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ひねもす亭は本日ものたり  作者: 所 花紅
儀式:椛温泉の札納

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〇 ● 〇


 氷に覆われた菫を掌に乗せて、うっとりと彼女は唇を緩ませた。

 ――ね、旦那様。ずっと、ずーっと一緒にいようね。あたし、旦那様が大好き。貴墨で……ううん、陽之戸で一等好いているんだ。だから一生、一緒にいようね。


〇 ● 〇


 前に出した足が、木の根に乗せた状態で止まる。


「旦那様、旦那様。ここで会えて、ようござんした。あの時の事は、ずっと謝りたいと、そう思っていたんでありんすえ」


 袖を噛むような、切なげな声が耳を打つ。

 きり、と矢凪は奥歯を噛みしめた。違う。これは、違う。この声は怪異だ、山に潜む名も無き怪異の一体。彼女では――淡雪では、ない。

 淡雪がいるのは、貴墨だ。貴墨は最初は冴木、羽二重楼(はぶたえろう)。淡雪はそこの花魁だ。そうほいほいと、花魁が外へと出れるものか。


「旦那様……どうして、こちらを振り返ってくれないんでありんすか……旦那様……」


 頭ではそう理解している。五つの声に振り返るな。それが占の結果だ。ならばこれは振り返らぬが吉なのだ。そう分かっていても。


「わっちの……あたしの所に来てくれないのは、あの時、あたしが旦那様を凍らせようとしたからだろう?」


 どくん、と心臓が跳ねた。は、と小さく息が漏れる。


「ねえ、旦那様……怒るのも当然だよ、分かってる。ねえ、でもせめて、振り向いちゃくれないかい?」


 嘆きを含んだ、か細い声が背中にぶつかる。矢凪は握った拳に力を入れ、手のひらに爪を食い込ませた。そうしないと、思わず振り返ってしまいそうだった。

 懐の中でもぞもぞと向きを変えたアオが、ぺふっ、と肉球を矢凪の頬に当てる。硬い感触に、ふ、と我に返った。


「矢凪、どちたの?」

「……なんでもねえ」


 いつの間にか止まっていた息を、ゆっくりと吐きだす。


「あれは、怪異……だな。声を真似るだけの、怪異。本人じゃあ、ねえ」


 己自身に言い聞かせるように、そう声に出す。元気良くアオが頷いた。


「う、しょだよ!」

「……よし」


 蛇のように地面を這う木を踏みつけ、矢凪は山道を駆け上がった。急に揺れた身体に、「わうっ」と慌てた声をアオが上げる。


「旦那様!? 旦那様、待ってよ、お願い、旦那様……!」


 追いかけてくる涙混じりの声を振り切って、駆ける。駆ける。駆ける。視界の端で赤い紅葉が流れていく。

 衿に爪を立てて振り落とされないようにしながら、アオが顎を上げた。


「矢凪、矢凪、あれ、だあれ? ちりあい?」

「ん……ちっとな」


 飛ぶように獣道を駆け進みながら、矢凪は曖昧にアオの問いに答える。

 あの時、淡雪に凍らされかけて。足元から冷たくなっていく中で、恐怖や怒りは無かった。ただ……一瞬だけ、それでもいいかと、そう思った。

 脳裏に、氷色の髪と瞳がふわりと浮かぶ。


「……別に怒ってねえよ」


 ぼそりと呟いた所で、ざり、と足が砂利を踏んだ。

 周囲を見渡して、視界が開けていた事に気づく。山頂だ。乱雑に木々が生えていた山中と違い、(いただき)は円形に平たく切り崩されていた。おかげで随分と見晴らしが良い。

 山道を全力疾走したせいで、流石に息が弾んでいた。風の一つでも吹いていればいいのだが、生憎今日は無風だ。山頂ではあるが、空気は生ぬるい。

 しかも天然の温石(おんじゃく)が懐に入っているので、正直、暑い。放り出していいだろうか、この温石(アオ)


「祠は」

「あっち!」


 青い毛並みに包まれた前足が、びしっ、と右を差す。その方向を向けば、木陰に隠れるように石で作られた祠があった。犬がうずくまったくらいの、小さな祠だ。

 浮いた汗を乱暴に袖で拭いながら、矢凪はそちらに近づいた。膝をついて、古い巾着袋の口を開ける。中には真新しい墨で呪文が描かれた、呪符が入っていた。

 さっさとそれを貼ろうとして、矢凪はふと眉をひそめた。


「……ん?」

「どちたの?」

「いや、祠の扉が……」


 元はしっかり閉じられていたであろう石の戸が、全開になっている。ぽっかりと開いた中に、あの生臭い瘴気の残滓はあれど、本体がいる様子は無い。両開きの戸の外側には、真っ二つに裂かれた呪符が貼りついていた。

 すんっ、と祠に向かってアオが鼻をひくつかせた。


「うー? においねえ、こいよ。ちょっとまえまでね、ここいたみたいにゃの」

「椛御前が解放されたなぁ、ちっと前って事か」


 どうやら丞幻の言葉が当たっていたようだ、と矢凪は思案する。

 なら当初の予定通り、椛御前をぶっ飛ばす方向で話を進めよう。やはり禍根など残さないように、徹底的に消滅させる方が世の為人の為矢凪の為だ。


「よしアオ、椛御前探すぞ」


 と、懐にいるアオの顔を覗き込んだ。

 青空を溶かしたような丸い瞳に、自分の姿が映り込む。――その背後に、黒い人影があった。


「……――っ!」


 矢凪が振り返るよりも、背後の影が片手に握った苦無を突き出す方が早い。

 肉を立つ鈍い音がして、紅葉よりも鮮やかな赤が空を舞った。


〇 ● 〇


 シロやアオに、秋波とも呼べない怪しげな視線を向ける美女。

 それだけで既に警戒して然るべき相手なのだが、それでも誘いに乗ってしまったのは、ひとえに作家としての好奇心であった。

 彼女の人となりとは。シロ達への妙な視線の意味は。一度気になれば、もう尻の辺りがむずむずとしてしまって、どうしようもない。誘いを断るより、少し話をしてみたかった。

 男ならば生唾を飲み込むような美しい女であるが、丞幻にとってはそういう対象ではない。あくまで、あわよくばネタになりそうな面白い話が出てくれれば、という下心しかなかった。

 嫌だ嫌だとぐずるシロを宥めすかし、紅葉羊羹五つ、それと貴墨に帰ったら井村屋の豆大福と練り切りを買うという事で、手を打ったのである。


 十六夜はよく食べた。

 茸の混ぜ飯、紅葉鮎の洗い、塩焼き、豆腐田楽、生姜餅、小魚の天婦羅、里芋の味噌煮、鹿肉のタタキ、蕪の餡かけ、茄子の焼きびたし、山ぶどう、それに月露。

 部屋を埋め尽くす、と言えば言い過ぎだが、三人で食べ切れるとは到底思えない量の膳が並べられていた。

 丞幻も健啖家(けんたんか)を自称しているが、それでも十六夜の暴食ぶりには呆気に取られてしまう。

 食事を口に運ぶ所作自体は非常に美しいのだが、その速度が尋常ではない。丞幻が小鉢を一つ空にしている間に、二つ三つが空になっている、という有様だった。

 お櫃から混ぜ飯のおかわりをよそい、背後にいるシロに渡してやりながら感嘆のため息を吐く。


「底抜け樽みたいに食べるわねえ、姐さん」

「ふふ、面白い例えですね」


 結わずに流した宵色の髪を揺らして、十六夜は微笑した。ぬめる里芋を器用に挟み、口に運ぶ。


「好きが高じて店を構えるくらい、食べる事が好きでして。よろしければ、一度いらしてくださいな」


 そう言って十六夜が口にしたのは、蛙田沢の料亭通りでも有名な高級料亭であった。丞幻も流石にその名は知っている。一見の客は絶対に入店させないが料理の味は非常に良く、どこぞの大名もお忍びで通っているともっぱらの噂だ。

 料亭番付でも、何度もその名を見かけている。


「行きたいとは思っているんだけどねえ。そこって、紹介が無いといけない所じゃない。お宅のお店に行ってる知り合いって、いないのよねえ」

「では、あとで一筆書きましょう。それを店の者に出せば、通してくれますよ」

「あら本当? 嬉しいわー」


 鮎の洗いを箸でつまみ、丞幻はにっこりと笑った。

 身までがうっすら紅葉色に染まった紅葉鮎は、締まっていて食べ応えがある。口にすると、ふわりと鮎独特の芳香が鼻に抜けた。

 うん、これは確かに美味い。矢凪もかわいそうに、これを食べられないとは。


「ほらシロちゃん。シロちゃんもお食べ。美味しいわよー、鮎」

「……」


 背後に皿を回すと、引ったくるように奪われる。視線を向ければ、ひょいぱくと鮎の洗いを食べていた。無言ではあるが食べる速度が速いので、気に入りはしたらしい。


「シロさん、こちらの小鉢はいかがです? 炊き合わせ、美味しいですよ」

「……」


 無視。完全にそっぽを向き、聞こえないふりをして、シロは洗いを口に運んでいる。

 十六夜が苦笑した。


「どうも、嫌われているようですね。私は」

「シロちゃん、人見知りなのよねえ。悪気は無いの、ごめんなさいねー」

「かまいませんよ」


 口元に手をやり、くつり、と十六夜は喉の奥で笑う。

 笑みを崩さないまま、丞幻は内心眉をひそめた。

 人見知りすら可愛い、という慈愛の笑みではなく、小動物の必死の抵抗を(わら)うような、嫌な笑声(しょうせい)だ。この姐さん、随分と良い性格をしているらしい。

 内心の不快感をおくびにも出さず、丞幻は食事を続けた。


「雪深し、醤油一滴、空椀(からわん)に――ってあるじゃない。ワシあれ、雪にすら醤油かけて食べたいっていう食いしん坊の唄だと思うのよねえ」

甲山人(こうさんじん)の一節ですか。彼は元々美食家で有名ですからね。なにせ晩年、『醤油とは、かけたもの全てを食材にする。全く摩訶不思議である』と書き残しているくらいですし」


 色々な話題を振ってみても、すぐにぽんと答えが返ってくる。打てば響くとはこの事を言うのだろう。他愛ない談笑をいくつか重ねるが、料亭を営んでいるというだけあって、十六夜の返答は如才(じょさい)なく教養に満ちていた。

 しかし話は弾みつつも、丞幻は眼前の女に対して心を許せないままでいた。

 目である。

 談笑する間も、黙々と食べている間も、女は妙に熱っぽく、それでいて無遠慮ではない程度にこちらを凝視してくる。ひどく嫌な目つきだ。

 秋波でも、欲情でもない。どの部位が一番美味いだろうか、そう値踏みされているかのようだ。気分はまな板の上の鯉である。

 そう思いながら何気ない風を装って、丞幻は開けられた障子の外へ視線を遊ばせた。

 四角く切り取られた向こうは静かで、あの時感じた瘴気など嘘のように静まり返っている。椛御前は、どうなったろう。矢凪とアオが無事に山頂まで辿り着けていればいいのだが。


「そういえば」

「んー?」

「お連れの方と、あの小さな子がいないようですが」


 どちらに行かれたのですか、と言外に尋ねられ、丞幻は口髭を撫でつけた。


「山登りよ。釣りは飽きちゃったんですって」


 椛御前の事に関しては、主人から固く口止めされている。適当に誤魔化すと、宵色の髪が音を立ててさらりと揺れた。


「そうですか。山には獣と怪異が多いですから、少々心配ですね。特に、冬ごもり前の熊は恐ろしいですし」

「ま、お腹が空いたら帰ってくるわよ」


 丞幻は肩をすくめた。


「熊程度だったら丸焼きにするでしょ。……あらシロちゃん、どしたの」


 つんつんっ、とシロに背中をつつかれて、振り返る。幼気な顔に、険しい表情が乗っていた。ぽちりとした、赤い唇が開かれる。

 ――おんなとほのおになんあり。

 音を発すること無く、唇だけがそう動いた。丞幻は片眉を跳ね上げる。

 昨夜、温泉で聞いた御籤小僧の予言。“炎”の方は分からないが、“女”というのがもし、眼前の十六夜の事だとするならば。

 このまま席を同じくしているのは、いささかよろしくないかもしれない。粘っこい視線も気になるし。好奇心の虫は疼くが仕方ない。逃げるか。


「あらまあ、どしたのシロちゃん。お腹痛いの? よしよし、いっぱい食べすぎちゃったのねー」


 シロに身体ごと向き直ると、丞幻は大袈裟に声を上げた。それだけで通じたようで、シロがこれまた大袈裟に呻くと腹を押さえて額を畳に擦りつける。役者である。後で煎餅もつけよう。

 箸を進めていた十六夜が、細首をかたむけた。


「おや、どうかなさいましたか?」

「シロちゃん、お腹痛いみたい。お泊まりなんて久しぶりだから、調子に乗って食べすぎちゃったみたい。申し訳ないけど、はばかりを拝借してくるわね」


 両手で腹を押さえて唸るシロを抱えて立ち上がると、「そうですか」と十六夜の唇に微笑が浮かんだ。


「私もよく、食べすぎてお腹を壊す事はありますから。気持ちは分かりますよ」


 手元の小鉢を持って立ち上がると、床に置かれた膳の間を器用に抜けて丞幻の方へやってくる。差し出されたそれを、反射的に見下ろした。


「あら、美味しそうね」


 紅葉を象った小鉢には、肉の味噌漬けが二切れほど入っている。上に散らされた胡麻が美味そうだ。


「ええ。中々美味しいんですよ、これ。お腹が治ったら、ぜひ食べてみて――」


 くださいね、と十六夜が言う前に。

 血相を変えたシロが、小さな手を振り上げた。音を立てて薄水色の振袖が舞う。

 十六夜の繊手(せんしゅ)から小鉢が吹っ飛び、壁に叩きつけられた。陶器が砕け、濡れた音を立てて肉が畳に落ちた。


「そんな……」


 シロの声が、小さく震えている。丞幻の二の腕辺りが、強く握りしめられた。


「そんな、()()を、おれに食えというのか!? ふざけるなよ!」


 空になった己の手を見下ろす十六夜を睨むように見据え、シロが嫌悪に満ちた怒声を上げた。

 その言葉を理解するが早いか、丞幻はシロをしっかと抱くと川に面した障子目掛け、痛む右足を無視して畳を蹴った。そこから落ちて死なないのは、矢凪が今朝証明している。

 襖を蹴り開けて逃げるより、こちらの方が相手の虚を突けるだろう。

 そう考えての事だったが。


「そう、慌てずに。少しお話をいたしませんか、鉦白丞幻さん」


 十六夜の笑い含みの声が響き。脱出を遮るかのように、窓際から激しい炎が噴きあがった。

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