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ひねもす亭は本日ものたり  作者: 所 花紅
儀式:椛温泉の札納

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65/193

暗話

〇 ● 〇


 秋の空は暮れるのが早い。

 夕日が落ちたと思ったら、あっという間に空は紺色に染め上げられる。

 椛温泉から麓まで続く橋をゆっくりと歩いていた十六夜は、空気が動いたのを感じて目線だけを横手に向けた。

 ぼう、と行灯の光る欄干の向こう。鬱蒼(うっそう)と茂る木々の向こうに、黒い影。


「嵐さん」


 風に紛れるほど小さな声で呼びかけると、するすると影が近寄ってきた。橋に人気の無いのを確認した後、欄干に手を付いて音も無く飛び乗ってくる。

 行灯の明かりに照らされたのは腰を深く曲げ、白髪を頭上でひっつめた老婆だった。紙を丸めたように、顔中をくしゃりとした皺が覆っている。松模様の着物を、凧のように薄い身体にまとっていた。

 十六夜は血のように赤い唇に、ほんのりと笑みを浮かべた。


「よく老婆に変装できるものですね」

「マ、忍ならこれくらいはできまサァ」


 腰が辛いですがねェ、と続ける声はひどく掠れて聞き辛い。本物の老婆と比べても遜色(そんしょく)ない声音だ。

 長身痩躯の嵐がよくまあ老婆に化けられるものだと、十六夜は感嘆する。なにせ、その小さな頭は十六夜の腰のあたりにあるのだ。顔の大きさからして違うように見える。

 どうやって変装しているのか、後で見せてもらおう。

 益体もない事を考えつつ抱えていた風呂敷を手渡すと、嵐はそれを胸の前に抱き、一歩下がって十六夜に続いた。その姿はどこからどう見ても、どこぞの奥方と連れの婆である。


「椛御前はどうなりましたか?」


 目の端を横切る紅葉を楽しみながら、密やかな声で問う。


「小箱に封じてまさァ。祠から瘴気が噴き出してきたときゃ、これはと思ったんですがねェ。蓋ァ開けてみりゃまァ、そこいらの童でも捕まえられそうな有様で。捕まえるナァ楽でしたが、もうちょい歯ごたえが欲しかったですねェ」


 そう忍び笑う嵐に、十六夜は軽く顎を引いて頷く。


「そうでしたか」


 まあ、ただでさえ五十年も餌を食えずに弱っていたにも関わらず、朝方に生餌の匂いを嗅ぎつけて無理やり呼び寄せたようだから、それで力を使い果たしたのだろう。

 風呂敷包みを胸の前で抱えながら、嵐は(しゃが)れ声を上げた。


「マ、後で適当な男ォ捕まえて精気の一つも吸わせてやりゃァ、そこそこ力も戻るでしょうぜ」

「ふむ」


 飛んできた紅葉を指先につまんで、くるりと回す。


「今……三過(さんか)に達している者は、うちにいますか?」


 記憶をさらっているのか、嵐が少しの間沈黙する。

 つまんだ紅葉を口に運ぶ。狂い紅葉は味が薄いが、香りが良い。落ちてくる紅葉を次から次へと口に運びながら待っていると、返答がきた。


「いやァ。連中、最近は真面目なモンですからねェ。三過に達してる奴ァいませんぜ」


 よっぽど、人頭酒(にんとうしゅ)に漬けた()()を見せられたのが効いたようですぜェ。

 くつ、と笑う嵐を振り返らず、一つ頷く。


「そうですか」


 三過必罰。無月一味の絶対の掟。

 過ちを三つ犯したものがいれば、椛御前に与えようと思っていたのだが。いないのであれば、仕方ない。

 さて、ではどうするか。痩せ衰えた椛御前など、汁物の出汁にしかならない。十六夜が食らいたいのは、脂肪が程よくついた分厚い肉なのだ。

 

「では、三日後のお(つと)め先で何人か引き抜きましょう」

「アァ、そりゃァいい。廻船問屋(かいせんどんや)なら、屈強な男も多いでしょうしねェ。それなら椛御前も満足するでしょうよ」

「では嵐さん、早急に伝令を。袋を十枚ほど用意するように、と」

「了解」


 嵐の喉から、細い鳥の声が滑り出る。彼ら忍衆の使う鳥笛だ。鳴き方が暗号になっているらしいが、さすがの十六夜もその意味までは分からない。

 しばしの間を置いて、どこからか微かな鳥の声が返ってきた。嵐が満足そうに頷く気配がする。


「これで良し。とりあえず、椛御前にゃァ男の精気しこたま食わせて復活させて……(かしら)が食うのは、その後って事でよろしいですかィ?」

「かまいませんよ。そういえば、矢凪さんの実力はどうでしたか」

「上々。マ、チィッとばっか、自分を大事にしねェ所ァありますがねェ」

「おや、そうなのですか」

「撒菱なんざ気にせず走り抜け、毒食らわしゃァその肉ごと抉るってェ有様で」

「肉ごと? それはもったいないですね」


 抉るのなら十六夜が食べたいくらいだ。なにせ生餌の肉は食ったことが無い。

 咳混じりの嗄れ声が、背後から聞こえる。風の音と混じって聞き辛いので、十六夜は耳をそばだてた。


「マァ、作家の兄サンが上手く手綱握るでしょうよ。あの兄サンは、身内が傷つくのを一等嫌う(タチ)ですからねェ」

「それは重畳です」


 上機嫌で十六夜は答える。

 良い手駒を手に入れた事で、非常に気分が良い。

 手が増えれば食える怪異も増えるし、丞幻はあの鉦白家の長子。その名を利用すれば、徒人(ただびと)なら立ち入れない禁足地や忌地に封じられた怪異を獲ってこさせる事もできるだろう。

 怪異捕獲に精を出してもらっている嵐や春風の負担が軽くなれば、本業の盗みの方も動きやすくなる。


「ああ、そうだ。いっそ、彼らにも本業を手伝ってもらいましょうか……」

「頭ァ、そりゃ止めといた方が良いかと」


 ほっそりとした指で顎をつまんでひとりごちると、背後から即座に否定が入った。宵色の髪を揺らして、十六夜は僅かに振り返る。

 皺に埋もれた目の奥に、こちらを咎めるような色が見えた。


「おや、嵐さんは反対ですか?」

「頭がもう決めたんなら、俺ァなんも言えませんがねェ。もしまだ決めかねてるってんなら、反対でさァ」

「丞幻さんは顔が広く、人の懐に飛び込むのが得意。取材という事にすれば、色々な所に潜り込める。矢凪さんは元々、刃左衛門(じんざえもん)さんの配下だったようですから、良いと思うのですがねえ」


 自分と貴墨の闇を二分する大盗賊、五ツ頭(いつがしら)の香坂刃左衛門。厳めしい巨老(きょろう)を脳内に描いて、十六夜は苦いものを含んだ顔をした。

 

「あれに仕込まれた者を使うのというのは、少々気に食わない話ですがね」


 そんな己の頭に、嵐は首を横に振ってみせた。


「あの兄サン達は、首根っこ掴まれたくらいで大人しくなる子猫じゃねェ。むしろ、こっちの隙を伺って喉笛を狙う獅子の子だ。手の内はあまり、明かさねえ方がいいでしょうよ」


 欄干に指を滑らせつつ、背後を歩く懐刀の意見に耳を傾ける。


「下手に付け入る隙ィ与えちまうと、あっという間にこっちが三尺高い所に登っちまう。あの兄サン達は、そういう手合いでさァ」

「ふむ……」


 そうまで嵐が止めるなら、止めておくか。基本的に彼は、十六夜の不利益になる事をしないし、言わない。彼女が誤った道を歩こうとすれば、身体を張ってでも止めてくる。

 だからこそ重宝しているし、こうして背中を見せて歩くくらいに信用しているのだ。

 十六夜はあっさりと思考を切り替えた。


「では止めておきましょう。当初の予定通り、彼らには怪異捕獲だけをお願いします」

「エ、それがいいでしょうよ」


 頷いて、「それから」と嵐が続けた。


「下手に助け求められちゃァ、面倒ですからねェ。あの兄サン達に枷でも付けておきましょうかい?」


 嵐の言う「枷」とは、物理的なものではなく呪術的なものだ。


「そうですね。我々の事を誰かに話したり、逆らおうとしたら呪詛が発動するようにしておいてください」

「了解」

「監視の方は」

「二人ほど付けておきますぜィ。頭が完全に、あの兄サン達を取り込んだと判断するまでは」

「よろしい」


 十六夜は配下の働きに満足し、顎を引いた。

 もし、こちらに歯向かう素振りが顕著になってきたならば、その時は食ってしまえばいい。

 鉦白家の者、生餌、紅瓢に蒼狼。どいつもこいつも、ひどく美味そうだ。今からどうやって料理しようか、楽しみで仕方が無い。

 べろり、と舌なめずりをして、十六夜は薄く笑った。

怪異名:椛御前もみじごぜん

危険度:乙(五十年前に封印済)

概要:

狂い紅葉の山を縄張りにしていた、美しい女の姿をしている怪異。紅葉模様の打掛が特徴的。

男の精気を好み、その姿で山を通る男を惑わせて交わり、精気を吸い取り殺していた。紅葉を操る力を持ち、紅葉を刃物のように鋭く変えて祓い屋と対峙したという。

五十年ほど前、近隣の祓い屋が男に変装して山に赴き、山頂の祠に封じた。

以降、三年ごとに封じの札を貼りかえて対応している。

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