十三
〇 ● 〇
思ったより小さいのだな、と僅かに残った冷静さがそう思考した。
目の前に、カギュー様が降臨した。
瞑目した禿頭の男。その顔が、蝸牛の殻へと繋がっている。一見して怖気が走るような姿に見えるが、それを怖いとは思わなかった。
薄い唇にたたえられた微笑は、まるで万物全てを受け入れるのだと、そう言っているかのように美しく穏やかで。それを見た途端に、目から涙があふれて止まらなくなった。
「あ……ああ……」
カギュー様は、穏やかに微笑んだまま動かない。まるで、むずかる子を見守る母のように。
己の手が、勝手に伸びる。初めて母を見て、それに触れてみようとする赤子のように。
おずおずと伸ばした指が、カギュー様に触れる直前、空をかいた。触れれば消えてしまうかもと思えば、触る事が躊躇われた。
カギュー様はこちらを認識しているのか、していないのか。何の反応も示さない。ただ目を閉じ、微笑み、その場にいるだけだ。
ごくりと、喉仏が上下した。言葉を出さなければと思うのだが、息が詰まる。かの微笑が、彼から言葉を放つという行為を奪っていた。
「カギュー……様……」
しばし、貝のように口の開閉を繰り返し。その後に絞り出されたのは糸のようにか細く、希うような声であった。
「いきどまり、に……私を……いきどまりに……どうか……」
何度も指を拳の中に握り、放し、握り、放し……逡巡の末、人差し指の爪先で、カギュー様の頬骨の辺りに、触れる。
――瞬間。
「……あ…………」
頭の中が、真っ白になった。
胸の中でどろどろと渦巻いていた不安が、恐怖が、妬みが、憎しみが、黒いものが全て、美しい水で押し流されるように消えて、真っ白になっていく。
怖くは無かった。柔らかな腕で抱きしめられたような、安堵感と倦怠感だけが心を満たしていく。
――これが、いきどまり。
――みらいも、いまも、かこもない。
――なにもない、ただ、たゆたっていられるだけの、おだやかなくうかん。
――ああ、ここに、きてよかった。
〇 ● 〇
「まあ、よーするにアレだな、アレ」
「どれよ」
硬い毛並みを撫でながら問うと、低い声が返ってきた。ばっふばっふと、長い尾が揺れる。
「えーっとなあ、カギュー様に『いきどまり』に連れてかれた奴はな、この世の未練とか悩みとか、負の感情とか全部、べりって剥がされちまうんだ。だって楽園に行くのに、そーいうどろどろした奴って、いらねえだろ?」
「まあ、そうねー。悩みも苦しみも無い所で揺蕩っていたいのに、そんなのは邪魔なだけよねー」
ぴこぴこと揺れる三角の耳を、丞幻はむぎゅっと引っ張る。丞幻を背に乗せた巨大な青い狼――蒼一郎は、やめろよー、と特に気にした様子もなく笑った。
丞幻とアオは穴に落ちた後、気づいた時には屋敷の廊下にいた。右を見ても左を見ても、端が見えない程に長い廊下だ。両側の壁には等間隔で襖が並んでおり、どこもぴっちりと閉じられていた。そうしているうちに足音がして、振り返れば数多の浅沼忠がこちらに迫ってくる。慌てて蒼一郎に代わってもらい、後はずっと廊下を追いかけっこである。
蒼一郎は太い四つ足を駆り、廊下を駆け抜ける。爪が廊下にぶつかる音を響かせながら、続きを口にした。
「んでな。そーいういらねえ、余分なモンは取っちまって、未練の無い姿になったそいつを、いきどまりに連れてくんだ」
にひひ、と蒼一郎は笑った。
「気ぃつけろよー、丞幻。オマエ割と、うっかりちゃっかりひっそり留まり小路の先で絶望して、オレ達にご飯をくれないまま、いきどまりに行っちゃいそうだからなー」
「……蒼一郎ちゃん、ワシになんか恨みあるのかしらん?」
「別にー。ただ毎回毎回、〆切ギリギリまで溜め込んで、狂うの止めてほしいなーって思ってるだけだぞ。こないだみてーに、異界に逃げ込まれちゃたまんねーし」
む、と丞幻は苦い顔をして、口髭を撫でる。
「はいはい、善処するわよ。……じゃあ、その引っぺがされた未練の結果が、これってわけね?」
背後から、生木を引き裂くような音が断続的に響く。蒼一郎の背に跨りながら背後を振り返って、丞幻は顔をしかめた。
蒼一郎が頷く。
「そー。まあ、引っぺがされた未練の塊なんて、ほっときゃ風化してすぐ消えちまうんだ。なのに、ここまで肥大化するなんてなあ。祓家の血筋のせいなのか、未練が強すぎるせいか、そこは分かんねーや」
ちゃっ、ちゃっ、と爪の音を立てながら、蒼一郎は首をひねる。手を伸ばしてその首をわしゃわしゃ撫で、丞幻は「まあ」と呟いた。
「未練が強すぎたっていうか、カギュー様が力を貸してんのよ。自分を信仰する奴なんて久々だもの、引っぺがした未練の方にまで加護を大盤振る舞いしてんの。……あいったたた」
ずきん、と頭の天辺を貫くように激痛が走って、思わず歯を食い縛った。身体が硬直したのに気づいたのか、蒼一郎がくうと鳴いた。
「大丈夫か、痛えか? ごめんな、オレもうちょい遅く走りてーけど、そしたら追いつかれちまうから」
「だいじょーぶ。折れてないだけ良いってもんよ」
心配そうな声音に、ぽんぽんと毛並みを叩いて丞幻は笑った。
右足首から脳天に向かって、ずきん、ずきん、と目の覚めるような痛みが響く。ここに着地した時、下手に捻ってしまったようで、右足首は赤黒く腫れてしまっていた。熱も持っているようで、ひどく足首が熱い。
もしかしたら骨に罅くらいは入っているかもしれないが、多分折れてはいないだろう。以前足を折った時は、もっと痛かった。
背後から響く、耳をつんざくような声に渋面を作る。ああ、うるさい。
「蒼一郎ちゃんはお口だいじょーぶ?」
「おう。薬塗ったから、まあまあ平気だ。すこーし身体は怠いけど、祓いの力食らっちまったからしょーがねえや。まあ、丞幻を守るくらいはできるから、大丈夫だぞ」
「まー、ありがとー。蒼一郎ちゃん優しいわー」
わしゃわしゃと蒼一郎の頭を撫でながら、丞幻は背後を振り返った。
――かねしろじょうげんかねしろじょうげんかねしろじょうげんかねしろじょうげんなぜなぜなぜなぜなぜおまえはおまえはおまえははらいやでなくはらいやでなくはらいやでなくわたしはわたしはわたしははらいやではらいやでおまえはおまえはおまえは――――――!!
幾重にも重なった絶叫が木霊する。
それは一目で、潰れかけた饅頭に見えた。全長は十尺もあろうか。人体をひっくり返したような、肉色の表面。その所々に白や赤色の筋のようなものが走り、規則的に脈打っている。
それだけでも気色が悪いというのに。ぼこぼこ、ぼこぼこと、肉饅頭のあちこちに浅沼忠の頭が生えていた。にきびのようなそれをぶるんぶるんと揺らしながら、肉饅頭はなめくじのように廊下を這いずってくる。
なめくじと違うのは、馬より速い蒼一郎の足に追いつこうというほど、速いという事だろうか。下の方にも顔が生えているので、畳とでかい図体に潰されて絶叫を上げている。
追ってきていた子ども姿の浅沼忠達はいつの間にか寄り集まり、重なり合い、一つの巨大な塊となっていた。それが周囲を破壊して追ってくるのだから、たまらない。
襖や壁が破壊される凄まじい音に負けないくらいの声に、丞幻は怒鳴り返す。
「うるっさいわああ! お前の妬みも憎悪も、ワシには知ったこっちゃないのよ!」
――なぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜおまえおまえおまえおまえおまえわたしもわたしもわたしもわたしもなりたくてなりたくてわたしもわたしもなりたくてなりたくてなれないのになれないのになれないのになぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜ
しかし返ってきたのは、支離滅裂な喚き声のみ。
ちっ、と鋭く舌打ちする。
「くっそ、あいつもう自我とかそういうの無いわね」
「まあ、そうだろうなー。あの肉饅頭にあるのは、オマエを憎んで妬んで羨んで、ぐちゃぐちゃになった感情だけだろーし」
「さっき視た時は、父親と祖父に対しての恐怖とかもあったんだけどねえ」
「それを飲み込むくらい、オマエへの感情がでかかったんだろー」
「うえー。どんだけ負の感情溜め込めば、あんなつくねが出来上がんのかしら」
蒼一郎は、うへえ、と舌を出した。
「丞幻、やめろよー。オレ、つくね好きなのに」
ぢゅるるっ、ずるるるっ、という粘つくような音を立てながら追ってくる肉塊が、絶叫に似た咆哮を上げる。
金属を引っかくようなそれに顔をしかめ、丞幻は首を掻っ切る仕草をしてみせた。
「覚えてなさいよお前、自信たっぷりに出てきた瞬間に巫女姫達にぼっこぼこにされる雑魚敵にしてやるからね!!」
「へー、巫女姫の続き、出していいって言われたんか。良かったなー」
「評判が良かったみたーい。……蒼一郎ちゃん、そこ右!」
「おー!」
ぎゃりり、と深い爪痕を廊下に刻んで、蒼一郎が急激に右に曲がる。右手の襖を体当たりでぶち破り、室内に転げ込んだ。
振り返れば、勢いを殺せず肉塊が廊下の向こうへ消えていくのが見えた。いずれ態勢を整えて追いかけてくるだろうが、時間は稼げる。
ぱたぱたと尾を振って、蒼一郎が見上げてきた。
「んで、どーすんだ丞幻。闇雲に逃げてきたわけじゃねーだろ?」
「ったりまえでしょ」
こちとら嫌な事を思い出すわ、無数の子どもに囲まれるわ、穴に落ちるわ怪我をするわ追いかけられるわで散々なのだ。
やられっぱなしは性に合わない。なんとしてでも一矢報いる、いや仕留める。
飛び込んだ部屋はまたしても広い座敷になっていた。広い座敷が多いのは、幼少期にそこに住んでいたであろう、浅沼の記憶によるものだろうか。
「蒼一郎ちゃん。いい? あいつが入ってきたら、ワシをあいつに向かってぶん投げんのよ」
「いいけど、だいじょぶか? オマエ、怪異を倒す力ねーだろ。オレがやるから、オマエは下がってていいんだぞ?」
「ありがとねー、でも大丈夫」
するりと蒼一郎の背から滑り降りる。途端に右足が痛んだが、表情には出さず奥歯を食い縛るだけに留めた。
身体を支えるように、蒼一郎が丞幻の傍に寄る。無言の優しさに青い毛並みを叩いて、丞幻は帯にさしていた十手を引き抜いた。
半眼で、砕けた襖の向こうに見える廊下を睨む。
「こーこまでコケにされて、それで蒼一郎ちゃんに助けてもらってみなさいよ。あのつくね、消滅する前に言うに決まってるわ。『ほら見たことか、霊力も無い鉦白家の長子め。どうせお前は怪異に手伝ってもらわなければ何もできない愚図なんだ』って。あー! 腹立つ! だぁれが愚図よ、愚図! 言いたい事言えずに溜め込んだ挙句に、四方八方に迷惑かけまくって怪異に身売りしたお前に言われたかないわー!!」
十手をぶん回し、想像上の肉塊に怒鳴る丞幻。
ひょんと青い尾を振り、蒼一郎はぼそりと呟いた。
「や、それオマエの想像だろ。想像にそんな怒んなよなー」
そんなふざけたやり取りをしている間にも、ぶぢゅるるる……ぢゅずず……とぬめった音が近づいてくる。
こちらに恐怖を与えようという腹なのか、ゆっくり、殊更ゆっくりと音は近づいてきた。
「そいで? オマエをぶん投げるのはいいけど、そっからどーすんだ?」
「カギュー様が、あいつに与えてる加護の塊をぶっ壊すのよ。そしたらあれは、ただの未練の塊。その内風化して消えるんでしょ?」
くう、と困ったように青い狼は鳴いた。
「でもよお。加護の塊って言っても、どこにあっか分かんねえだろ?」
「分かるわよん。蒼一郎ちゃんに逃げてもらってる間、あいつを隅から隅まで視たもの」
そうしたら、見つけたのだ。あの巨体にぼこぼこと生えた顔の一つから、違う気配がする事に。留まり小路に似た空虚な、それでいてじっと視ているとなぜか安心感を覚えてしまうような、あの独特の空気。
感じ間違うはずもない。あの顔が、カギュー様からもらった加護の塊がある場所だろう。
そいつを破壊すれば、あの肉塊は崩壊するか、力を失うか。さて、どちらかは分からないが、信奉している奴から貰ったものを思い切り叩き壊してやるというのは、さぞかし気持ちいいだろう。
「さて蒼一郎ちゃん、準備はいいかしらん?」
「おー」
ぽんと首を叩き、問う。ひょんひょんと尾を振って、蒼一郎は気の抜けるような声を上げた。




