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ひねもす亭は本日ものたり  作者: 所 花紅
儀式:椛温泉の札納

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 手加減の無い一撃を頬に受けて、丞幻は畳に倒れ込んだ。膝からシロが放り出されて、べしゃりと突っ伏する。


「シロ、シロ、だっじょぶー?」

「……だいじょぶじゃない。矢凪には、あとで木ノ花屋のきんとん、おごらせてやる」


 鼻を赤くしたシロが、むっつりとした顔を上げた。すかさずそこに、アオがぐりぐりと頬を擦り寄せる。


「ほめて! シロ、ほめてー! オレ、ちゃんと矢凪まもたよ!」

「くすぐったいぞ、アオ」


 頬ずりどころか頭突きをかますアオの頭を叩いて、シロはぷくっと頬を膨らませた。アオとの会話で、少し気分が持ち直したらしい。

 そんなほのぼのとしたやり取りの背後で、丞幻は襟首を掴まれ、立ち上がらされた。息苦しさに、思わず顔をしかめる。


「見損なったぞ、てめぇ」


 殺気を帯び、ぎらぎらと光る金色の瞳に射抜かれる。


「なんで頷きやがった、えぇ? あんな連中と手ぇ組むくらい、てめぇは小説のネタが欲しいのか、あぁ!?」

「……いやあ」


 乱れた前髪を軽く払って、丞幻は小さく笑んだ。


「嬉しいわあ。見損なうくらいには信用してくれてたのね」


 こんな時だというのに、それが少し嬉しい。


「……」


 虚を突かれたように、矢凪は言葉に詰まった。気まずそうに視線がそらされる。


「まぁ、座りなさいよ。説明するから。何はともあれそっちも無事で良かったわー」


 やんわりと力の緩んだ手を引き剥がして、丞幻はその場に腰を下ろす。

 己の前方の畳を平手で叩くと、矢凪は無言でどっかと座り込んだ。瓢箪の栓を口で引き抜き、喉を鳴らして中身を流し込む。


「……ちょっと、それ中身月露でしょ。ワシにもちょーだい」

「やなこった」

「なによう、ケチ。……いったたた」


 顔をしかめて、丞幻は口に人差し指を突っ込む。じくじくと痛む頬の内側を探って眼前に持ってくると、指先が赤く染まっていた。矢凪に殴られた際に、噛んでしまったらしい。


「お前ねえ、ちっとは手加減して殴りなさいよ、もうっ。こちとら火傷もしてんのよ!」

「うるせえ。いいから、とっとと説明しやがれ。ロクでもない連中なのは分かってんだろうに、なんで頷きやがった」


 がり、と瓢箪の口に歯を立てる矢凪の身体からは、刺々しい気配が漂っていた。こちらでなにがあったか、ある程度は知っているらしい。


「お前らが出てってしばらくして、あの十六夜って女が、ワシとシロちゃんと昼餉食べたい、って言ってきてねえ」


 丞幻は「ほめて! ほめて!」と腹に突撃してくるアオを抱き上げて胡坐の上に乗せ、頭を撫でた。

 シロが無言で、のそのそと矢凪の膝に乗る。そのまま猫の子のようにうずくまった。


「あ?」


 すっかり丸くなった背中を撫でて、矢凪が(いぶか)し気な視線を向けてくる。


「……おい、こいつどうした」

「ちょっと色々あって、落ち込んでるのよ」


 妹分の旦那が人質に取られた事も含め、先ほど起こった事を包み隠さず全て話す。

 時折相槌を打ちながら話を聞き終えた矢凪は、眉根を寄せた。亀のように丸まるシロの背をぽんと叩く。


「なんでこいつの瓢箪で行かなかったんだよ、てめぇ。それでその旦那助けに行きゃぁ良かったろうが」

「シロちゃんにもさっき言ったけどねえ。あの場で助けに行こうもんなら、多分ワシが着いたころに呪詛が発動してたでしょうね」

「ならよお、あの女を脅しゃあ良かったんじゃねえか?」


 呪詛を解かねえと足の先から削り下ろすとか、石臼に突っ込んで磨り潰すとか。

 あとは……と脅しの手段を指折り数える矢凪。よくまあ、そう色々と恐ろしい案を思いつくものだ。実際やってないだろうなと、思わず心配になる。

 丞幻は首を横に振った。


「あのねえ。そんな脅しで屈する程度の小物なら、こんな大層な事仕掛けてこんわよ」


 矢凪は不思議そうに首をかしげる。


「なに言ってんだ。ある程度削り下ろしてから『呪詛を解け』って脅しゃあいい話だろうがよお。そうすりゃ、こっちも本気だって分かるだろ」

「お前もしかして、ワシにわさびみたいに人間削れって言ってる!?」

「わしゃび?」


 狼姿に戻って尻尾を噛んでいたアオが、ぱっと鼻を上げる。そこにすかさず丞幻は紅葉型の煎餅をくわえさせた。


「ほらアオちゃん、お煎餅美味しいわねー」

「う! おいち!」


 硬めの煎餅を噛み砕き、尻尾を振るアオの背を撫でる。瓢箪の口をがりがりと噛む眼前の助手に、指を一本立ててみせた。


「そもそも矢凪、お前考え違いをしてるわよ」

「あ?」


 為村孝右衛門に呪詛をかけろと指示したのは十六夜だろうが、かけた術者は別の者だろう。

 向こうとて、丞幻達が実力行使に出る可能性は考えていた筈だ。ならば術者は別にいて、彼らの交渉の成り行きを伺っていたと考えるのが自然である。万一、丞幻達が十六夜に危害を加えたり交渉が決裂したりした場合、即座に孝右衛門を殺せるように。


「まー、これはただの予想でしかないし。もしかしたら裏をかいて、あの女が呪詛をかけた張本人かもしれないけど。……んっとに性格悪いったら」


 頬杖をついて、丞幻は苛立たし気に三つ編みを引っ張った。

 全く、(たち)の悪い詰将棋だ。

 こちらは駒を一つも動かしていない状態なのに、向こうは王手まであと一手という所まで、駒を進めている。

 あの炎の中で、向こうの提案に頷く以外の選択肢は用意されていなかった。いや、落ち着いて考えれば打開策が浮かんだかもしれない。

 だが炎に巻かれ、孝右衛門の命を盾にされた事で、丞幻は冷静さを失い視野と思考を狭めてしまった。

 その結果が、あの女への屈従だ。返す返すも腹立たしい。


「じょーげん、どちたの? おこてるの?」


 苦い顔をしていると、首を伸ばしたアオに顎をざらりと舐められた。心配そうに小首をかしげるアオの頭をやや乱暴に撫でながら、丞幻は努めて笑顔を作ってみせる。


「んーん、怒ってないわよー。ところで、アオちゃん達の方はなにがあったのかしらん?」


 矢凪達の方も、なにかしら、問題はあっただろう。その証拠に矢凪の衿から胸元にかけてが、べっとりと血糊で濡れている。……もしかしなくても、その恰好のままで宿に顔を出したのか。


「……よく騒ぎにならなかったわねえ。その恰好で」

「途中で暴れ猪ぶっ殺したって言い訳した」


 こともなげにそう言ってのけ、矢凪は山でなにがあったか話し始めた。

 山道で聞こえた声、山頂にあった封印の解けた祠、突如襲ってきた黒装束。矢凪が淡々と語る合間に、アオが「しょんでね!」「あんね!」と横槍を入れ、「うるせえ黙ってろ」と矢凪がその口を押さえる形で話は進んだ。


「……で、てめぇの方で動きがあったっつうから山ぁ下りてきた」

「成程。そっちもそっちで大変だったみたいね。あ、そういや借りた着物はどしたのよ」

「破けて血まみれになったから弁償した」

「お札はどうなったの?」

「ん」


 矢凪は懐から、巾着袋を引っ張り出した。


「椛御前があの忍に持ってかれちまったんなら、封印も糞もねえだろ。持って帰ってきた」

「そ。……まあ、二度と椛御前が戻ってくることもないでしょうし、それでいいと思うわよー。あとであのお嬢さんには、椛御前は消滅したとでも言っときましょ」


 今ごろ椛御前は、あの女の腹の中だろうか。

 胡坐の上に頬杖をついた矢凪の膝上で、もそりとシロが顔を上げた。


「矢凪。お前、品定めされたんだな。どれくらい戦えて、どのくらい怪異とやりあえるのかって」

「……まー、偉そうに。何様のつもりかしら」


 交渉が決裂する可能性もあったにも関わらず、矢凪の力を計ったということは。向こうはこちらがどんな反応を見せようが、必ず取り込む気だったのだろう。人質をちらつかせる事で、必ず丞幻が折れると踏んでいたのかもしれない。

 ハナから交渉をする気はなく、力でねじ伏せようとする十六夜の傲慢さがそこから透けて見えるようで、丞幻はいらいらと爪を噛んだ。


「そも人質取るってのがみみっちいのよね、弱み握らないとまともに話できないとか器の底がしれるっていうかさあ。忍を使うって所がほんとあれよね、いつでも影から見てるし殺せるぞって喧伝(けんでん)してるみたいなもんじゃないの」


 爪を噛みちぎる丞幻の身体を、どんどん怒気が覆っていく。

 シロとアオは、そっと視線を交わした。これは、来るぞ。

 アオが軽快に立ち上がり、近くにあった座布団の端を噛んだ。そのままずるずると引っ張ってくる。


「あーでも、そんな奴に屈したってのが一番腹立つー!!」


 丞幻が顔中を怒りに染めて怒鳴った。すかさずシロは座布団を掴み、丞幻に向かって投げる。それを空中で掴み取り、丞幻は座布団を顔に押し付けた。


「――――――――!!」


 くぐもった怒号が空気を震わせる。座布団を抱きしめたまま不明瞭な叫びを上げ、ごろごろと畳を転がり始めた。


「気にするな、いつものことだ」


 目をぱちくりさせ、硬直している矢凪の肩をシロはぽんと叩いた。


「あれは丞幻なりに、いらいらを発散させてるらしい。どーしよーもなく腹が立つと、あーやってごろごろするんだ」


 怒りなどの負の気を身の内に溜め込み続けると、怪異を引き寄せやすくなる。負の感情とはすなわち陰気。怪異は陰気を好む。

 ゆえに、ああやって発散させるのは一応、理に(かな)ってはいるのだ。三十路近くの男が絶叫しつつ転がるのは、少々見るに堪えないものがあるが。


「……あー、少しすっきりした」


 ややおいて、むくりと丞幻はむくりと起き上がった。ぼさぼさになった髪もそのままに、四つん這いでのそのそと元の位置へ戻る。

 奇行に硬直していた矢凪の手から瓢箪を奪い、月露を喉に流し込んだ。酒精がかっと喉を焼く。


「あっ、てめぇ俺の酒!」

「お黙り、ワシにも飲ませなさい!」


 瓢箪内の酒を残らず飲み干し、投げ返す。耳元で瓢箪を振って、矢凪は半眼になって丞幻を睨んだ。


「全部飲みやがったな、てめぇ」

「一樽貰うんだから、これくらいいいじゃないの」


 恨めし気な視線を受け流して、丞幻は気を取り直して「さて」と呟いた。


「……どーやって反撃しようかしら」

「お」


 矢凪が嬉しそうな声を上げる。


「反撃すんのか」

「あったりまえでしょ」


 このまま、あの女の都合の良い道具に成り下がる気などさらさら無い。こちとら自由と食と酒を愛する気ままな三流作家だ。


「ウチの家訓はね、『喧嘩を売られたらきっちり買え、屈辱を受けたら三倍返せ。負けるな媚びるな屈するな』なのよ」

「へえ、良い家訓じゃねえか。好きだぜそれ」

「絶対気に入ると思ったわ、お前は」


 初代当主、鉦白陽一郎が掲げた家訓である。

 なんでも若い頃の経験から、こんな家訓が生まれたらしいが。どんな出来事を経験すれば、こんな物騒な家訓を掲げる事になるのやら。


「ひとまず今日はあれよ、やけ酒よ。もう温泉入ってぱーっとやるわ、ぱーっと。こうなったらたんと飲み食いして、あいつらぶっ飛ばすための英気養うわよー!」


 拳を突き上げ宣言する丞幻に、三人もそれぞれ拳を突き上げて返事をした。

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