一
――ひも、むすびましょかあ……。
――ひも、むすびましょかあぁ…………。
〇 ● 〇
「ぶぅらり、しゃぁらり、友引娘。ぶぅらり、しゃぁらり、友引娘」
「娘が行くよ、娘が来るよ、くるりと紐かけ娘が行くよ、童の紐引き娘が来るよ」
「ぶぅらり、しゃぁらり、友引娘。ぶぅらり、しゃぁらり、友引娘」
気持ちの悪い歌が横を通り過ぎて、思わずおそねは立ち止まった。
今から家に帰るのだろうか。娘が三人仲良く手を繋ぎ、暮れ行く夕日に向かって歩いて行く。その様子自体は微笑ましいのだが、口ずさんでいる歌がどうにも気味悪くて仕方がない。
「嫌だ、なんの歌だろう」
おそねが歩いて来た方向へ去って行く娘達を見送って、首を捻る。
しかし考えた所で答えは出ないし、往来で立ち止まっては邪魔になる。早々に考えを切り上げ、手にした風呂敷包みを一つ揺らして歩みを再開した。
おそねは藍染の着物をまとい、稲穂のような金髪をくるりとひっつめて花簪をさした女だ。どこにでもいるような中年増なのだが、玉のような汗が浮いたうなじに絡む後れ毛が、なんともいえない色香を漂わせている。
「さ。急いで帰らないと……」
病に倒れた亭主に代わって、おそねは半年ほど前から蛙田沢にある小さな飯屋に働きに出ていた。二十八年ほど生きていて外で働く事など初めてであり、どうしたものかと最初は思ったが、なんとかやれていた。
元々忙しい店では無い為、仕事自体は楽なものだ。おまけに、おそねの事情に同情した優しい老店主が日当を弾んでくれるので、懐事情はそれなりに暖かかった。おかげで家族三人、食うに困る事無く暮らす事ができている。
「坊が喜んでくれるといいけど」
今日は珍しく客が多かったので、店主が「今日はご苦労様だったねえ」と日当をいつもより弾んでくれた。おかげで溜まっていた薬代も払えたし、夕餉に使う野菜の他に、坊への土産の菓子も買えた。
ぱっちりとした目が亭主にそっくりな坊は、今年で四歳。まだまだ甘えたい盛りだろうに、言いつけを良く守って家で亭主と留守番をしてくれている。
それがおそねには、たまらなくいじらしかった。
「ふふっ。待っててね、すぐ帰るからね」
ああ、今から喜ぶ顔が目に浮かぶようだ。懐に手を当て、おそねがにっこりした時だった。
――…………ま…………か…………ぁ。
「……えっ?」
か細い、蚊の鳴くようにか細い声が、後ろから聞こえた。
おそねは思わず立ち止まり、振り返った。通りの両側には居酒屋や飯屋が連なり、夕暮れ近くとはいえ人が多い。それに応じて、耳には賑やかな声がひっきりなしに飛び込んでくる。
だから、あんなか細い声、聞こえる筈が無いのに。
「……気のせい、かしら」
きっとそうだ。風の音か、なにかだろう。それを声だと聞き違えたのだ。
おそねは顔を前に戻して足を進めた。ほんの少し、先ほどより早足で進む。歯の擦り切れた下駄がかこかこと鳴った。
――ひ…………ま…………かし…………ぁ。
「……っ」
また、声が聞こえた。
さっきよりも、近くで。
勢いよく振り返る。通りを行き交う分厚い人波の向こうに、影が見えた。不気味なほど赤い夕陽のせいで、それは黒い影法師にしか見えない。
さっきのか細い声は、その男か女かも分からない影法師から放たれたのだと、謎の確信がおそねの中にあった。あの声は、他でもない自分に向けられたのだという事も。
じわり、と葉月の暑さの為ではない汗が背を伝う。
「……落ち着いて……大丈夫、落ち着いて…………」
――訳の分からんモンに会ったら、何事も無かったふりをして、素知らぬ顔で通り過ぎるがええ。こちらが気づいていると分かったら、連中、図に乗ってますます寄ってくるけぇ。
遠い昔、祖母が話した言葉が胸をよぎった。
風呂敷包みを下げた右手首を、ぎゅうと握りしめる。手首に巻いた紐の感触が掌に伝わる。
怪異から身を護る術が編み込まれた組紐。おそねが外へ働きに出ると言った時、亭主がなけなしの金で買ってきたものだ。大袈裟な、と一笑に付したこの紐が、今はこんなにも心強い。
これがあるから大丈夫。後は、何も無かったふりをして、通りを抜けてしまえばいい。
青物が包まれた風呂敷包みを胸にしっかと抱く。駆けては向こうに気づかれる。家路を急いでいる風に見せかけて、早足で通りを進んだ。
――ひ…………むす……ましょ…………ぁ……。
「ひっ……」
ざわめきを縫うようにして耳朶に入り込む弱々しい声に、小さな悲鳴がまろび出た。
泥のような恐怖と不安が、涙となって頬を伝った。心臓が痛いくらいに踊り狂っている。がむしゃらに叫び出したくなって、それでも気づいている事に気づかれてはいけない、とおそねは唇を噛みしめて、悲鳴を封じた。
とにかく前へ、と恐怖と緊張でぎしぎし鳴る膝を必死に動かす。
どうして誰も聞こえないの。どうして自分だけに聞こえるの。どうして自分なの。組紐があるのに。これがあれば怪異から身を護れる筈なのに。どうして声をかけてくるの。
――ひ……むすびましょ……かぁ……。
段々と明瞭になっていくか細い声がおぞましい。夕日はどんどんと沈んでいき、暗い影が忍び寄ってくる。道の左右に点々と立つ背高提灯が、ぼんやりとした明かりを放ち始めた。
左右からの白い明かりに照らされながら、おそねの足は止まらない。止まれば歩けなくなるからだ。
かこかこかこかこ、騒がしく下駄が鳴る。
大丈夫。もう少しで通りを抜けたら、船着き場に着く。そこから小舟に乗れば、家はすぐだ。川を渡ってしまえば、流石に声の主だって諦めるだろう。もう少し。もう少し。大丈夫、もう少し。
通りの切れ目が見えて、『船着き場』と書かれた提灯が見えた。青いそれにほっとした瞬間。
「ひも……むすびましょかあぁ……」
すぐ後ろから響いたはっきりとした声が、鼓膜を震わせた。
「ひいぃっ!?」
引き攣った悲鳴が喉から飛び出て、おそねの足がついにもつれた。
均衡を崩し、前へ倒れ込む。下駄が脱げてどこかへ飛んでいく。風呂敷がほどけて、硬い地面に青菜や茄子がばらまかれる。
「ひも……むすびましょかあぁ……」
「たっ、たす、たすけ……ッ」
ひぃひぃと息を乱しながら顔を上げたおそねの瞳が、音を立てて凍り付いた。
通りには誰もいなかった。
「ぇ、あ、なに、なんで」
先ほどまで、何人も歩いていたのに。賑やかなざわめきだって聞こえていたのに。どうして。なんで、こんな急に。
夕日が落ちきって、薄青い空気が空っぽの通りを満たしていた。背高提灯から漏れる玻璃竹の白い明かりが、ひどく空々しく見える。
風も虫もいない無音の世界に一人、おそねは取り残されていた。
「ひも……むすびましょかあぁ……」
いや、青い静寂を乱すものはもう一つあった。
か細いか細い、男女ともつかぬ声。たった一つの言葉を、おそねの背後にいるそれは繰り返していた。
「ひも……むすびましょかあぁ……」
ふぅー……ふぅー……。
「ひも……むすびましょかあぁ……」
ふぅー……ふぅー……。
言葉が繰り返されるごとに、冷たい湿った空気がうなじに吹き付けられた。同時に糸束のような細いものが、肩の辺りをさわ、さわ、とくすぐる。
「あ……ぁ……」
おそねの脳内に、おぞましい光景が浮かんだ。
背後に立つ何者かが、ぐうぅ……っと背をかがめておそねに覆いかぶさっている。長く垂らされた髪を揺らしながら首筋へ顔を近づけ、一つの言葉を繰り返している――。
「ひも……むすびましょかあぁ……」
ふぅー……ふぅー……。
「いやっ!」
視界の端に、薄汚れて色も模様も分からなくなった振袖の袖が、ゆぅらりと揺れているのが見えた。咄嗟におそねは硬く目をつむる。
がちがち、と奥歯が鳴る。暑いはずなのに身体が震えて止まらない。涙が強張った頬を滑り落ちて、乾いた地面にぽつぽつと吸い込まれていく。
「ひも……むすびましょかあぁ……」
ふぅー……ふぅー……。
「ひも……むすびましょかあぁ……」
ふぅー……ふぅー……。
「いや……許して…………許して、堪忍して……」
もう立つ事はできなかった。腰から下はすっかり萎えて、力が入らない。怪異避けの守り紐ごと右手を握りしめて胸の中に抱き込み、ぼろぼろと泣きながらおそねはうわ言のように繰り返した。
助けて。許して。ごめんなさい。家に返してください。堪忍してください。どうか許してください。堪忍してつかぁさい。許してつかぁさい。
「ひも……むすび」
幾度許しを請うた時だろうか。
唐突に、背後のか細い声が途切れた。あの湿った息も、肩を触る髪も、幻のように消えている。代わりに人のざわめく音が、寄せる波のように耳に戻ってきた。
「おや、どうしたんだい」「大丈夫か、あんた」「医者を呼ぼうか」「立てるかい、姐さん」こちらを気遣うような声がいくつも聞こえた。
ああ……良かった。
「たすかっ……」
簪はどこかに転がってしまっていた。ばさばさに崩れた髪のまま、おそねは顔を上げ――。
一拍置いて、宵闇の空に女の絶叫が木霊した。