三
〇 ● 〇
目を開ければ、既に日は高い位置に登っていた。
寝すぎたせいか二日酔いか、なんとなく頭が痛いし目が腫れぼったい。あと、喉仏の辺りが妙にずきずきと痛い。
布団に寝転がったまま、大きく伸びをして丞幻は唸った。自分のものとは思えない掠れ声が部屋を流れる。
「うあぁ……」
「おう、起きたか」
声に首だけを向ける。布団に胡坐をかき、椛温泉の浴衣を着た矢凪が障子べりに肘を乗せて頬杖をついていた。もう片手では、胡坐の上にいるアオをあやしている。
子狼姿に戻ったアオの腹をもしゃもしゃとくすぐり、ぱっと手を離す。アオは笑って、太短い手足をぱたぱた動かした。シロは床の間の藤細工の雀がよほど気に入ったようで、床の間に肘をついて畳に寝そべり、雀が動くごとに足を動かしていた。
丞幻は横向きになると、肘を支えに身体を起こす。
「なあにお前ら、早起きしちゃって。家長のワシ抜きでずいっぶん楽しそうねー」
視界にちらつく萌黄色の前髪を払いのけ、じとりと半眼で矢凪達をねめつける。
人が健やかにくーかくーかと寝ている横で、なにを楽しそうに遊んでいるのだ。混ぜろ。
「三十路近くの男の全力駄々こねがそんなにお望みかしらん」
そんな丞幻に、何でもないような顔で矢凪が爆弾発言を投下した。
「しゃあねえだろ、俺ぁ気づいたら山ん中にいたんだよ」
「お待ち」
残っていた眠気が一瞬で飛んだ。
「なんて?」
機敏に起き上がり、膝を突き合わせる。
余談であるが、布団の並びは入口側から奥に向かってアオ、シロ、丞幻、矢凪の順だ。己の総力を挙げたじゃんけんの結果である。
それはともかく。
「なぁんで山の中にいたのよ。全くもう、呆けるにはまだ早いわよ百五十歳児」
「うるせえ、百五十も生きてりゃ呆けるわ」
「あらお爺ちゃん、朝餉はもう食べたでしょ? 夕餉まで我慢しましょうねー」
「おうてめえを朝餉の出汁にしてやろうか鬼嫁」
冗談めかしたやり取りを一通り終わらせ、丞幻はすいと表情を真面目なものにした。
「で、なんで山の中にいたの」
声量を落とし、続ける。
「……生餌関係?」
「ん」
不本意だ、と言わんばかりに顔をしかめて、矢凪は喉奥で唸るように肯定した。
雀を眺めていたシロが、首だけでこちらを振り返った。
「あのな寝ぼすけ。矢凪が急にな、障子を開けて飛び降りたんだぞ」
そうして語ったところによれば。
朝焼けが障子に映るころ、冷風に頬を撫でられてシロは目を覚ました。
見れば矢凪が布団の上に立ちあがり、障子を開けた所だった。
――矢凪?
淡々とした動作に不審を覚えて声をかけた所、へりに足をかけてそのまま真下の川に身を躍らせたのだという。
シロは丞幻を踏みつけて木枠に手をかけ、身を乗り出した。派手な水音と共に飛沫が立ち、視界を隠す。飛んでくる雫を振り払い、明けゆく空と同色の瞳で、必死に矢凪の姿を探した。
すると濡れて張りついた浴衣もそのままに川から上がり、山へ分け入っていく薄茶色の頭が見えた。
明らかな異常事態に、シロは慌ててアオを叩き起こすと、矢凪の後を追わせたのである。
寝起きにも関わらず、俊敏に山を駆けたアオは程なくして、絡繰り人形のようにぎくしゃくと歩く姿を発見。藪で引っ掻いて傷だらけになった足首に噛みつくと、夢から覚めたかのように金色の瞳を瞬かせた。
――あ? なんだ、どこだ、ここ。
「で、アオが正気に戻った矢凪を連れて、ここに戻ってきたんだ」
派手な水音にもしや誰か落ちたのでは、と慌てていた所にずぶ濡れの矢凪が現れたので、当然の事ながら大騒ぎになったらしいが。
酔い覚ましに窓を開けたら落ちてしまった、騒がしくして申し訳ない、でごり押し、詫びとして幾ばくかの金子を渡し部屋に戻ってきたのだという。
「おれはお前を起こそうと思ってな、『うーんむにゃむにゃ、申し訳ありません。もう〆切は守りません』って寝言言ってるお前の喉を突いたら、『こきゅっ』って言って動かなくなったんだ」
丞幻は思わず喉を撫でた。道理で痛いわけだ。
「シロちゃん、喉は駄目よ、喉は。死んじゃうからね、ワシ」
シロは真面目くさった顔で頷いた。
「分かった。今度は毬を股間にぶつけることにするな」
「そしたらワシ女子になっちゃうから止めてね」
鞠を素振りするシロをやんわり止めつつ、丞幻は矢凪を見た。
「どうして山まで行ったか、ほんとーに覚えてないの?」
例えば夢現で誰かに誘われたとか、人影がこちらを手招いていたとか、美味そうな匂いが山から漂っていたとか。
アオの腹を撫でながら、矢凪は眉間に皺を寄せたまま首を振った。
「なんもねえよ。寝てて、気づいたら山にいた。それだけだ」
丞幻は天井を仰いだ。
「もう、これだから無意識に惹かれるって面倒なのよー!」
声が聞こえたなら、耳を塞いで答えないようにすればいい。手招きされたなら、そちらを見なければいい。
だが、どうやって山に誘い込まれたか分からなければ、その対策も打てやしない。
いやそもそも、と丞幻は気づいた。
生餌体質であり、怪異に惹かれやすい矢凪には守り石を渡していた。蓮丞に頼んだ守り紐が来るまでの代わりではあるが、それでも十分に身を守れるはずである。
「ね、お前に渡した守り石は?」
「壊れたから捨てた」
矢凪の答えは簡潔であった。
思わず力が抜けて、布団に突っ伏する。
後で丞幻主催、『自分の命を大切にしましょう~阿呆でも分かる、わくわく三原則~』講座を行わなければ。
「……いつ壊れたの」
「為成の野郎と戦った時」
「……なんで言わなかったの」
「家に帰ってからでいいと思って」
「出先だろうと色々持って来てるから、壊れたら言ってちょーだい。お願いだから」
革袋の口を開けながら念を押すと、不承不承に頷かれた。
留まり小路でいくつか使ってしまったが、袋の中には守り紐や石、霊力の無い者でも使える呪符などがまだ残っている。その中からとろりとした緑色の守り石を引っ張り出した。
「はいこれ、持っててねー」
投げ渡すと、矢凪は素直に受け取り懐に入れた。そうして、唐突に呟く。
「あ、そういやひとっつ思い出した」
「なにを?」
アオの肉球を揉みながら続ける。
「誰かが腹ぁ空かしてるから、行ってやらねえと、って思ってたんだよな」
〇 ● 〇
椛温泉の名物と言えば、温泉、料理、景色、そしてもう一つが紅葉鮎であろう。
ほんのりと背を赤く染めた鮎は、普通の鮎と違って今時分が一等、脂が乗って美味い。警戒心が強く、普段は石の隙間などに身を潜めているが、毛氈のように紅葉が川面を覆うこの時期だけは話が別だ。
天敵に狙われにくいとあって、鮎達はねぐらから出てきてついついと泳ぐ。そうして繁殖の為に番を見つけるのである。
椛温泉では、金を払えば鮎釣りの為に小舟を出してくれる。釣った鮎はその場で串を打って焼くもよし、温泉に持ち帰って料理してもらうもよしだ。
遅めの朝餉を食べた後、丞幻達は鮎釣りに挑むべく小舟を谷丹和川に浮かべてもらう事にした。
「山の怪異に狙われてんだったら面倒だし、もう帰っちゃおっか?」
と、丞幻は最初そう主張した。
山というのは、アオのような獣の怪異の他に女の怪異がよく現れる。そのどちらも執念深い性質があって面倒なのだ。気配を覚えてしまえば、山から離れようともしつこくしつこく追ってくる。
山へ導いたのがなににせよ、完全に気配を覚えられる前に離れた方がいい、というのが丞幻の意見だった。
しかも矢凪は、「腹を空かしているから行ってやらないと」と言っていた。どう考えても食われに行こうとしている。
カギュー様という怪異を取材できたので、成果としては満足である。無理をして別の怪異を取材する気は無いのだ。
だが。
「あゆたびたい!」
「あゆ釣りたいぞ、丞幻」
「なんでだよ、鮎塩焼きにして食うぞ」
と、鮎に魅入られた一人と二体が強固に反対した。
結果、譲渡案として鮎を釣って食ったら帰ろう、という事に相成ったのであった。
ちなみに隣室に泊まっている十六夜に、騒がしくした事を詫びたのだが。「そうでしたか。怪我でもしたのではと、心配していましたよ」と特に気にした様子も見せずに微笑まれた。文句が無いのが逆に怖かった。
〽ハァー、ヨイトヨサア、ヨイトヨサア。
紅葉釣れりゃあ子に食わしょ。二匹連れりゃあ女房に食わしょ。
ハァー、ヨイトヨサア、ヨイトヨサア。
櫓を繰る船頭の舟唄を聞きながら、丞幻は船べりに肘をつく。舳先が紅葉をかき分け、白い筋を川面に刻んだ。
「まあ、ワシも鮎食べたいっちゃ食べたいからいいけどさあ……」
今の所は、矢凪におかしな様子は無い。アオが噛みついただけで正気に戻ったのだから、それほど強くない怪異だろうというのが、怪異二体の見解だった。
山の方を視てみたが、妙な気配は感じない。といっても霊山や神山で無い限り、山には少なからず怪異や獣が存在する。それらの気配が混然一体となっており、特定の存在を探すというのは難しいのだ。
その中でもそいつが突出して強力な存在であれば、流石に分かるのだが。
小舟は、その山に向かって進んでいる。船頭曰く、紅葉鮎は宿の近くではなく、もう少し山側に行った所に多いらしい。
「ほら、人の声が響いているんでねえ。どうしてもあの辺にゃあ鮎が寄りつかねえんですよ」
そう言って船頭が船を止める。川の両側は、衝立のように真っすぐ切り立った崖がそびえていた。崖の上には紅葉がずらりと並び、雨のように葉を降らせている。
緋色の毛氈を敷いたような水面からは、水中の様子を伺う事はできなかった。成程、これは確かに。
「鳥からも獣からも見えないし、これなら鮎も油断するわねえ」
「あゆ、あゆ! あゆどこいりゅ?」
「ばかアオ、乗りだしたら落ちるぞ、危ない!」
船べりに両手をかけ、青い目をきらきらさせて上体をぐいーっと乗り出すアオ。その襟首を小さな手でシロが引っ掴み、落ちるのを阻止している。
「さ。お客さん方、ここなら存分に釣れると思いますよ」
ちび達のやり取りを微笑ましく見ていると、細い釣り竿を手渡された。糸の先には返しの付いた釣り針が付いている。
これまた船頭が用意してくれた虫を釣り針に引っ掛けていると、無言で矢凪にそれを引ったくられた。
「あっ! ちょっと矢凪、それワシの釣り竿でしょーが! なに勝手に取ってんのよ泥棒!」
「うっせえ」
ふい、と顔を背けて、矢凪は釣り糸を紅葉の隙間に垂らした。持ってきた瓢箪をくいとかたむけながら、やんわり握った竿を揺らす。
「なによう、もう。妻の稼ぎをぶんどって飲みに行く亭主じゃあるまいし。三行半突きつけてやろうかしら、ったくもー」
ぶちぶちと文句を呟きながら、別の竿に餌を引っ掛ける。それをすかさず、シロがひょいと奪い取った。
「シロちゃあーん!?」
「おれ達が大変だったのに、ぐうぐう寝てたむくいだ」
くふくふ、と楽しそうに目を細めてシロは笑い、糸を水面に垂らす。早く釣れろー、と白いおかっぱがぴょこぴょこ楽しそうに揺れた。
「う!」
「……アオちゃん?」
アオがじいっと、期待に満ちた目をこちらに向けていた。お前もか。
「…………」
きらきらとした瞳を真っすぐ見つめ返す。
「…………うー?」
こてんっ、と小首がかしげられた。青空を切り取ったような大きな瞳が、丞幻をじいーっと見つめてくる。
「…………ぐぬう」
丞幻は唇を噛み、唸った。
駄目だ勝てない。
蓋付きの椀に入れられた、名前も知らない小さな虫を針に引っ掛けてアオに渡す。
「ありやとー!」
「……どーいたしましてえ」
早速、勢いよく釣り糸を水面に振り下ろすアオ。糸が水面に落ちるが早いか竿を振り上げた。
「うー?」
「アオ、待つのが肝要だぞ。いいか、すぐに竿を上げても、釣れないんだ。いいか、待つんだ。待つんだぞ。すぐ釣れなくても、ちゃんと待ってるんだぞ」
「う!」
何も付いていない釣り針を見つめ、不思議そうに首をかしげる。それにシロが、お兄さんぶって釣り指南を始めた。
釣り餌を付けながら、丞幻の頭に稲妻が走った。
「ああ……御籤小僧の言ってた占って、これねー」
昨夜の光景が蘇る。
――一つ、待つが肝要。
あの占が示していたのは、この事だろうか。それはなんとも、平和な結果である。
「あーあ、もう。朝は喉元に一撃食らうし、こうしてこき使われてるし……ううっ、ワシってばかわいそう」
泣き真似をしながら釣り糸を垂らして、丞幻は密かに決意した。
見てろ。絶対に一番多く鮎を釣って、奴等の目の前でばくばく食ってやる。




