四
〇 ● 〇
乱立する樹木の間を、転げるようにして獲物が駆ける。
地面から張り出した木の根が、天然の罠となって足を引っかける。獲物の身体が大きくぐらついた。前のめりに転ぶのをこらえ、必死に足を動かす。
道なき道を走りながら時折背後を振り返るのは、まだ面差しに幼さが残る若い娘。焦燥に顔を引きつらせ、胸元に古びた巾着をしっかと抱きかかえている。
「――……!」
振り返った視線の先、近くの樹木に黒影が見え、娘はひぃと怯えた息を漏らした。
草履が片方脱げたのもかまわず遮二無二駆ける。なんとか影を撒こうと、娘は木々を伝うように走った。だが追ってくるそれらは、ぴたりと娘に張り付き離れない。
近くの藪に飛び込みやり過ごすべく足を反転させようとするが、そこから響く獣の唸り声。娘の足が痙攣するように止まる。
はあはあと、汗みずくで肩を上下させる娘の目にわざと映るかのように、黒装束の人物が複数人、木陰から顔を出した。
穏やかな青空の下、燃えるような紅葉が広がっている。そこにぬっと立つ影、影、影。
娘の顔が恐怖と絶望で、くしゃりと歪んだ。
「……いや……ッ!」
震える膝を叱咤して、娘はまた走り出した。……しかし、入山してから影に追い立てられ、山道を走り続けているのである。体力はすでに、限界に近づいてきた。
喉からこみ上げる血の味を誤魔化すように咳き込み、泳ぐように手を動かしながらよろめく娘の足は、ほとんど歩くような速度である。
黒装束達は娘を捕らえるような事はせず、嬲るかのようにゆっくり、ゆっくりと後を追って行く。一定の距離を保ちながらも、決して逃すようなことはせず、娘を囲むように追い続ける。
りー……ん。りー……ん。りー……ん。りー……ん。
黒装束が動く度に、鈴の音が鳴り響いた。
りー……ん。りー……ん。りー……ん。りー……ん。
追われる恐怖と、限界に近い体力と、絶えず鳴り続ける鈴の音と。
それら全てが合わさって、娘の思考はどんどん単純化されていく。たった一つの考えに、身体が支配されていく。
――逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。
「そォそォ、良い子だなァ。そのまま真っすぐ逃げなァ」
響き続ける鈴の音に交じって、不意にはっきりとした声が聞こえた。
「まーっすぐだ。まーっすぐ。そのまま行きゃァ、崖がある。そこに向かって逃げなァ。そうすりゃァ、おっかねェモンも追ってこねえよ」
――まっすぐ、まっすぐ、崖に向かって、まっすぐ。
――そうすれば、逃げ切れる。怖いものから、逃げ切れる。
声が自分のものなのか、他人のものなのか、すでに娘にはよく分からなくなっていた。
ただ声が示す通りに、崖に向かって真っすぐ逃げなければ。そうすれば、周囲を囲む黒装束から逃げ切れる。
娘の頭には、すでにそれしかなかった。
声は続ける。
「崖から飛び下りりゃァ、お前を助けてくれる奴が待ってるぜィ。そうだなァ……薄茶色の髪の男だ。薄茶色の髪ィした男に、その巾着を渡しなァ」
声が響く度に、娘の瞳が熱に浮かされたように虚ろになっていく。うわんうわんと、声が頭の中に染み渡っていく。
「いいかイ? その巾着を、薄茶色の髪の男に渡すんだぜィ。そうすりゃァ、お前に代わって札納の役を引き受けてくれるからなァ」
――崖から飛び降りて、薄茶色の髪の男の人に巾着を渡す。そうすれば札納の役を引き受けてくれる。
娘の足に力がこもった。黒装束の者達がすでに歩みを止めているにも関わらず、娘は虚ろな瞳のまま、「まっすぐ……まっすぐ……」と呟きながら駆け去っていく。
紅葉の向こうに消えていく細い背を見送る黒装束達が、一斉に顔を上向けた。葉擦れの音も無く、黒装束の男が下りてくる。
「やれやれ……お頭の急な命令にも困ったモンだぜ、あのお嬢ちゃんに暗示をかけろたァな。ったく、しょうがねェなァ」
頭巾の上から頭をかいて、黒装束――無月一味の忍、嵐はため息をついた。
派手な水音が、娘が駆け去った方向から響く。嵐は肩をすくめた。
「マ、運が良かったなァ、お嬢ちゃん。あの作家連中が来なけりゃ、俺ァお嬢ちゃんを殺してたからナァ」
足下の地面がわずかに揺れた。腹に直接響くような、嫌な地鳴りが身体を震わせる。
「……頭領」
黒装束の一人が、密やかな声を上げた。嵐は顎を引いて頷いた。
「椛御前が出てきたなァ。お前らは山ァ下りて定刻まで待機。何か起きりゃァ、俺に鳥笛で連絡」
「是」
頭を下げた黒装束達が、一斉に散る。
「さァて。お頭の描いた絵に、上手く嵌まってくれりゃァいいが」
一人残った嵐はひとりごち、そのまま音も無く姿を消した。
〇 ● 〇
山から不意に、生臭さを含んだ風が吹き下りてきた。
シロとアオが釣竿を握ったまま、ぱっと顔を上向ける。半瞬の間をおいて、丞幻と矢凪も水面から視線を引きはがした。
刻み煙草をふかしていた船頭が、傘の下で不思議そうな表情を作る。
「どうなすった、お客さん方」
それに答えず眉をひそめて、丞幻は枝の張り出した崖を見上げた。……なんだろう、妙に山がざわめいている。
「……んん? なんか、急に気配が」
と、言いかけて丞幻は口を開けたまま固まった。
崖上に、人影が見えた。何かに追われているかのように、背後を振り返り振り返りしながら、真っ直ぐ崖に向かって駆けてくる。
「止まんなさい、落ちるわよ!」
口元に手を当てて咄嗟に叫んだが、人影は止まらなかった。
細い身体が、崖下に投げ出された。派手な水音を立てて、川に飲み込まれる。一拍遅れて水面が大きく波打ち、小舟が揺れた。
飛沫が雨のように降り注ぎ、きゃあっ、とシロとアオの悲鳴が響く。絹を裂くような船頭の悲鳴も聞こえた。たるんだ下腹が目立つ中年男の、あられもない悲鳴である。こんな状況でなければ噴き出していたところだ。
落ちないよう船べりにしがみつきながら、丞幻は波紋の中心部に視線を飛ばした。
人が落ちただろう部分には、ぷつぷつと白い泡が立つばかりで何も見えない。まずい、気絶したのか。
「矢凪、ちょっと落ちた人引き上げてくれる!? 月露一瓶お土産にしたげるから!」
その言葉が終わるが早いか、上着を脱ぎ捨てた矢凪が川に飛び込んだ。うね狂う流れを物ともせず、水をかいて進んでいく。
「船頭さぁん! ちょっとあそこまで船着けれる!?」
「へ、へいっ!」
肩にかけた手拭で顔を拭い、船頭が慌てて頷いた。櫓を繰り、川面に船を走らせる。
興奮した調子でアオが叫んだ。
「おんにゃのこだった! あんね、おんにゃのこだったよ!」
「女の子? なんでまた女の子が崖から落ちてくんのよ」
何かに追われた様子だったから、獣か怪異に追われたのか。
山を見上げる。風も無いのに、木々が不自然にざわめいていた。ずず、ずず、と断続的に地鳴りが聞こえるが、山自体は揺れていない。生臭い瘴気がゆっくりと広がっていき、それにあてられた雀が、真っ逆さまに川に落ちるのが見えた。
一体なんだ、と目を見開く。
さっきまでは普通の山だった。シロの幼い顔が、険しさに彩られる。
「変だ、変だぞ丞幻。さっきまで、強い気配なんてしなかったのに。急に怪異の気配が出てきた」
「そうねー……もしかして、ずっと気配を消してたのかしらん」
シロに頷いてから、丞幻は青い顔をしている船頭に声をかけた。
「船頭さん、もし具合悪いなら言ってちょうだい。異怪の守り紐があるから、それ差し上げるわー」
それを聞いているのかいないのか。
「……椛御前……」
震える船頭の唇が、誰かの名を呟く。その名に丞幻は眉をしかめた。聞き覚えがある名だ。
水面が割れる。飛沫と紅葉を撒き散らし、矢凪が水中から顔を出した。
「おい、こいつを……」
「はいよ、任せてちょうだい。シロちゃんアオちゃん、ちょっとそこどけてちょうだいねー」
張りつく前髪もそのままに、人影を船に押し上げてくる。揺れる小舟の上、水を含んで重たい身体を船頭と二人で引き上げるのはひどく苦労した。
元々、四人と船頭でそれなりにぎゅうぎゅうだった小舟だ。シロが船の右に寄り、アオがその膝に乗る。空いた空間に、引き上げた肢体を寝かせた。
若い娘だ、夕吉と同じくらいだろうか。手足の切り傷が痛々しい。色を失った唇に手をかざすと、微かながらもきちんと呼吸をしていた。
ほっ、と矢凪は安堵の息を漏らす。
「よっ……と」
小舟が転覆しないよう、注意しながら矢凪が船に上がった。それでも、ぎぃ……と軋む音がして船が右に傾く。
「う……」
娘の眉がしかめられた。白い瞼が震え、開かれる。焦点の散った瞳が、ゆらゆらと彷徨う。
「あら、大丈夫? 今から宿に戻るから、寝てていいのよ」
緩慢に細い首が振られた。
「こ、れ……これ…………を……」
娘は右手に、古びた巾着袋をしっかと握りしめていた。それを、矢凪に向かって差し出す。
「あ?」
「これ……こ、れで…………ふ、だ、おさ、め…………おね、しま……」
反射的に矢凪がそれを受け取ると、娘は安堵したように表情を緩める。そうして、ことん、と首を落とした。
〇 ● 〇
「椛御前って確か、五十年くらい前に封じられた怪異だった筈じゃあないかしら」
気を失った娘を連れて椛温泉へ戻れば、上へ下への大騒ぎとなった。
女中達によって娘は運ばれていき、二度も川に飛び込む羽目になった矢凪は、温泉に叩き込んだ。
その後、丞幻と矢凪は「内密なお話が……」と宿の主に呼ばれたのだ。シロとアオは「温泉行ってくる!」と温泉に入りに行ってしまった。薄情な二体である。
「お客様にこのような、恐ろしい話を聞かせるのは心苦しいのですが……」
と初老の主人が言いかけるのを遮って、丞幻は先の一言を放った。
虚を突かれたように、小さな目が瞬きをする。
「あの、なぜそれを……?」
「これでも祓家の端くれなの。だから、その怪異の名前は聞いたことがあるわあ」
そう言うと、主人は露骨に安堵した様子を見せた。
「そうでございましたか」
隣に座る矢凪が、「おい」と唸る。
「俺ぁ知らねえぞ。椛御前てなぁ、なんだ」
「男を食らう女の怪異よ」
紅葉の色を映したように、美しい着物をまとった女の怪異がいた。
この怪異、男の生気を好み、山を通る男を誘き寄せては食らった。生気を吸われた男は皆、枯れ枝のように朽ち果てた姿で見つかったという。
ある時、近隣に住む祓い屋が椛御前を退治に出かけた。祓い屋は女であり、夫の着物をまとい、臭いを誤魔化して山へ赴いた。
騙されて現れた椛御前と祓い屋は戦ったが、祓いきれることはできずやむなく、祠を作りそこに封じたという。
「……っていう話。場所がどこか、までは知らなかったけど、ここだったのね」
「ふうん」
「お恥ずかしい話です……」
頭を下げる主人に、丞幻は顔の前でぱたぱたと手を振った。
悪いのは怪異だ。彼ではない。謝る道理はどこにも無い。
「そちらさんのせいじゃないから、恥に思う事はないでしょう。それで、内密のお話っていうのは?」
「え、ええ。……お客様方が助けられた娘さんなのですが、かの椛御前を封じた祓い屋のお孫さんなのです」
おずおずと、主人は上目遣いになる。
「椛御前を封じた祠には、札が貼りつけられているのですが、三年に一度、それを新しいものと替える必要がありまして……それで」
丞幻は、主人が言わんとしている所を理解した。
「お孫さんが倒れてしまった以上、椛御前の封印がいつ解けるかも分からない。幸い封印の札はこちらにあるから、今すぐにでも代理を立てて、封印の札を貼り付けに行かないといけない……って、ことでよろしいかしらん?」
「はい、その通りです」
うんうん、と丞幻は頷いた。ぽん、と矢凪の肩を叩く。
「じゃ、頼んだわよ矢凪」
「は?」
胡乱気な顔をする矢凪。丞幻は、その手に持っている巾着袋を指さした。
「その巾着っていうか、中の札に術がかかってるの。例え失くしても、目的を果たすまでは持ち主の元に戻ってくるようにって」
今回は椛御前の祠に札を貼り付ける事が目的ね、と続ける。
「あのお嬢ちゃんを助けた時、『札納をお願いします』って巾着を差し出して、お前は受け取ったでしょ? それで持ち主が移ったみたい。今、その巾着の持ち主は矢凪、お前なの。だからお前が椛御前の祠に、札を貼りに行かないといけないの」
分かった? と首をかたむける。
「……はぁ?」
面倒事に巻き込まれた、と理解したのだろう。矢凪は思いっきり、顔をしかめて巾着に射殺しそうな視線を向けた。




