終
壁から視線を外して床に落としていた矢凪が、ふと左側に体重をかけている丞幻の足元に目を止めた。
「あ? お前、足どうした」
「気づくの遅ない? 落ちた時に捻っちゃったの」
「へえ」
「納得してないで肩貸しなさい助手」
成程、と腕を組んでいる矢凪の肩を、指でとんとん叩く。壁に寄りかかってもいいのだが、異形達が収まっている所を触るのは、生理的に少々嫌だった。
「ん」
「はいどーも」
差し出された肩に手を置く。支えがあれば少しは楽だ。ひょこ、ひょこ、と足を引きずりながら、何かを考えている様子の為成に近づいた。
「それ、どーすんの。もう人間じゃなくなっちゃってるわよ」
東丸村の村守様を消滅させて村民を贄とし、怪異を神として招聘。己の肉と魂を捧げて怪異の在り様を変容させた。獄門台に五回は余裕で登れるし、連座で浅沼家当主が切腹を命じられてもおかしくない大罪の数々である。
だというのに、この世の苦しみ全てから解放された、みたいな顔をして寝こけているとは。
くぼみに収まる浅沼忠の顔を眺めながら、為成は腕を組んだ。
「そうだなあ。やらかした事について、贖ってもらわないと困る。こいつ一人、ここに収まるまでに村民数十人が犠牲になっているんだからな」
「その犠牲になった奴等も、ここに収まってんのか?」
足元にうろうろと視線を彷徨わせながら、矢凪が誰ともなしに呟く。頑なに壁を見ようとしない。なぜ見ないのかと思ったが、そういえば一面にびっしり何かが集合しているのが苦手だと、さっき言われていたか。
確かに壁の見た目は蟻の巣穴が密集しているようで、ずっと見ていると背筋がぞわぞわしてくる。
「ちがうぞ、矢凪。こいつを神に戻すために、みてぐらとして村人の魂を捧げたんだ。だから、とっくに肉も、魂も消費されて、どこにも残ってないぞ」
「胸糞悪い話よねー。怪異の時だって、カギュー様はいきどまりに連れてってくれるんだから、わざわざ神に戻さんでもいい話だってのに」
微睡む浅沼忠を刃物のような視線でねめつけ、為成は「大方」と呟いた。
「怪異に頼るより、神に頼った方が良い……まだ怖くない、と思ったんじゃないか」
怪異である時のカギュー様が、本当に楽園であるいきどまりに連れてってくれるとは限らない。もしかすればそこは、永劫の苦しみを味わい続ける最悪の場所かもしれない。いや、奈落に真っ逆さまに落ち続けるかもしれない。得体のしれない何かに、身体を永遠についばまれ続けるかもしれない。
ならば、神としてなら? かつて集落を救った時の、神としての力を持ったカギュー様であれば、己の望む楽園へ連れて行ってくれるのでは。
「そう考えたんじゃないか? 臆病なこいつが考えそうなことだ」
「馬鹿か」
「馬鹿なのよ」
腫れた右足をぷらつかせて頷いていると、飛び跳ねるように近づいてきたアオが、片方の前足をちょいと上げた。
「ねー、じょーげん」
「どしたの、アオちゃん」
「オレ、あきたー!」
元気一杯に宣言するアオ。そのまま丞幻達の周囲を、ぐるぐると駆け回り始めた。
「あらー、飽きちゃったの」
「あきたー! おんしぇん、おんしぇん行きたいー!」
「おれも飽きたぞ、丞幻。もう後のことは、あの異怪に任せて温泉行こう。取材はもう十分だろ。な? 温泉入って、まんじゅう食べたいぞ」
言ってシロは、矢凪の腰をぽんぽんと叩いた。
「な、矢凪も温泉に入って、酒飲みたいよな。年増が言ってたぞ。あそこの近くの川に紅葉鮎っていうのがいて、それの塩焼きが酒にものすごーく合うんだ……って」
矢凪はぐんっ、と勢いよく顔を向けた。金色の瞳が、まだ見ぬ紅葉鮎への熱い思いを宿して燃えている。
「おい、温泉行くぞ」
「温泉、温泉、温泉っ」
「おんしぇーん!」
きゃっきゃ、とシロとアオが手を叩いて囃したてる。三対一。これは分が悪い。
「そうねー……」
こんな異界に巻き込まれはしたが、元々は取材旅行だった。カギュー様の話を現地の人から聞いて、あわよくば怪異譚の一つ……と思っていた所にこれだったので、取材という点では上出来すぎるほどに上出来だろう。
目々屋敷に出す怪異は、あの阿呆の肉塊にするか。巫女姫の方には別の怪異を……いやいっそ、巫女姫二人が目々屋敷に迷い込むという展開も面白そうだ。
ふーむ、と口髭を撫でて唸る。
「となると、もっかい最初から書き直しねえ……」
会話を聞いていた為成が振り返って、快活な笑みを浮かべた。
「ああ、紅葉鮎か。確かに今時分なら、程よく脂がのって美味しいだろうなあ。あとあそこで、紅葉羊羹っていう羊羹が売ってるんだが、あれは美味いぞ」
露骨な態度で、シロはそっぽを向いた。おもむろに毬をつき始める。
「兄さん、姉さん、ちんとんしゃん。わたしゃ三頭のお社に、玻璃竹提灯ぶら下げてー」
「矢凪ー……」
めっそりと、肩を落とした為成が矢凪を呼ぶ。きっ、と矢凪の眉が吊り上がった。
「俺を一々呼ぶんじゃねえよ! そいつの保護者はこっちだ、こっち!」
「丞幻殿……」
蚊の鳴くような声で名を呼ばれて、丞幻はぽり、と頬をかいた。
別行動していた間、こうも露骨に無視をしていたのか。これは成程、「どういう教育を」と言われるわけである。今にも泣きそうにしょぼくれている為成の銀髪に、心なしか艶が無い。心折れるのが早くないか、こいつ。
「まあ、シロちゃんは美味しいお菓子が好きだから。誠意を持ってお菓子をあげて謝れば、そのうち許してくれるわよ」
多分、と付け加えるのを忘れず、改めて周囲を見渡した。高い白壁。左右どちらにも道は伸び、果てまで続いている。
留まり小路から脱出する方法は、書物には明確に記されていなかった。しるべ鳥は馬鹿助手に壊されてしまったし、いっそ真白の瓢箪で脱出しようか。いやいや、それで出口がずれて、うっかり致死率百割の異界へこんにちはー、は御免だ。
「さーて、どうやってここから出ようかしらねえ」
「よし壊すか」
「蛮族は黙ってて」
「あ?」
壁を壊そうと握られた拳がこちらを向き、頬をぐりぐりと抉ってくる。拳の骨部分が、いい具合に頬骨に当たって地味に痛い。
毬つきを止めたシロが、頬を餅のように膨らませた。
「年増に頼むのはやだからな、丞幻」
「まかしぇて! オレがでぐち、みちゅけてあげう!」
「丞幻殿」
「んー?」
青い目をキリッとさせ、やる気に満ち溢れたアオが鼻をひくつかせているのを見ていると、名を呼ばれた。
見れば立ち直ったらしい為成が胸の前で両手を絡め、印を組んでいる。
「……」
矢凪の身体が、緊張するかのように強張った。ざり、といつでも飛び掛かれるように足が動く。その肩をぽんと叩いて、丞幻は首を横に振ってみせた。あれは、異界から抜け出す術を使う時に結ぶ印だ。別にこちらを攻撃しようというわけではない。
「これ以上、異界に市民を滞在させておくわけにもいかない。直接的な危機はもう去ったろうし、現世まで送ろう」
「あら、いいのん?」
「ああ」
言って、為成は眉を下げて笑う。
「丞幻殿は異怪奉行所にも、神祇方に属していない。なら俺にとっては、鉦白家の者とはいえ守るべき民の一人だ。矢凪も、そこのちび達もな。危ない所に、いつまでもいてほしいとは思わんさ」
だからここの後始末は任せて、戻ったらゆっくり温泉に浸かりに行ってくれ。
為成は軽く息を吸い込むと、目を閉じた。彼の周囲がぴん、と冬の空気のように張り詰める。
「掛けまくも畏き水萩鼠野媛」
手指が複雑に絡み合い、呪言が紡がれていく。それに従って、為成の霊力が渦を巻きだした。無風だった空間に風が巻き起こり、三つ編みが尾のように揺れる。
「――速やかに現世へ帰し給えと、かしこみかしこみも白す」
呪言が終わる。目を開けた為成が、胸の前で二度、柏手を打ち鳴らす。
限界まで高まった為成の霊力が水と変じて大波のように押し寄せ、丞幻達を飲み込んだ。
〇 ● 〇
は、と気づけば丞幻達は、東丸村のど真ん中に座り込んでいた。
青い空と、それに映える茅葺屋根。家々から漂う饐えた臭い。異界に行く前と変わらず、村に人の気配は無い。だが瘴気もなにも感じない、元の場所だ。どうやら、きちんと戻って来れたようだ。
頭上を見上げる。太陽の位置からして、今は夕七つ(午後四時)くらいだろうか。もう四半刻もすれば、夕焼けが迫ってくるだろう。
「……戻ってこれたのか?」
隣で尻餅をついた矢凪が、呆然とした様子で周囲をくるりくるりと見渡している。熱を持って痛む足に渋い顔をしながら、丞幻は頷いた。
「ん、戻ってこれたわよ。笹山殿の術のおかげでねー」
いくらカギュー様が神とはいえ、所詮は信仰から生まれた流行り神。天大神によって生み出された水萩鼠野媛は、それより遥かに格上の天神だ。その神の力を借りた術なのだから、戻って来れない筈が無かった。
「しかし、笹山殿ってかなり腕が良いのねえ。あの術って、そうそう成功しないんだけど」
「あいつのおかげってなぁ、なんか癪だな」
薄茶色の癖っ毛を引っかき回して、舌打ちを打つ矢凪。借りができちまった、とでも言わんばかりにばりばり頭をかく助手を、まあまあと丞幻は宥めた。
「ワシじゃあ方法は知ってても使えないし。お前に教えた所で、すぐに使えるわけじゃないし。真白ちゃんの瓢箪で賭けするわけにもいかんしねえ」
「賭けた方がまだマシだったぜ、糞が。あいつに借り作ると、面倒くせえんだよ」
「そうなの?」
眉間に深い皺を刻んで、矢凪は頷いた。
「朝顔の世話頼まれんだ」
ぱちくりと、矢凪は瞬きをした。それだけか。
表情に出たのだろう、矢凪の皺がますます深くなった。
「六十鉢くれぇあるぞ。あいつの朝顔」
「あらま……そりゃ大変そうねえ。頑張ってね、矢凪」
ぽん、と肩を叩いた手が、ぎちりと握りしめられる。じわじわと、握る手に力が込められていく。痛い。地味に痛い。
「て、め、え、も、や、る、ん、だ、よ」
「ごめんねえー。ワシ、筆より重いもの持ったことない、よわよわ作家ちゃんだからー。朝顔なんて重たいもの、とてもじゃないけど持てないわー」
うふふー、と笑って矢凪の睥睨を躱す。その膝を、ふくれっ面のシロが軽く蹴飛ばした。
「おい丞幻、矢凪、朝顔なんてどうでもいいから温泉。温泉行こう。おれ、温泉で売ってる紅葉ようかんが食べたい」
「たびたい! もみじよーかん! よーかん!」
「はいはい。じゃあ、椛温泉行きましょうねー」
立ち上がって尻の砂埃を払った矢凪が手を出してきたので、それに掴まって立ち上がる。
シロとアオは一刻も早く温泉へ行きたいようで、村の入口で「はやく!」と声を荒げながらぴょんぴょん飛び跳ねていた。
「今から行って空きがあんのか?」
「無かったら野宿かしらねえ」
矢凪の肩に縋って歩きながら、無人の村を振り返る。寂しげに風が鳴いて、乾いた砂が巻き上がった。
いきどまりに行きたい男の暴走で、普通の生活を奪われた村人達。浅沼忠さえ来なければ、今も安穏と日々を過ごしていただろう。
その運命を哀れには思うが、同情した所で彼らが還ってくるわけではない。それに見ず知らずの人達が怪異の犠牲になった事に胸を痛めるほど、繊細な心を持っているわけでもない。
「どうした?」
「んー? 椛温泉にはどんなお酒があるかしらねー、と思って」
無人の東丸村に、黙祷を一つ。
それで村に心を傾ける事を終わらせ、丞幻はにこりと笑ってそう言った。
〇 ● 〇
――留まり小路のいきどまり。
一人になった為成は、浅沼忠の頭に向き直った。その唇には、酷薄な笑みが浮かんでいる。
「さてと。そう簡単に、重罪人を逃がすと思ったか? お前、異怪奉行所を甘く見過ぎていないか」
人の身を捨てて怪異に落ち、あるいは異界に逃げ込み己が犯した罪から逃れようとする。そういった事例は、実はそこそこあったりするのだ。――だから、その対策もきちんと異怪奉行所には存在している。
異怪奉行所の同心でありながら、そこへの考えが至らなかったとは。やはりこいつは、阿呆としか言いようがない。
すい、と胸の前に両手を持ち上げ、指先を合わせる。
銀の瞳が、喜悦に緩んだ。
「お前が神として呼んだとはいえ、所詮カギュー様は天神じゃあなく流行神。なら、それより位が上の神を召喚したてまつり、お前の魂をこちら側に引き戻すまでだ」
人の身体は、流石に戻す事はできないが。いきどまりで寝こけているこの魂を、正気に戻す事くらいならできるのだ。
「お頭の神様が、俺を指名する訳だ。俺の実家は、魂呼びの神様を祭神としてお祭りしている神社だからなあ。魂を戻すのはうってつけってわけだ」
だから為成も、浅沼に強く当たられていたのだろう。為成もまた、祓い屋や神主になるべくして生まれていながら、別の道を歩んでいた者だったのだから。
理由が分かってしまえば簡単な事だが、やっぱり過去の諸々を思い出せば腹が立つ。
「村一つ潰して、のうのうとできると思うなよ。魂だけの状態だろうと、きっちりと罪を償わせてやるから、覚悟しておけ」
ぱん、と柏手を鳴らした。目を閉じ、静かに呪言を唱えだす。長々と唱えられた呪言が終わり、二呼吸ほどの間が開いた後。――すすり泣く男の声が、いきどまりに響いた。
怪異名:カギュー様(封印予定)
危険度:丙改め甲
概要:
東丸村付近で伝わる怪異。
東丸村とその近辺に存在する袋小路に迷い込み、そこから戻ろうとすると異界『留まり小路』に迷い込む事が多い。
その異界は白い道と壁が存在し、迷路のように道が幾重にも分かれている。迷い込んだ者がどうにもできずに絶望すると、その場に現れ『いきどまり』に導くと伝わっている。
(追記)元はその近辺に存在していた、落人の集落で崇められていた流行り神。
信仰を得た事で生まれたが、信奉者を全員神隠しにした為に己を信奉する者がいなくなり怪異に堕ちたとのこと。
異怪奉行所同心・浅沼忠により東丸村の住人四十七名が、カギュー様への弊として捧げられ、カギュー様が一時的に神として顕現。
浅沼忠の霊力、魂、肉体を取り込んだ事により性質が変容。
『いきどまり』について書かれた紙片を読み上げる事で、留まり小路に迷い込むようになった。また検証の結果、その紙片は東丸村付近ばかりでなく、貴墨にも出現する事が判明した。浅沼忠を取り込んだ為とみられる。←クソが
性質の変容の為、危険度を甲に引き上げ。また、神祇方と協力し封印予定。←日程、人選未定。
なお、一連の事件を引き起こした浅沼忠の肉体は既に取り込まれ、魂も変質していたが奉行所同心・笹山為成により魂をカギュー様より切り離される。
魂が半分に分かたれていたので、自我が朧げであり何を問うてもすすり泣くばかりで話は聞けず。←拷問しても泣くだけだった。つまらん。←あんたには後で話があるよ。お頭より。
罪状の大きさを鑑みて、浅沼忠の魂は堅洲國送りとする。
『貴墨怪異覚書』より抜粋。




