十
血飛沫を上げて倒れる矢凪の前。太ももの辺りをとんとんと指で叩きながら、一、二、と黒装束が数を数え始める。
その間に、アオは駆け寄り割って入った。
両足をしっかと踏みしめ、天を仰いで遠吠えを上げる。小さな身体から瘴気が噴き出して、周囲を半円状に覆った。黒い霧のように上空を漂うそれを見上げて、黒装束が面白そうな声をあげる。
「へェ。やるなァ、ちびコロ。他の怪異が入って来れねェようにしたかァ」
「う! 矢凪、おいちいにおいしゅるでしょ? だからオレ、ちゃんとまもりゅの! 丞幻とシロにいわれたの!」
ふんす、とふわふわな毛に包まれた胸を張って、アオは尻尾をぱたぱたと振った。
守り石で生餌の気配自体を抑えてはいるが、血の臭いというのはひどく濃厚だ。守り石程度では誤魔化せない。事実、噴き出した芳香に惹かれて、怪異の気配があちこちから感じられた。
アオの瘴気はこの山の何より強い。それでここら一帯を覆ったので、他の怪異は入って来られないだろう。
黒装束を見上げて、尻尾を千切れんばかりに振った。
「オレ、ちゃんとやたでしょ、ほめて!」
「俺じゃなく、後ろの兄サンに褒めてもらいなァ」
「う?」
ことん、と首をかしげる。
「にゃんで? だってオマエ、矢凪のちかりゃ、じぶんでたちかめたいんでしょ? 怪異がいちゃら、ちゅうちゅ……しゅーちゅーできなっでしょ? だから、ほめて。オレ、ちゃんとやたでしょ!」
まあその辺は全て、蒼一郎が言っていた事だが。
覆面の下で、ぱちりと目が瞬くのが見えた。一拍置いて、笑声がくつりと響く。
「ほーォ。ちびコロのくせに、よォく分かってんなァ。偉ェ偉ェ」
くつくつ、と笑う黒装束の前で、矢凪は飛び起きた。
黒装束の懐に転がるように飛び込み、顔面目掛けて頭突きを食らわす。加減無しの全力だった為、己の頭もくらりと揺れた。
「うぉ……っとォ……?」
額を片手で押さえ、黒装束が後ろへよろめく。さすがに少しは効いたか。
「てめぇはなに、敵と暢気にお喋りしてやがんだ!」
濁った咳と共に血を吐き、矢凪は足下のアオに怒鳴る。アオはぱちくりと真っ青な瞳を瞬かせた。
「う? ほめてもりゃうの!」
「後で褒めてやっから下がってろ!」
「う!」
耳をぴこっ、と揺らしてアオが大人しく下がる。まとっていた蔦模様の着物を脱ぎ捨てて、矢凪は鼻筋を伝い落ちる血を舐めとった。
体勢を立て直した黒装束が、顎を指先でつまむ。
「蘇生まで八……いやァ、五秒ってとこかァ。兄サン、寝たフリしてたもんなァ」
「……」
ばれていた。アオと話している間、隙が無いかと伺っていたのだが。ほのぼのと話しているように見えて、ちっともこの男は隙を見せない。
もう面倒になって、頭突きをかました矢凪である。
「治癒より蘇生の方が早ェたァな。普通は逆な気もするが、マァいいさね」
ふむ、と満足そうに黒装束は何度も頷いた。
「マ、これくれェできりゃァ、合格、合格。ウチに入った後もしばらくもちそうだなァ」
「はぁ!? なんの話だ、てめぇ!」
矢凪は声を荒げる。さっきから、こいつがなにを言っているのかさっぱりだ。戦い自体は楽しいのだが、こいつがうだうだと、訳の分からない事を言うのが気に食わない。もういいとっととぶちのめそう。
顔面目掛けて拳を飛ばす。それを掌で受け止めた黒装束の腹に、同時に放った拳をめり込ませる。まともに入った。たたらを踏んだ黒装束の右脇腹に膝を蹴り込むが、寸前で躱された為に装束を掠めるだけに留まった。
「っと……流石に戦いが好きなだけあるなァ。時に兄サン、ちったァ俺の話を聞いちゃァくれねェか?」
体勢を立て直し、頭をかく黒装束。矢凪は吐き捨てた。
「てめえの話ぃ聞く義理はねぇなぁ!」
眼前で跳躍。回転しながら踵落としを繰り出すが、回避される。地に踵がめり込み、落ち葉と土が舞い上がり視界を覆う。閃光。土煙を斬り裂いて風切り音が首に迫る。左腕を咄嗟に掲げ防御。手の甲の下が真一文字に切り裂かれた。浅い。問題無い。気配目掛けてその左腕を横薙ぎに振るうと、黒い影が背後に飛びすさる。
ゆるりと立ち上がった黒装束が片手に持った苦無が、くるりと指で回される。側面を流れる矢凪の血が、飛沫となって散った。
お座り状態で戦闘を観戦していたアオが、ぴょこんと立ち上がった。わうっ、と一声吼える。
「矢凪! 矢凪! あいちゅのもってるあれね、へんなにおいしゅる!」
変な臭い。毒か。動けなくなるのはまずい。
即断即決。矢凪はくわりと口を開け、傷口に噛みついた。力任せに己の肉を噛みちぎり、足元に捨てる。血が噴き出すのも構わず、切り裂かれた辺りを重点的に肉ごとえぐる。
額に手を当てて、黒装束は頭を左右に振った。
「あーあーあーあー、毒の効きも知りたかったが、しょうがねェなァ。……しかし、ほんっとにテメェの身体を大事にしねェ兄サンだなァ」
その身体ァ自分一人のモンじゃァねェんだぜィ、と続ける黒装束。矢凪は肉片を吐き出すと拳で口を拭い、それに冷笑を返した。
「話聞く義理はねぇって言ったぜ」
「……しょうがねェなァ。んじゃあ、作家の兄サンによォーく言って聞かせてもらいねェ」
「あ?」
片眉を跳ね上げ、矢凪は男をねめつけた。
「なんでてめぇ、あいつを知ってんだ」
いやそもそも、今の今まで頭からすっぽ抜けていたが。一体全体こいつは何者なのだ。
苦無、撒菱、黒装束とくれば忍なのだろうが、なぜ忍が椛御前を箱から出して襲い掛からせようとしたり、矢凪の力を試すような真似をする。
黒装束が苦無を収め、ひょいと肩をすくめた。
「マ、兄サン達にゃァ前々から興味があってナァ。ウチで働いてもらおうと思って、ちぃっとばかり調べさせてもらったのさァ」
「はちゃらく? どこでー?」
「断る」
能天気に首をかしげるアオと、何も聞かずに一言で切り捨てる矢凪。対照的な反応の二人にくつりと笑って、黒装束が肩をすくめてみせる。
「そう言いなさんな、兄サン。お前が前にいた所よりは、ウチは気楽だぜィ」
矢凪は瞠目した。我知らず息が詰まり、黒装束を凝視する。……こいつ、どこまで知っている。
アオがこてんと首をかたむけた。
「まえ?」
「なんだちびコロ、知らねえのかァ。この兄サンはナァ」
「うるせえ!」
言葉を続けようとする黒装束に、矢凪は怒号諸共足元の石を蹴りつけた。矢のような速度で飛んだそれを、首を軽く曲げて回避し黒装束は両手をひらひらと振る。
「はいはい、悪ィ悪ィ。もう言わねえから、許してくんなァ」
「……てめぇ、どこの手のモンだ」
黒装束の言った「前にいた所」というのが、悪縁あってしばらく居た盗人一味の事を指しているのだと、矢凪は直感した。それを知っているのなら、この男も貴墨の闇に属する盗人一味の手の者だろう。
仕える者を失い、盗人に身を落とす忍崩れがいるとは聞いた事がある。
「ま、作家の兄サンが承諾したら、兄サンもウチで働く事になるんだから。ちっとは仲良くしようぜィ」
軽い調子の言葉に、は、と思わず嘲笑が漏れた。
「あの阿呆が、てめぇみてえに怪しい奴とホイホイ手ぇ組むタマかよ」
あいつは、丞幻は自分が好きなものしかやらない質だ。嫌いな事は死んでもやらない。どんな交渉をしているのか知らないが、そう簡単に丞幻が頷くとは思えなかった。
そしてそんな事は、矢凪にとってはどうでもいい。
肉が盛り上がり、すっかり傷の癒えた左手を握り込んだ。
「てめぇは殺す。どこまで知ってんのか吐いてもらうからな」
「……んっとにしょうがねェ兄サンだなァ」
目元に険を宿らせ、腰を軽く落として半身になる。黒装束はあくまで自然体のまま、指先でくるくると苦無を回した。
互いの間でぎしぎしと空気が軋み、目に見えない火花が散った。矢凪の背後で座るアオが、二人に視線を向けて尻尾を振る。
緊張感が限界まで高まったその時。ぴぃ――――…………と、二人の間を鳥の声が駆け抜けた。
「おっとォ。悪いなァ、兄サン。もう終わりだぜィ」
「はぁ!?」
胡乱な声を上げると同時。一瞬で矢凪とアオの視界から音も無く、黒装束が消えた。周囲を見渡すが、紅葉の赤が広がるばかりで、あの目立つ黒い影はどこにも見当たらない。
ちっ、と矢凪は舌打ちをした。
くそ、逃げられた。流石に忍だけあって、動きが速い。
ちょこちょこと近寄ってきたアオが、不思議そうに鼻をひくつかせている。
「おいアオ、あいつの臭いは?」
「う、う? ……あいちゅのにおい、にゃいよ?」
「てめぇの鼻、騙くらかせんのか。大したもんだな」
狼、しかも怪異の嗅覚を誤魔化せるとは。思わず感心してしまった後、ふと首を捻った。
「……つうか、なんで急に退いたんだ、あの野郎」
「うーっとねぇ、えっとねえ。おっきいオレがね、『多分、丞幻の方でなにか動きがあったんじゃねえかなあ』っていってう!」
「丞幻の?」
アオはこくこくと頷き、尻尾を振った。
「う! 『作家の兄サンの交渉が終わるまでは付き合ってやるかァ、ってさっきぼそっと言ってたぞー』って! おっきいオレがいってうー!」
ぴく、と矢凪は片眉を動かした。そういえば、丞幻と交渉をしていると言っていたか。
澄んだ青空が、橙色の衣をまとおうとしている。それを睨んで、矢凪は低く呟いた。
「……帰るぞ」
〇 ● 〇
血のような夕焼けが、障子から差し込んで室内を照らす。それが先ほどまで四方を覆い尽くしていた忌々しい炎にも似て、丞幻はそこから視線を反らした。
流れる川音が聞こえるほどに、室内は静寂があふれている。多量にあった膳は全て片付けられ、先ほどまでのあれこれが夢のようだ。
障子べりに肘をついて広げた手のひらの上に頬を乗せ、ぼんやりと視線を彷徨わせていると。
「じょーげん……」
「なぁに、シロちゃん」
蚊の鳴くような声で名を呼ばれた。
頬杖をついたままそちらを向けば、シロが大きな瞳一杯に涙をためて正座している。膝の上で握りしめられた手が小刻みに震えていて、丞幻は慌ててそちらに膝立ちで近寄った。
「どしたの、どしたのシロちゃん。よしよし泣かないの、ね? 大丈夫よー、もうあいついないからね、怖い思いさせてごめんねえ。よしよし、ちょっと待っててね。美味しい羊羹買って来てあげるからねー」
すんっ、とシロは鼻をすする。夕日を映して橙に染まったおかっぱ頭が、左右に振られた。
「おれが、あそこで人肉って言わなかったら、ちゃんと逃げれたのに……」
そしたら、丞幻があいつの言いなりになることもなかったのに。
とつ、とつ、と涙混じりの声が畳に落ちる。
丞幻はシロを抱え上げて、膝の上に座らせた。途端に背中に手が回って、胸元に顔が押し付けられる。
「シロちゃんのせいじゃないからね、大丈夫よー」
背を叩き、ゆらゆらと身体を揺らして慰める。
――いずれ、ゆっくりお話を。
あの女はそう言った。ならあそこでよしんば逃げられたとしても、近い将来似たような状況に追い込まれていただろう。だから本当に、シロのせいではないのだ。
「でも、もっと早くに、御籤小僧の占を思い出してればよかったんだ。そしたら……」
「それを言うなら、ワシもシロちゃんに言われるまで思い出さなかったもの。シロちゃんだけが悪いんじゃないのよー」
「でも、でも、お前は鉦白家の人間なのに」
「……」
無言で、丞幻はシロの頭を撫でた。
怪異やそれを利用する輩、呪詛を操り他者を害する輩には死んでも屈するな、与するな。それが幼い頃から叩き込まれた教えだ。それを破る事になってしまった事には、流石の丞幻も鉛を飲んだような気分だった。
十六夜が、もしも「従わなければこの場で殺す」などと言って命を盾に脅してきたのなら、毅然としてそれを払いのけただろう。この場から、どんな手を使ってでも逃げただろう。
だが。
「でもねえ、孝右衛門殿を盾にされちゃあねえ……」
あえて妹分の夕吉ではなく、彼女が好いている夫の命を盾にする、というのがなんともいやらしい。
万一、本当に万が一孝右衛門が呪詛で死んだとしたら。丞幻は妹分が夫を目の前で失い、我を失うほどに嘆き悲しむ様を見せつけられる事になる。
こうなったのはお前のせいだと。妹が泣いているのはお前が逆らったからだと。嗤う声が聞こえるようだ。
シロの頭を撫でる手に力を込めて、丞幻は眉をひそめた。
ああ本当にあの女、性格が悪い。
「じょーげん! シロー! だっじょぶー!?」
ずだだだだっ、と廊下を走る騒がしい足音と共に、襖が物凄い勢いで開け放たれた。大きな音を立てて、襖が外れ室内に倒れ込む。
飛び込んできたのは童姿のアオだった。シロを抱きしめている丞幻を見つけると、矢のように一直線にすっ飛んでくる。
「だっじょぶ!? あんね、椛御前がはこでね、じゅばーってなってね、矢凪がちのびとちゃちゃかっちぇおにくがぶーってなってこうちょうがでちたからいにゃくにゃって」
「アオちゃん、落ち着いて。後半もう何言ってるか分かんなくなってるから」
興奮しているのか、いつも以上に舌が回っていない。丞幻の帯を肉ごと掴んで訴えるアオの頭を撫でていると、ふと影が差した。
見上げれば、矢凪がこちらを見下ろして仁王立ちしている。
「おかえりー、矢凪。どしたのよ」
金色の瞳に表情が無い。丞幻はぱちりと瞬きをした。
「……頷いたのか」
低い声が落ちてくる。その意味を正確に理解して、丞幻は無言で顎を引いて肯定してみせた。
「……」
ぎち、と眉間に皺が刻まれる。
拳が握り込まれたのが見えた瞬間、頬に鈍い衝撃が走った。




