一
貴墨と千方国を隔てる墨川山脈へ向かう街道沿いには、狂い紅葉の山がある。
葉月の半ばから終わりにかけて色づき、長月の半ばには散っていく早染めの紅葉。周囲の山や野がまだ青々しい緑葉に覆われている中、一足先に紅葉を楽しめるとあって陽之戸名物百選に選ばれるほど、人気の旅行地である。
特に美しいのが、山を流れる谷丹和川。紅葉が川に舞い落ち、鮮やかな赤に染め上げる様子は八千代桜の名所、久雅川で見られる花筏にも負けずとも劣らず。西の久雅、東の谷丹和と謡われる由縁である。
そこに建つ椛温泉といえば、景色良し料理良し温泉良しの三拍子。山が紅葉していない季節でも、料理や温泉を楽しみに泊まりに来る客は多いのである。
〇 ● 〇
「ありがとうねー、蒼一郎ちゃん。ここまで乗っけてきてくれて」
椛温泉の手前で蒼一郎の背から降り、丞幻はぽんと青い毛並みに包まれた首を叩く。降りたシロが、川べりに駆け寄った。
わずかに青みがかった水面を、紅葉が魚群のように流れていく。目の覚めるように鮮やかなそれを取ろうと、シロが振袖を片手で押さえて手を伸ばす。うっかり落ちないように、それとなく矢凪が見守っていた。
「さすがに、今のワシの足じゃ東丸村から温泉まで来るのに、夜中になっちゃうからねえ」
打ち身に効く薬草を患部に貼り、手拭いで固定しているものの、異界で捻った右足の痛みは中々取れなかった。そっとしていればともかく、歩けば脳天へ突き刺さるような痛みが走る。これで東丸村から椛温泉まで歩けるはずもなく、蒼一郎が全員を背に乗せて走ることと相成ったのだ。
成人男性二人乗せて全力疾走したにも関わらず、疲れた様子を見せない蒼一郎は、長い尾を振ってからりと笑う。
「気にすんなってー。オレも早く温泉入りたかったし。んじゃ、可愛いオレに代わるかんな」
と、瞬き一つで巨体が縮み、小さな童の姿になる。満面の笑顔のアオが脛に突撃してきた。
「おんしぇーん! じょーげん、おんしぇん!! オレね、おにゃかしゅいた! おんしぇんもはいりゅ!」
「あだっ、あだだ! ちょっと待ってアオちゃん、ワシあんよ痛い痛いなの、頭突きされたら痛いの! めっ!」
「おんしぇんー!」
「痛い痛い! 聞いて! アオちゃん聞いて!」
全く聞いていない。
どむどむ頭突きを繰り返すアオの首根っこを、ひょいと矢凪が掴み上げた。目の前にアオをぶら下げて、低い声で唸るように告げる。
「人が止めろっつったら、止めろ」
「う!」
首根っこを掴まれたまま、びしっ、と気を付けの体勢を取るアオ。「分かったな」と念を押され、真面目な顔でこくこくと首を縦に振る。
「よし」
矢凪が頷いた途端に、首元にアオがぎゅうとしがみついた。そうして反抗なのか歯が痒いのか、首筋にがぶがぶと噛みつきだす。
矢凪が眉をひそめて、小さな後ろ頭を一つ叩いた。
「やめろ、噛むんじゃねえ」
「うぶー」
一連の流れに、丞幻は思った。――矢凪は本当に躾が上手だ。自分だって、悪いことをしたらちゃんと叱っているはずなのに。あそこまで聞き分けよくしょぼくれないぞ。
「お前は本気で怒らないからだぞ、丞幻。だから怒られても怖くないんだ」
ふふん、とシロが胸を張った。
「ほら、そんな事より見ろ、いっとうきれいな紅葉だぞ」
振袖を揺らして、紅葉を見せてくる。大きな紅葉は山の向こうへ落ちていく夕日の明かりに照らされて、つやつやと赤く光っていた。
小さな爪と指を透明な雫が伝って、手首を濡らしている。
「あら綺麗ねー、飴みたい。あとで乾かして、栞にしよっか」
着物の袂で手を濡らす水を拭ってやり、丞幻は矢凪達に声をかけた。
「じゃ、そろそろ温泉行きましょーか。暗くなってきたら、怪異も獣も出てくるしねえ」
「おーんせん、ごーはん、もーみーじー」
「おーんしぇん、ごーはん、もーみーみー」
少し前を歩くシロとアオが、仲良く手を繋いで歌っている。たん、たっ、たたんっ、と小走りの足が歌に合わせて音頭を取っていた。
椛温泉は、山の中腹ほどに建てられている。そこから山の麓まで、客が道に迷わぬように板張りの橋がかけられていた。石だらけの河原から少し浮くようにかけられたそこは、綺麗に掃き清められ砂粒一つ落ちていない。
欄干には等間隔に玻璃竹行灯が置かれており、橋の周辺は白く照らされていた。「温泉」「椛」「ようこそ」などという文字の他、紅葉や雀などの絵が竹に彫り込まれていて、目が楽しい。
その行灯の明かりが届かない川向こうは薄闇に覆われ、影との境が曖昧になっていくようだ。
矢凪の肩を借りて歩く丞幻の左側に、横幅八尺程度の川が流れている。谷丹和川だ。
さらさらと、竹葉が擦れるような音を立てて水が走っていた。流れる水面は蛇のようにくねりながら麓まで下りて街道にかけられた橋をくぐり、海へと到達するのだ。ついついと流れていく紅葉もいずれは、大海へ漕ぎ出していくのだろう。
紅葉の流れる様を見ながら、丞幻はしみじみとした。
「わびさびだわねえ」
「わさび? どこに」
目を細め、きょろりと川向こうの紅葉並木を見透かす矢凪。本当に食い気しかない助手である。
紅葉の赤は闇に沈み、黒々とした木々が立ち並んでいるようにしか見えなかった。じっと見つめていると、太い幹の影から「ひょこり」と人の顔が覗いてきそうだ。
紅葉並木にわさびの影を探す矢凪の足を軽く踏んで、丞幻は顎をしゃくった。
「わさびなんて無いわよー。……ああほら、見えてきた見えてきた。あれが椛温泉よ」
行灯に照らされて、大きな建物が見えた。谷丹和川を跨ぐように建てられた、木造二階建ての建物だ。二階建てとはいうが、川を跨ぐ部分は増水を想定してか、高めに建築されている。なので実際は、三階建てくらいの高さがあるだろうか。
こちらに面した障子は閉じられている所もあれば、開けられている所もある。そこから光が漏れて、眩く周囲を照らしていた。宴会でもしているのだろう、賑やかな声と三味線の音色が川面を滑って丞幻達に届いてくる。調子っ外れの歌声が、いかにも楽しそうだ。
つい先刻まで真っ白い異界であれやこれやと大変だったので、聞くに堪えない音外れの歌に対しても、思わず万雷の拍手をしたくなるくらいには丞幻はわくわくとしていた。
手を繋いだまま、シロとアオが橋の残りを一気に駆け渡る。橋は緩やかな登りになっており、温泉の玄関へ続いていた。
シロ達は紅色に『椛温泉』と白抜きされた暖簾の前で振り返り、兎のように跳ね飛びながら期待に満ちた声を上げた。
その愛らしい光景に、思わず目元が緩んだ。留まり小路で理不尽に追いかけられたり、理不尽に罵られたりして、荒んでいた気持ちがほどけていく。
「じょーげん、やなぎー! はーく、はーく!!」
「早く来い、おれはもう歩くの疲れたぞ。温泉入るぞ、温泉。そんでご飯食べるぞ」
きゃっきゃ、と楽しそうに笑うシロ達。……ううむ、と丞幻は唸った。
近づいて分かったのだが、この位置から見える部屋の障子と思しき所は、どこもかしこも明かりが灯っている。
温泉と食事に期待を寄せているちび達には悪いのだが、背中をそろそろと不安が這い登ってきた。先ほどまでの浮足立つ気分が、ふしゅんと沈んでいく。
矢凪も眉をひそめて、「……おい」と呟いた。
「これ、空いてんのか。部屋」
「……やっぱ、野宿覚悟しとく?」
シロ達に聞こえないように、ひそひそと大人組は言葉を交わしあった。
丞幻達の目の前で、禿げあがった頭頂部を撫でながら番頭が頭を何度も下げた。
「あー……やっぱ満員?」
「あいすみません……今日はどこも埋まっておりましてねえ」
嫌な予感というのは的中するものである。
広く取られた上がり框に腰かけて、丞幻は萌黄色の三つ編みを指先で引っ張った。シロとアオに、そろそろと視線を向ける。
「おんしぇん……」
「満員……泊まれない……」
同じく上がり框に座った二体は、眉尻をしょんぼりと下げて俯いていた。
丞幻の胸に、ずきりとした罪悪感がわく。シロもアオも異界で頑張ってくれたのに、楽しみにしていた椛温泉が満員で泊まれないのは辛い。これはなんとかしてやらねば。
ちなみに矢凪は腰の瓢箪を傾け、酒が無い事に気づいて舌打ち。土間に飾られた、素焼きの狸が持つ徳利を睨んでいる。なにしてるんだ、あいつは。
「ねえ、大部屋の方は? そっちも空いてないの?」
番頭は、へこへこと頭を下げ続ける。
「あいすみません……今日は本当に、お客様が満員でして。あいすみません」
「あっそう、大部屋も駄目なのねえ」
こういう大きな宿は大抵、大部屋が几帳でいくつかに仕切られ、雑魚寝できるようになっている。普通に部屋を取るより宿賃は安いが、食事は出ない素泊まりだ。
しかし、そこも満員とは。
「……だめなのか」
「うー……」
ますます、ちび達の眉が下がっていく。アオなど今にも泣きだしそうに、瞳を潤ませていた。その頭をかいぐりまわしながら丞幻は少し考える。
大部屋も駄目か。となれば、どうするか。野宿は流石に勘弁願いたいし……ああ、そうだ。
「布団部屋か、物置は空いてる? 宿賃はちゃんと払うから、そこが空いてるなら泊めてくれるかしらん」
「布団部屋、でございますか?」
「そそそ。ちびちゃん達も疲れちゃってるし、ワシも足痛めちゃってねえ。今から山を下るのはきついのよ。狭くてもかまわないから、一晩泊めてくれないかしら?」
番頭も、子ども二人と怪我人一人を夜の山に放りだす程、無情ではなかったようだ。泣きそうなシロ達と、手拭を巻いた丞幻の足を順繰りに見やって、一つ頷いた。
「よござんしょ。そういえば使っていない物置が一つありましてね、少々埃っぽいですがそこでよろしければ」
「構わないわよ。四人で寝られる広さがあるなら、じゅーぶんじゅーぶん」
「では、部屋を片付けてまいりますので少々――」
「あの」
番頭が腰を浮かせかけた時、ふと艶めいた声がその場に落ちた。全員が、声の方向に視線を向ける。
声が響いたのは、玄関の正面に見える階段からだった。
何人かの宿泊客が階段を上り下りしていたが、声を発したのが誰か、丞幻にはすぐ分かった。――彼女は、階段の中腹くらいに佇んでいた。
美しい女だった。温泉宿で見かけるには、少々垢抜け過ぎていると思ってしまうほどに、作り物めいた美貌をしている。
風呂上りなのだろうか。洗い髪にした長髪が、しっとりと濡れて玻璃竹行灯に光っている様がひどく艶めかしい。こちらを見下ろし、僅かに唇を笑ませる様子は一幅の絵画のようですらあった。
「これはこれは、衣川様。どうかなさいましたか?」
振り返った番頭が、慌てたようにぺこぺこと頭を下げる。その様子からして上客らしいと、丞幻は当たりを付けた。
女はそんな番頭を見下ろし、血のように赤い唇を開く。
「――いえ、少々話が聞こえてしまいまして。そちらの方々」
「あら、なあに?」
切れ長の瞳がすい、と丞幻に向いた。墨を溶かし込んだような漆黒の瞳に、己の顔が映り込む。
「よろしければ、私の部屋に泊まりませんか?」
予想外の申し出に返答する前に、きゃあっと隣から歓声が上がった。
「えっ、いーの!? ありがとごじゃます! シロ、シロ! シロもありがとごじゃますしにゃーと!」
「……ありがとございます」
喜び勇んで礼を言うアオと、その背に引っ付くようにしながら白髪を揺らして頭を下げるシロ。
女は階段に佇んだまま、ゆっくりと瞳を細めた。
「ふふ。可愛らしいですね、お子さんですか?」
「そんなもんよー。そちらの申し出は、とおってもありがたいんだけどー……ご迷惑じゃない?」
「いいえ。私の泊まっている所は、二部屋でして。この通り、気ままな一人湯治の身。よろしければ、空いている方をお使いください」
「そう? でも、女一人旅の所にワシらみたいなむくつけき男達が泊まるってのも……」
と、素焼きの狸を睨んでいた矢凪が、怪我をしていない丞幻の左足を軽く踏みつける。何をするんだと思わず睨み上げれば、肩がひょいとすくめられた。
「いいじゃねえか、泊めてくれるってんならよお。それともなんだ、断る理由があるってか?」
「……そうねえ」
後ろ頭を軽くかきながら、丞幻は唸った。物置に泊まる所が、きちんとした部屋に泊まれる事になった。逆ならともかく、これで断る理由は正直無いのだ。
こちらの返事を待っている女を見上げて、へらりと緩く笑った。
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかしら。えーっと……」
「衣川十六夜――と、申します」
宵色の髪を揺らして、女は微笑を浮かべた。




