。遊びたいのだ。なのに、起きてくれない。
ちゃっちゃ、と爪音を響かせて丞幻の部屋へ向かう。
「ふふ……そうね、よーし完全に理解したわ。ワシの草稿が進まないのはお前のせいなのね」
「うぶー……」
虚ろな目で飾り棚に飾られた皿に話しかけているので、遊んでもらうのは諦めた。
しょうがない、一人で散歩に行こう。
爪音をちゃっちゃと鳴らして外に出る。人の姿に化けるより、四つ足で歩きたい気分だったので狼姿のままだ。
初夏の風が、青い毛並みを撫でていく。尻尾をひょんと振って、アオはうきうきと歩き出した。
「うっうー、うー」
ご機嫌に田んぼの畦道を通り、林に入る。
「おみじゅのにおい!」
入ってすぐ、水の匂いがした。四肢を軽やかに駆って、匂いを辿る。林の奥に、小さな池があった。水は透明で、中で揺らめく水草や魚影までがはっきりと見える。
アオは尻尾をぶんぶんと振った。綺麗な池だ。それほど深くなさそうだ、丞幻の膝くらいまでだろうか。
「う?」
つい、と近くに魚が二匹やってきた。鼻面を近づけると、ごにょごにょと魚がなにかを呟いているのが聞こえた。
「苦しい」「なぜこんな目に」
「若様を裏切った罰じゃ」「おう、罰じゃ」
「若様を裏切らなければ「こんな目に合うことも無かったのに」
「だが仕方なかったのだ」「おう、仕方なかったのだ」
「若様が持つ刀を持ってくれば」「持ってくれば、見たことがない程の大金をやると」
「儂らは大金に目がくらんだのじゃ」「くらんだのじゃ」
「大金が欲しかったのじゃ」「欲しかったのじゃ」
「だが罰が当たった」「おう、当たった」
「若様の刀を奪い、逃げたところが崖だったのよ」「崖から落ちたのよ」
「月の無い夜であったなあ」「足元が見えなんだのよ」
「気が付いたらこの姿じゃ」「気が付いたらこの姿じゃ」
「苦しいのう」「苦しいのう」
「罰じゃ」「罰じゃ」
「おう」「おう」
よく見れば、その魚は二匹とも人間の顔をしていた。
翁と媼の顔をした魚が、ぷつぷつとか細い声で囁いている。
「おやちゅ!」
アオは目を輝かせて、水に口を突っ込んだ。翁の魚をくわえて、一口で飲み込む。慌てて逃げようとする媼の魚を追いかけて、小さな池に飛び込んだ。
「う、う? うー……いちゃ!」
足元をちょろちょろ泳いでいたそれを見つけて、がぶりと一飲み。ついでに鼻に水が入ってしまい、アオはぶしゅぶしゅと咳込んだ。
「うぶー……ちっぱい」
池から上がり、身体を振って飛沫を飛ばす。
「しょだ! じょーげんと、シロに、みちぇてあげよ!」
もしかしたら他の魚も人の顔をしていて、面白いことを話すかもしれない。丞幻も、シロも、きっと驚くし面白がってくれる。
自分の思い付きに満足して、アオはたたっと駆けだした。
事の顛末を聞いた丞幻は、「いやまあ、アオちゃんに食べられたんならそいつらの言う所の罰も終わって、結果的に良かったのかしらん……?」と少しの間苦悩した。
■掟
強盗殺人や辻斬り、放火魔などの凶悪犯を捕え罰する羅刹隊には、数年前よりできた掟が一つある。
拷問部屋に恨みを呑んで死んだ亡者が現れた場合、「“獄鎖”の為成にもう一度会いたいか」と言えというものだ。
その言葉を放てば、たちまちのうちに亡者は消え去るという。




