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ひねもす亭は本日ものたり  作者: 所 花紅
儀式:椛温泉の札納

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「そんな嫌そうな顔しないのー。しょうがないでしょ、お前がそれ受け取っちゃったんだから」

「怪異に対してはてめぇの方が知識あんだから、てめぇが行きゃぁいいだろうがよ」

「これで登れるわけないでしょー」


 上がり框で草履を履きつつ、文句を言う矢凪に右足を差し出してみせる。

 温泉に浸かったからか、薬草が効いたのか、足首は赤黒く変色したままであるが、腫れの方はだいぶ引いていた。しかしまだ体重をかければ、ずきずきと痛む。これで山道を登れる筈がない。


「……」


 確かに、と思ったのか矢凪は何も言わず、脚絆の紐を締め直す。

 背後でぺこぺこと頭を下げる主や番頭を一瞥し、こそりと丞幻は耳打ちした。


「いいじゃないの。お礼に月露一樽くれるっていうんだから。なにがそんなに不満なの」


 最初は札を貼ってきてくれたら、礼として金子をという話だった。それを、金なんぞ食えねえから月露の樽にしろと言ったのは矢凪である。


「まぁな」


 頷いてから、矢凪は不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。


「札ぁ貼りにいくのはともかく、あいつらが他力本願なのが気に食わねぇ。客に任せるんじゃなく、てめえらで行きゃあいいってのによぉ」

「あー……」


 しょうがないわよ、と丞幻は古びた巾着袋を顎で示した。


「あちらさんに渡したとしても、すぐ持ち主の元に返ってくんのよ、それ。だからお前が行くのが一番良いの」

「どうにかして渡せねえのか?」

「そのやり方知ってるお嬢さん、今寝てるから無理でしょうねー」

「……」


 膝の上に肘をつき、広げた手の上に顎を乗せて矢凪はそっぽを向く。その頭に、丞幻は主人から借りた女物の着物を放り投げた。


「あ?」

「椛御前は男を食う、って言ったでしょ。そのまま山に行ったらいい餌よ、お前。それ羽織ってれば、多分誤魔化せると思うわよー」


 椛御前を封じた祓い屋は、誘き寄せる為に男の着物をまとっていた。今回はその逆だ。蔦模様の緑の着物は、無理を言って借りた主人の奥方のものである。

 日頃着ているものであるから、それには女の匂いがたっぷりと染みついている。これを羽織っていけば、男の匂いを誤魔化せるだろう。


「とにかく、さーっと行ってぺたーって貼ってくればだいじょぶだから。行ってらっしゃーい」


 はたはたと手を振ると、矢凪は心底面倒そうな顔で息を吐いた。



 こんなことに巻き込んでしまい申し訳ない、と頭を下げる主人達に「気にしないでー」と声をかけ、丞幻は部屋に戻った。

 戻りがけに、祓い屋の娘が寝ている部屋を覗いてみたがまだ目は覚めていないようだった。瘴気や穢れなどは感じないので、単純に崖から落ちた衝撃で気絶しているだけだろう。ひどい怪我も無いようだし、時間が経てば目覚めるはずだ。

 ほこほこと、頭から湯気を出したシロが飽きもせず床の間の雀を見ている。声をかけると、くりっと振り返った。


「あ、丞幻。矢凪は行ったのか?」

「ゆっくりしたかったのになんでこんな事を、みたいな顔して行ったわー」


 よいしょ、と座布団に腰を下ろし、右足を投げ出す。脇息(きょうそく)を引き寄せて肘をついた。


「頼み事は断らぬが良し、って占が出てたから行ってもらったけど。あいつ、一回山に誘われてるから心配だわー」

「アオが着いてったから、だいじょぶだろ」

「そうね、アオちゃんがいるなら大丈夫かしらん」


 アオなら、いざという時に足になれる。矢凪を乗せて祠まで駆け上がる事は可能だろう。


「お札を貼るくらいですめばいいけど……」


 これは丞幻の推測でしかないが、椛御前は既に復活している。小舟の上で急に感じた、あの生臭い瘴気。もし封印されているのなら、あのように異質な気配はしない筈だ。

 恐らくあの瞬間、椛御前が封印を破って復活した。あの娘は復活したばかりの椛御前に追われ、崖から落ちたのだろう。

 そこまで考えて、いや待て、と丞幻は己の思考に待ったをかけた。


「でも、あの子が落ちてから瘴気が出てきたのよねえ。その時点で復活したとすると、あの子はなにに追われてたの。他の山に住む怪異? そういえば矢凪を山に誘いだしたのは誰? 椛御前? としたら、朝には復活してたってことになるけど怪異の気配なんてどこにも」


 自分の考えに沈み込み始めた丞幻に、シロは瓢箪柄の毬を振り上げた。


「ていっ」


 軽い掛け声と共に、それを萌黄の頭目がけて投げつける。命中した。


「おふっ!?」

「うるさいぞ、丞幻。お前がここでぐだぐだ言っても、しょうがないだろ」


 矢凪が祠にお札を貼ってしまえば、それで終いだ。

 そう続けるシロの頭を撫でて、そうねえ、と頷く。


「ただ椛御前が復活してたなら、祠に札を貼りつけただけでどうにかなるとも思えないけどねえ」


 最悪、異怪奉行所に連絡が必要だろうか。そう考えた丞幻の頭を、銀髪の同心がよぎった。


「……万一の時は笹山殿に頼もっかしらん」


 途端にシロの顔が不機嫌一色に染まった。ぷいっ、とそっぽを向き、また畳に腹ばいになって雀に目を向ける。


「やだぞ。おれはあいつに頼むのは絶対に嫌だからな」

「……ほんっとーに嫌ってるわねえ、シロちゃん」


 紅葉の形をした塩煎餅を食べて、丞幻は苦笑した。



 矢凪達が出かけて、しばらく経った頃。丞幻がシロと毬を投げ合って遊んでいると、ほとほと、と隣室へ続く襖が遠慮がちに叩かれた。


「あら、ええっと……」

「衣川です。いらっしゃいますか?」


 部屋に響いた女声に、ぴく、とシロの肩が小さく跳ねた。床の間に手を付いて立ち上がり、ぱたぱたと丞幻に駆け寄ってくる。

 背中に隠れたシロの背を軽く叩きながら、丞幻は襖向こうに声をかけた。


「はいな、いらっしゃるわよー。どうかしたのかしら」

「知り合ったのも何かのご縁。一緒に昼餉でもいかがですか?」


 ねっとりと絡みつくような声に、丞幻は思わずシロと顔を見合わせた。


〇 ● 〇


 ざかざかと、荒い音を立てて矢凪は山道を進む。その顔は険しさに彩られており、全身から発散される「俺は今とても不機嫌です邪魔したら全員丸焼きにした後に食います」とでも言いたげな気配が、山の動物や怪異を畏縮(いしゅく)させていた。

 体力の配分を考えず、道無き道を大股で進む。渡された蔓模様の着物は、最初は肩から羽織っていたが歩く度にずり落ちるので、途中で面倒になり袖を通して帯の上から細引きで固定した。


「くそ……とんだ労働させやがって、面倒くせえ。絶対(ぜってえ)あの阿呆作家に日当上乗せさせてやらぁ」


 釣った鮎を食う予定だったのに。塩焼きも良いが、新鮮な鮎の洗いは非常に美味いと船頭が言っていたから、密かに矢凪は楽しみにしていたのだ。

 だというのに、なんて災難だ。かくなるうえはその椛御前とかいう怪異、いっそ憂さ晴らしがてらに消滅させてやろうか。丞幻の奴も、椛御前は復活したかもしれない、と言っていたし。そうだそうだ、それがいい。三年に一度札を貼る、なんて面倒な行事も無くなるし、山も安全になるし、自分も気分がすっきりするし、良い事ずくめだ。

 一人頷く矢凪の懐が、もそもそっと動いた。ぷは、と息を吐く声と共に、青い毛並みが顔を出す。


「矢凪ー、どちたの?」

「あ? その椛御前とやら、ぶっ飛ばしてやろうかと思ってな」


 懐にすっぽり収まっているアオの鼻面を指先で撫でると、ばふばふと長い尻尾が振られた。……着物の中で尻尾を振るので、腹がくすぐったい。


「やめろ、くすぐってえ。尻尾振んな」

「うー?」


 ぱちぱちっ、と青い目を瞬かせてアオは首をかしげた。


「矢凪、椛御前たおしゅの?」

「おう。一々札ぁ貼るよりいいだろ、ぶっ倒す方が。簡単で」


 張り出た木の根を踏みしだきながら、周囲の気配を探る。

 山に生息する力無き怪異や、獣などの気配が弱い。というより、息をひそめている。どいつもこいつも、ねぐらに隠れてひっそりと息を殺し、怖いものが通り過ぎるのを待っている。


「んっだよくそ、どいつもこいつも腰抜け共がよお」


 そこら辺に怪異でもいれば、脅して椛御前の所に案内させようと思ったのだが。

 小舟に揺られていた時に感じた、生臭い瘴気を辿ればいいか、と乱雑に生える紅葉の木に視線を向ける。……だが、紅葉がはらはらと舞うばかりで瘴気の欠片も感じない。どうやら椛御前も現在は、気配を殺しているらしい。

 ちっ、と舌打ちして懐に目をやる。


「おいアオ、椛御前の匂い辿れねぇか?」

「むり! においちない!」


 きっぱりと断言したアオが、ふと視線を横に投げた。鼻を動かして、空気中の匂いを嗅ぐように顔を上向ける。


「どした」

「でもねー、へんなにおいしゅる」

「あ? 椛御前か?」

「うー、わかんにゃい」

「どこからだ」


 アオは、小さな前足をぴょこりと上げた。


「うちろ」


 ――刹那。


「やーなぎー」


 背後から、丞幻の声が聞こえた。


「……あ?」


 矢凪は片眉を跳ね上げた。振り返らないまま、背後に意識を集中させる。声は続ける。


「あのねえ、ちょっと渡し忘れたのがあるのよ。お守りなんだけどねー」


 丞幻の気配は感じない。藪をかき分ける音も、小枝を踏む音も、足元に散らばる紅葉を踏みしだく音も聞こえない。声だけが、背中にぶつかってくる。

 足を進めつつ、矢凪は懐のアオを見下ろした。鼻面に皺を寄せ、小さく唸り声を上げている。


「これぁ、振り返らねえほうが良い奴だな」

「う!」


 親しいものの声を真似、振り返る、あるいは答えた者を襲う怪異だ。特に山に多い。振り返るまでは実体が無いので、(とら)えづらく面倒な相手だ。無視に限る。


「ねえねえ、ちょっと止まりなさいってばー! もうっ、足痛いのに頑張って追いかけてきたワシになんていう仕打ちっ! この暴力助手!」


 さて、どこに椛御前はいるのか。しかし後ろの怪異、声真似が本当に上手だ。上手すぎて逆にいらいらしてくるまである。

 周囲を睥睨しながら、矢凪は軽く拳を鳴らした。


「そこいらぶっ飛ばせば、流石に出てくるか……?」

「めっ、しょー! 矢凪、めっ!」


 懐から出した両前足をぱたつかせるアオに、矢凪は親指と人差し指を広げ、少しだけ、という手振りをしてみせる。


「ちっとだけだ、ちっとだけ。ここいらが住処だってんならよお、壊しゃあ泡ぁ食って出てくんだろ」

「矢凪、矢凪。椛御前の場所、おれ知ってるぞ。教えてやるから、着いてこい」


 今度は、背後からシロの声が聞こえた。相変わらず人の気配も無ければ足音も無い。アオと視線を交わして、矢凪は少しだけ足を速めた。

 慌てたような声が追いかけてくる。


「あ、待て矢凪。違うぞ、そっちじゃない。そっちは崖だぞ。こっちだ、ばか」

「矢凪、こっち! こっちよ! あんね、オレね、においわかりゅよ!」


 幼い声が二つぶつかって、思わず懐に目を落とした。アオが大きな瞳を瞬かせて、「えっ、オレここにいるのに、オレのこえまねしゅるの?」とでも言いたげな顔をしている。


「……阿呆だな」

「う」


 椛御前の祠は、山頂付近にあると聞いた。

 この山はそれほど高くないとはいえ、進んでいるのは通常の踏み鳴らされた道ではなく獣道。どれだけ急いでも四半時(約三十分)はかかるだろう。山歩きも、獣道を歩くのも慣れているのでそこはいいが、背後で響く声を道連れにしなければいけないとは、面倒極まりない。


「……振り返り様に裏拳とか」


 拳を握って不穏な言葉を呟く矢凪に、アオが首を横に振った。


「めっ! いちゅちゅのこえ、みちゃだめ、っていわれたしょ!」

「ああ……昨日のあれぁ、この事か」


 ――五つの声は、振り返らぬが吉。

 夕べ風呂場に響いた、抑揚の無い声が脳裏に蘇る。

 確かにあの占は、今の状況と一致している。ということは、あと二回声が聞こえるのか。まあ二回くらいなら、拳も足も振るわず我慢できそうだ。


「おおい、矢凪。やれやれやっと追いついた。丞幻殿から聞いてな、追いかけてきたんだ」


 前言撤回。

 反射的に背後に向けて振るいそうになった拳を、意志の力を総動員して押さえ込む。


「椛御前の所に行くんだろう。俺も一緒に行ってもいいか?」


 獣道によく通る朗らかな声に、ぎちぎちと眉間に皺を寄せて矢凪は思わず呟いた。


「殴りてえ」

「めっ。矢凪、めっ、しょ!」

「……一発。振り返らねえで一発だけ」


 そう言えばあとで詫びとして酒を奢ってもらいがてら、一発殴ろうかなと思っていたのだ。声がそっくりなので、実質自分の背後にいるのは為成という事でいいかもしれない。

 占で言われたのは、振り返らない方が吉、という事だけ。なら振り返らないまま手を出すのは良い筈だ。


「よし」


 暴論を脳内で並べ立て、拳に力を込める。


「――旦那様。わっちです、淡雪でありんすえ。お久しゅうござんす」


 獣道に似つかわしくない、(つや)やかな声が耳朶(じだ)に染み込む。矢凪は目を見開いた。自分が息を吞む音が、やけに大きく響いた。

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